二章 第6話 「見られている」
地竜の背に上がる訓練は、日課になりつつあった。
最初の頃、見習いたちは鞍に手をかけるだけで息を詰めていた。地竜が一歩動けば肩を跳ねさせ、止まる時には手綱を引きすぎ、降りた後には足腰を震わせていた。
今も、慣れたとは言えない。
地竜の背は大きく、歩けば揺れ、止まれば身体が前へ持っていかれる。地面に立って見ている時より、ずっと竜の動きが近い。
それでも、手綱を引く前に地竜の首を見る者が増えた。歩き出す前に足の動きを見る。止まる時に、自分の身体が先に崩れていないかを意識する。
失敗はまだ多い。
けれど、誰もが少しずつ進んでいた。
クレアも同じだった。
怖さは消えていない。地竜の背に上がる時、指先にはまだ力が入る。地竜が首を動かせば、息を呑むこともある。
けれど、すぐに手綱を引かなくなった。
地竜の歩みが固くなると、クレアは自分の手元を見る。怖さで引きすぎていないかを確かめる。指の力を少し抜く。すると、地竜の歩みがわずかに戻る。
大きな変化ではない。
けれど、クレアはそれを見逃さなくなっていた。
「よし。次、止まれ」
竜舎番の声が飛ぶ。
クレアは手綱を握り、身体を少し戻した。強く引かない。地竜の歩みが止まる流れに合わせる。
地竜は数歩進んでから、ゆっくり止まった。
クレアの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
クロはそれを、別の地竜の背から見ていた。
「よかった」
小さく呟く。
その声は、訓練の音に紛れて、クレアには届かなかった。
クロ自身は、もう四足歩行型の地竜の背にかなり馴染んでいた。
鞍がある。手綱がある。足を置く場所がある。地面がある。
最初に感じたその安心は、まだ身体のどこかに残っている。けれど、今はそれだけではない。
地竜の背が上下する。足が土を踏む。首がわずかに動く。次にどちらへ重さが移るのか、身体の下から伝わってくる。
クロは、手綱を握りすぎない。
地竜が動こうとする前に、身体を少しだけ合わせる。止まる時には、手綱だけで引かない。曲がる時には、首を無理に曲げない。
駆け足になっても、クロの姿勢は崩れなかった。
土の上を、地竜の足音が一定に響く。短い距離を進み、曲がり、止まる。見習いたちの何人かが、もう驚き疲れた顔でそれを見ていた。
「あれは例外だ。比べるな」
レイヴンが、何度目か分からない言葉を投げる。
それで、見習いたちは少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、レイヴンの目はクロだけを見ていたわけではない。
クロが地竜の背で駆け足に入る。
そのたびに、地竜区画の奥で、短く鎖が鳴った。
太い柵の向こう。
踏み荒らされた土。
薄暗い影の中に、濃い茶褐色の地竜がいる。
金色の瞳が、クロを追っていた。
他の見習いには、ほとんど反応しない。クレアが乗っている時にも、わずかに顔を向ける程度だった。
けれど、クロが地竜の背で走ると、鎖が鳴る。
金色の瞳が動く。
レイヴンは、それを黙って見ていた。
クロも、視線には気づいていた。
背筋の奥を、誰かに見られているような感覚が通る。ふと奥の区画を見たくなる。金色の瞳が、こちらをじっと見ているのが分かる。
でも、クロはすぐに意識を戻した。
今は、背に乗せてくれている地竜を見なければ。
目の前の竜を見ないまま、奥の竜を見ることはできない。
「止まれ」
レイヴンの声が飛ぶ。
クロは地竜の歩みに合わせて身体を戻す。
地竜は土を軽く削り、ぴたりと止まった。
その直後、奥の区画で鎖が短く鳴った。
クロは、思わずそちらを見た。
柵の影。
濃い茶褐色の地竜。
金色の瞳。
目が合った。
その瞬間だった。
胸の奥へ、何かが突っ込んできた。
声ではない。
耳で聞こえたわけではない。
けれど、荒い。ぶっきらぼうで、遠慮がない。意味だけが、妙にはっきりしている。
人の言葉にするなら、そうとしか言いようがなかった。
――おめー、俺に乗れや。
「ひぃっ……!」
クロの耳が跳ねた。
全身の毛が、ぶわっと逆立つ。
尻尾が一瞬で太くなった。
地竜の背から降りかけていたクロは、鞍に手をついたまま固まった。
近くにいたクレアが目を見開く。
「クロ? 今、尻尾が……」
レイヴンの声が飛んだ。
「どうした」
クロは息を詰めたまま、奥の区画を見た。
金色の瞳は、まだこちらを見ている。
「……なんか」
声が少し掠れた。
「なんか、言われた……」
レイヴンの表情が変わった。
眠たげな目が、少しだけ鋭くなる。
「何てだ」
クロは言いにくそうに、耳を伏せかけた。
そのまま口にしていいのか分からない。けれど、他に言いようがない。
「……乗れ、って」
クレアが息を呑んだ。
「乗れ?」
レイヴンは、奥の区画を見た。
「誰が」
クロは濃い茶褐色の地竜から目を離せなかった。
「……あの地竜、たぶん」
沈黙が落ちた。
地竜地区の音が、少し遠くなる。
レイヴンは、クロを見る。それから、奥の地竜を見る。鎖がもう一度、短く鳴った。
クロは、その音に肩を揺らした。
レイヴンが何かを言いかけた。
その時だった。
ずしん、と。
さっきよりもずっと強烈な圧が、胸の奥へ叩きつけられた。
怒鳴り声のようだった。
けれど、やはり耳で聞こえたわけではない。言葉そのものではない。意味だけが、容赦なく押し込まれる。
――おい、そこの黒猫。
――俺様を無視するな。
――俺様を見ろ。
――俺様の背に乗れ!!
「うひゃあっ……!?」
クロの肩が跳ねた。
耳がぺたりと伏せる。逆立った毛並みがそのままぶるりと震え、太くなった尻尾がばさっと揺れた。
背中に、薄ら寒いものが走る。
膝が少し笑った。
顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「クロ!?」
クレアが駆け寄りかける。
レイヴンが片手で制した。
「動くな」
短い声だった。
クレアは足を止める。けれど、視線はクロから離れない。
「顔色が悪いですわよ……!?」
クロは青い顔で、奥の区画を見たまま小さく首を振った。
「あっ……圧が、強いっ……」
自分でも、変な言い方だと思った。
けれど、それ以外に言いようがなかった。
あの地竜の中から来るものは、近く、荒く、そして強い。こちらの都合をまるで考えない。
黒い竜の時に流れてきたものとは、違う。
あれはもっと深く、重く、痛かった。
これは、近すぎる。
押しが強い。
怖い。
近寄るなと言っているわけではない。
来い、と言っている。
それが、余計に怖かった。
クロの尻尾が、もう一度ぶわりと膨らんだ。
クレアが顔を引きつらせる。
「尻尾が、完全に別の生き物みたいになっていますけれど……!」
「わたしも、そう思う……」
クロは小さく答えた。
レイヴンは、クロの顔を見ていた。
耳。
尻尾。
逆立つ毛並み。
顔色。
そして、奥の地竜の金色の瞳。
すべてを見た上で、低く呼んだ。
「クロ」
クロはびくっとした。
レイヴンの声は静かだった。
「……お前、聲が聞こえるな?」
その言葉に、クレアが息を止めた。
クロも、すぐには答えられなかった。
聲。
そう呼んでいいのか、分からない。
耳で聞こえたわけではない。人の言葉のように届いたわけでもない。けれど、意味だけが来る。胸の奥に、直接押し込まれる。
さっきの地竜のように、乱暴に叩きつけられることもある。
黒い竜の時のように、深い場所から流れ込んでくることもある。
クロは耳を伏せたまま、ゆっくり口を開いた。
「……聲、なのかは分かりません」
少し間を置く。
「黒い竜の時も、そうでした」
レイヴンは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。
「そうか……」
それだけだった。
クロは、その一言に何かが含まれているのを感じた。けれど、それが何なのかまでは分からなかった。
レイヴンは、黒い竜の時に何を受け取ったのかとは聞かなかった。
何が流れてきたのか。
何を知っているのか。
そういうことを、今ここで問うことはしなかった。
クレアも何かを言いかけて、やめた。
代わりに、青い顔のクロを見て眉を寄せる。
「……今は、座った方がよろしいのではなくて?」
「うん……ちょっと、そうしたいかも」
クロは素直に頷いた。
レイヴンは奥の区画を見る。
濃い茶褐色の地竜は、まだクロを見ていた。金色の瞳に、苛立ちと催促のようなものを宿したまま。
低く、喉が鳴る。
レイヴンの声が落ちた。
「まだ、あの地竜には近づくな」
クロは、太くなった尻尾を揺らしたまま、小さく頷く。
「……はい」
今回は、とてもだけど近づきたいとは思わなかった。
あの圧は、強すぎる。
レイヴンは続けた。
「聞こえるなら、なおさらだ」
その言葉は、あの日と少し似ていた。
ーー今は触るな
あの時と同じように、境界線を引く声だった。
クロは奥の地竜を見た。
金色の瞳は、まだこちらを見ている。
背中には、薄ら寒いものが残っていた。
それでも、胸の奥に叩きつけられた意味だけは、消えなかった。
乗れ。
濃い茶褐色の地竜は、柵の向こうで低く喉を鳴らした。




