二章 第5話 「鞍がある」
竜舎仕事に戻り、地竜地区での訓練が始まってから、何日かが過ぎた。
朝の竜舎には、いつもの匂いがある。湿った藁と、革油と、水桶の水の匂い。竜の息が石床に落ち、尾が床をこする音が低く響いている。
クロは水桶を両手で運びながら、隣の区画を見た。
クレアが、寝藁を敷いていた。
以前なら、竜の尾が少し動いただけで肩が跳ねていた。鼻先がこちらを向くだけで、手袋の指先が固まっていた。
けれど今のクレアは、竜の動きを見てから、邪魔にならない場所へ回っていた。尾の届く範囲を避け、首を下げる道を空け、寝藁を少しずつ整えていく。
竜が水桶の方へ鼻先を寄せた。
クレアは一度置いた水桶を見た。少しだけ眉を寄せる。竜が首を曲げにくそうにしていることに気づいたらしい。
彼女は無言で水桶を持ち上げ、半歩分だけ横へずらした。
竜は大きく反応しなかった。ただ、次に首を下げた時、先ほどより自然に水を飲んだ。
クロはそれを横目で見て、少しだけ笑った。
クレアがすぐにこちらを見る。
「……何ですの」
「なんでもないよ」
「その顔は、何かありますわ」
クロは水桶を置き、手袋の指先についた水を軽く払った。
「水桶、そこに置き直したの、よかったと思う。あの子、飲みやすそうだった」
クレアは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ顎を上げる。
「……たまたまですわ」
「たまたまでも、見てたからできたんだと思う」
「朝からそういうことを言わないでくださいませ」
言い方はいつも通りだった。
けれど、手袋の指先は強く握られていなかった。
クロはそれ以上何も言わず、次の水桶を取りに行った。
それからも、午前の竜舎仕事はいつも通りに進んだ。
クレアは文句を言いながらも、竜の動きを見てから手を動かしていた。クロは何度かそれを横目で見たが、もう何も言わなかった。言えば、きっとまた「たまたまですわ」と返ってくる。
午前の作業が終わると、見習いたちは基礎訓練のために地竜地区へ向かった。
ここ数日で、その低く広い区画へ入ることにも少し慣れてきていた。飛竜区画とは違う重い空気も、腹に響く鳴き声も、最初ほど見習いたちを固まらせることはない。
それでも、今日の地竜地区はいつもと少し違っていた。
太い柱の向こうに、複数の地竜が並んでいる。
前に触れた地竜とは、だいぶ姿が異なる。
四足で低く立つ、トカゲに近い体つきの地竜たちだった。身体は大きいが、奥にいる濃い茶褐色の地竜ほどの圧はない。鱗は砂色や灰褐色で、背には物資運搬用の鞍や留め具に似た装具が置かれている。
レイヴンが見習いたちの前に立った。
「今日は乗る」
短い一言で、見習いたちの間にざわめきが走った。
クレアの手袋の指先が、ほんの少し動く。
クロの耳は、ぴんと立った。
「こいつらは、地上の物資運搬に出ている地竜だ」
レイヴンは、並んだ地竜たちへ顎をしゃくった。
「足は速くない。だが、長く歩ける。重い荷を運べる。地上任務じゃ欠かせねぇ」
見習いたちの視線が地竜へ向く。
飛竜のように空へ上がる竜ではない。速さで名を知られる地竜でもない。
けれど、広い王国の地上で荷を運び、補給を支え、人と物を繋ぐ竜たちだった。
「大人しい方だが、道具じゃねぇ。荷を運ぶ竜だからって、雑に扱っていい理由にはならん」
レイヴンの声は低かった。
「最初は歩く。止まる。曲がる。それだけだ。勝手に走らせるな。勝手に降りるな。手綱だけでどうにかしようとするな」
竜舎番たちが、地竜の横に立つ。
見習いたちは数組に分けられた。まず地竜の横へ立ち、鞍の位置を確かめる。手をかける場所、足をかける位置、背に上がる時の体重の預け方。ひとつひとつ、竜舎番が確認していく。
クロは、地竜の背に置かれた鞍を見て固まった。
「クレア」
「何ですの」
「鞍がある」
クレアは一度まばたきをした。
「見れば分かりますわ」
「手綱もある。足を置くところもある」
「普通はありますわね」
クロは地面を見た。
「地面もある」
「それは最初からありますわ」
クロは、しばらく黙ってから言った。
「……すごい」
「何に感動していますの」
「全部ある」
「あなたの基準が少し怖いですわ」
クレアの声には呆れが混じっていた。
けれど、クロは本気だった。
鞍がある。手綱がある。足を置く場所がある。竜がこちらを待っている。そして、地面がある。
それだけで、胸の奥が少し落ち着いた。
クロの番が来た。
竜舎番の補助を受け、クロは地竜の背へ上がる。跳び乗ったりはしない。地竜を驚かせないよう、鞍に手をかけ、足を置き、ゆっくり身体を上げた。
地竜の背は広かった。
クロは鞍の上で一度息を吸い、手綱を握る。
引きすぎない。
地竜が首を少し動かす。足元の土が小さく鳴る。次にどちらの足が出るのか、身体の下から伝わってくる。
「歩け」
竜舎番が合図する。
地竜が一歩進んだ。
クロの身体は、揺れに逆らわなかった。
もう一歩。
地竜の背が上下する。クロは鞍に沈みこまず、かといって浮きすぎもしない。手綱は握っているが、地竜の首を押さえてはいない。
レイヴンの目が細くなる。
「止まれ」
次の指示が飛ぶ。
クロは手綱だけを引かなかった。身体を少し戻し、地竜の歩みが止まる流れに合わせる。
地竜は、前のめりになることも、首を振ることもなく止まった。
「曲がれ」
クロは地竜の首を無理に曲げなかった。行き先を示し、地竜の足が入れ替わるのを待つ。少し遅れて、地竜が向きを変える。
見習いたちの視線が、少しずつクロへ集まっていった。
最初は歩くだけだった。
しかし、気づけばクロは短い駆け足に進んでいた。地竜の足音が、土の上で一定に響く。方向転換でも姿勢が崩れない。急に止まっても、前のめりにならない。
クロは楽しそうというより、感心していた。
鞍がある。
地竜が、こちらを待ってくれる。
地面がある。
その全部が、身体に染みているようだった。
他の見習いたちは、目を点にして見ていた。
まだ背に上がるだけで手いっぱいの者もいる。歩き出した瞬間に肩が跳ねる者もいる。止まる時に手綱を強く引きすぎて、地竜に首を振られる者もいた。
その中で、クロだけが地竜の背に自然に収まっている。
「……あれが普通なのか?」
誰かが小さく呟いた。
レイヴンの声が飛ぶ。
「誰もが最初から乗りこなせるわけじゃない。あいつは例外だ。比べるな」
その一言で、見習いたちは少しだけ息を吐いた。
クロは地竜の背から、ふと奥の区画を見た。
短く、鎖が鳴った気がした。
柵の影に、金色の瞳があったように見えた。
けれど、すぐに意識を戻す。今は、背に乗せてくれている地竜を見る時間だった。
クレアの番が来た。
彼女は地竜の横に立ち、手袋の指先を一度握った。
怖くないわけではない。
しかし、乗るとなると、触れるよりずっと怖い。地面は近い。空ではない。落ちても即座に死ぬ高さではない。それでも、竜の背の上に自分の身体を預けるということは、想像していたよりずっと重かった。
竜舎番が声をかける。
「ゆっくりでいい。鞍に手をかけろ」
「……はい」
クレアは鞍に手をかけた。
足を置き、補助を受けながら地竜の背へ上がる。身体が強張る。背筋を伸ばそうとして、かえって肩に力が入った。
地竜が少し首を動かす。
クレアの手が、反射的に手綱を握りしめた。
「歩け」
合図が出る。
地竜が一歩進む。
クレアの身体が揺れた。慌てて手綱を引く。すると、地竜の首がわずかに固くなった。歩みもぎこちなくなる。
クレアはさらに怖くなる。
落ちたくない。
止めたい。
揺れを抑えたい。
そう思うほど、手に力が入った。
地竜の歩みが重くなる。
クレアは息を詰めた。
違う。
ふと、そう思った。
これは、地竜が乱れているのではない。
自分が怖いから、止めようとしている。
地竜の動きを見ているのではなく、自分の恐怖を押さえ込むために、手綱を引いている。
クレアは、手袋の中で指を震わせた。
そして、小さく言った。
「……ごめんなさい」
誰に聞かせるためでもない。
乗せてくれている地竜へ向けた声だった。
クレアは、手綱を少し緩めた。
無理に止めようとしない。
地竜を見る。
地竜の首から、わずかに力が抜けた。歩みが少しだけ素直になる。大きな変化ではない。けれど、クレアには分かった。
さっきより、歩きやすそうだ。
クレアは、息を吐いた。
怖い。
けれど、怖いからといって押さえつけてはいけない。
もう一度、手綱を握り直す。
今度は、引きすぎないように。
地竜は、ゆっくりと歩いた。
先ほどよりも大きく変わったわけではない。クレアの身体はまだ強張っていたし、手綱を握る指にも力は残っている。それでも、歩みの固さは少しだけ消えていた。
クレアは、その小さな違いを見逃さなかった。
地竜が自分を許した、などと思うつもりはない。
ただ、自分が少し邪魔をしなくなっただけで、地竜は少し歩きやすくなる。
それだけは、分かった。
「……ありがとう」
今度の声も、地竜にだけ向けた小さなものだった。
その後の訓練は、派手なものではなかった。
歩く。止まる。曲がる。もう一度歩く。
同じことを何度も繰り返すうちに、見習いたちの額には汗がにじみ、手綱を握る手にも疲れが溜まっていった。
訓練が終わる頃には、見習いたちは皆、疲れ切っていた。
地竜の背に上がるだけで、思った以上に体力を使う。歩くだけでも、足と腰が揺れに持っていかれる。止まる、曲がる、姿勢を戻す。そのひとつひとつが、地上で見るよりずっと難しかった。
クロは地竜の背から降り、首筋を軽く撫でた。
「ありがとう」
地竜は特に返事をしなかった。ただ、鼻先を一度だけ動かした。
クレアは少し離れたところで、手綱を握っていた指を開いたり閉じたりしている。かなり疲れているようだったが、顔は青ざめていなかった。
クロは近づいた。
「クレア、さっきの乗り方、よかったと思う」
クレアがこちらを見る。
「何がですの」
「途中から、手綱を無理に引っぱらなくなった。地竜も歩きやすそうだった」
クレアは少しだけ目を伏せた。
「……見ていましたの」
「うん。ちゃんと見てた」
「そうですか」
クレアはそれだけ言って、手袋の指先を整えた。
けれど、ほんの少しだけ、口元の力が抜けていた。
訓練後、クロたちは竜肥試験場へ向かった。
竜肥研究は、もう日課になっている。
クレアはかなり疲れた顔をしていたが、それでもついて来た。クロは地竜騎乗の余韻で、耳が少し立ったままだった。
「今日は、少しだけにしませんこと?」
「見るだけ」
「その言葉を信じられた日がありませんわ」
「今日は本当に見るだけ」
「前回もそのようなことを言っていましたわ」
クロは返事をしようとして、足を止めた。
試験場の方に、揺らぐものが見えた。
穴の上に、陽炎のようなものが立っている。
「……熱い」
クレアも足を止めた。
「遠目で分かる熱とは、嫌な予感しかしませんわね」
穴へ近づくと、竜肥の小さな山が明らかに熱を持っていた。温かい、という程度ではない。近くに立つだけで、頬に熱が触れる。
すでに来ていたクラインが、記録板を片手に穴の前で立っていた。
眼鏡の奥の瞳が、いつもより鋭い。
「温度が上がりすぎています」
クラインは、短く言った。
「このままでは腐敗に傾きます」
クロは穴を見た。
竜肥の山は、中心から熱を溜め込んでいるようだった。昨日までは、強すぎる生命力をどう薄めるか考えていた。今日は、その熱が逃げ場を失っている。
クラインが、小さな柄杓で水を少しだけ落とした。
じゅ、と音がした。
白い湯気が立つ。
クレアが一歩下がった。
「今、蒸発しましたわよね」
「しましたね」
クラインの声は丁寧だったが、少しだけ早かった。
クロの耳が立つ。
「平らにする」
「ええ。山のままでは熱がこもります。崩して、土と藁を足し、水分を少しずつ調整しましょう。一度に水を入れすぎないでください」
「うん」
「クレアさん、申し訳ありませんが、そちらの藁を」
クレアは一瞬だけ穴を見た。
それから深く息を吐き、二重にした手袋を確かめる。
「竜騎士団に入って、なぜ私は竜糞の熱管理をしているのでしょうね」
「研究だから」
クロが言うと、クレアは目を細めた。
「その言葉で全てが許されると思わないでくださいませ」
それでも、藁を運ぶ手は止まらなかった。
クロとクラインは竜肥の山を崩し、平らにならしていく。土を加え、藁を混ぜ、水を少しずつ入れる。水をかけるたびに、熱が白く立ち上がった。クロは熱の逃げ方を見ながら、混ぜる場所を変える。
「ここ、まだ熱い」
「中心部ですね。少し広げましょう」
「こっちは、少し落ちた」
「記録します」
クラインの筆が走る。
クレアは藁を抱えたまま、二人を見ていた。
地竜の背ではあれほど自然に乗っていた黒猫が、今は竜肥の前で真剣な顔をしている。クラインもクラインで、竜糞の穴を前にして、まるで重要な作戦図を読むような目をしていた。
「竜肥、思ったよりも手強いですね」
クラインが記録板を見ながら言った。
クロも真剣に頷いた。
「これは手強い」
クレアは思わず口を挟んだ。
「地竜を乗りこなした直後に、竜糞へ真顔で敗北宣言しないでくださいませ」
クロは顔を上げる。
「負けてないよ。今、対応してる」
「正確には、発酵熱への初期対応です」
クラインが補足する。
クレアは、二人を交互に見た。
「言い換えれば何でも許されるわけではありませんわ」
処理が終わる頃には、竜肥の山は平らに広げられ、白く立っていた熱気も少し落ち着いていた。クラインは記録板に細かく書き込み、クロは穴の縁にしゃがんで竜肥の様子を見ている。
「これは手強い」
クロがまた呟いた。
その顔は、本気だった。
さっきまで地竜の背で、当たり前みたいに姿勢を崩さなかった黒猫が。
竜肥の前では、深刻そうな顔でそんなことを言っている。
その落差が、どうにもおかしかった。
「ふふっ」
小さく漏れた笑いに、クレア自身が少し驚いた。
クロが顔を上げる。
「今、笑った?」
「笑っていませんわ」
「ううん、笑ってた。ちょっとだけ」
「……少しだけです」
そう言って、クレアは手袋の指先を整えた。
竜の背も、竜肥の穴も、どうやら一筋縄ではいかないらしい。




