二章 第4話 「濃い」
低い咆哮が、もう一度、地面を震わせた。
地竜地区に残っていたざわめきは、レイヴンの一喝で押し止められている。見習いたちは足を動かせないまま、目だけを奥へ向けていた。訓練用の地竜は竜舎番に宥められ、低く喉を鳴らしている。落ち着いているようでいて、先ほどよりも首が少し高い。
クレアはまだ床に座っていた。拳を握りしめ、顔色は悪い。けれど、自分が触れていた地竜を刺激しないよう、注意を払っていた。
クロだけが、地竜区画の奥を見ていた。
土煙が、少しずつ落ちていく。
太い柵。踏み荒らされた土。重い鎖の音。
土煙の奥で、先ほど咆哮した地竜が鼻先をわずかに上げた。竜舎番が低い声で何かを言い、柵の脇で太い鎖が短く鳴る。
見えてきたのは、他の地竜より一回り大きな竜だった。
濃い茶褐色の鱗は、濡れた土の色に近い。けれど、ただ鈍いだけではなかった。光を受けると、奥に黒い艶が沈んでいるように見える。その深みが、黒い竜を思い出させた。
低く構えた首。厚い肩。足元の土は、爪で抉られて荒れている。
金色の瞳が、柵の向こうからこちらを見ていた。
怒っている。
でも、ただ怒っているだけではない。
苛立ち。拒絶。こちらを測るような、はっきりした意思。
クロは息を呑んだ。
短い義足の音が、隣に来た。
レイヴンだった。
彼は地竜から目を離さないまま、低く言った。
「似ているだろ。あいつに」
クロは、金色の瞳を見たまま答えた。
「はい」
それ以上は、言葉にならなかった。
レイヴンも、すぐには続けなかった。地竜区画の奥では、竜舎番たちが慎重に距離を取りながら、濃い茶褐色の地竜を押し留めている。地竜は動かない。けれど、動かないだけで、従っているようには見えなかった。
「濃い奴らは、どいつもこいつも扱いが難しい」
レイヴンは言った。
クロは少し考えた。
「濃いっていうのは、鱗の色だけじゃ、ないですよね」
「ああ。お前も気づいてるだろうが、あいつらは血が濃い」
レイヴンは、短く息を吐いた。
「だから誇りも強い」
クロは、もう一度、金色の瞳を見た。
扱いが難しい。
それは、分かる気がした。あの目は、ただ命令を聞く竜の目ではない。押さえれば、押し返す。止めれば、もっと強く地面を掻く。そんな目をしていた。
でも、扱いが難しいことと、誰にも乗れないことは同じではない。
クロは、隣に立つレイヴンを見上げた。
「でも、教官は黒い竜に乗っていました」
レイヴンは何も言わなかった。
義足の先が、石床に軽く触れる。視線は、濃い茶褐色の地竜から逸れない。
クロは、自分の言葉が少し深いところへ届いてしまったことに気づいた。
けれど、金色の瞳を見ていると、もう一つだけ言葉がこぼれた。
「黒い竜は、教官と飛ぶのが誇りだと感じていました」
その時、レイヴンが初めて地竜から目を離した。
叱るでもなく、問い返すでもない。ただ、静かにクロを見る。
クロは、その視線を受けて、耳を少し伏せた。
言ってはいけないことではなかったのかもしれない。
けれど、簡単に言っていいことでもなかった。
沈黙が落ちる。
それでも、クロの目は地竜区画の奥へ戻っていった。
あの地竜は怒っている。苛立っている。けれど、それだけではない。まだ分からない。けれど、ただ暴れたいだけの竜には見えなかった。
「あの地竜も、わかってくれる人を待っているのかもしれないです」
そこまで言って、クロは口を閉じた。
今度こそ、踏み込みすぎた。
「……ごめんなさい」
耳が、さらに下がる。
レイヴンは少しだけ黙っていた。
「別に良い」
それだけだった。
怒られたわけではない。許された、と言えるほど柔らかくもない。ただ、言葉を受け止められた。
クロは小さく頷いた。
地竜区画の奥では、濃い茶褐色の地竜が低く喉を鳴らしていた。竜舎番の一人が柵の脇を回り、別の者が鎖の位置を確かめる。完全に落ち着いたわけではない。けれど、これ以上こちらへ突っ込んでくる様子もなかった。
レイヴンが見習いたちへ向き直る。
「今日の訓練はここまでだ」
誰も文句を言わなかった。
「各自、指示があるまで地竜地区の奥へ近づくな。勝手に見に行くな。死にたくなければな」
短い言葉に、見習いたちが硬く頷く。
クレアはようやく立ち上がろうとしていた。膝に力が入りきらないのか、少しだけふらつく。
クロが手を差し出した。
「立てる?」
クレアは一瞬だけその手を見た。
「立ちますわ。少しだけ、地面が信用できないだけです」
「地面は悪くない」
「分かっていますわ……!」
そう言いながらも、クレアはクロの手を借りた。
手袋越しの指先は、まだ少し冷たかった。
その日の訓練と業務を終えた後、クロとクレアは竜騎士団敷地の端へ向かった。
そこには、小さな試験畑と、その隣に掘られた一立方メートルほどの穴がある。数日前から、クロたちの日課に加わった竜肥研究の場所だ。
クレアは、まだ少し疲れた顔をしていた。
「今日くらい、休んでもよかったのではありませんの」
「見るだけ」
「その言葉を信じるには、あなたの前科が多すぎますわ」
「前科」
「竜糞に関する前科です」
クロは少し考えた。
「たぶん、増える」
「自覚があるなら抑えなさい」
そう言いながらも、クレアはついて来ていた。手袋は、当然のように二重になっている。
クロの頭には、まだ金色の瞳が残っていた。
濃い茶褐色の地竜。
黒い竜に似た深み。
扱いが難しい、とレイヴンは言った。血が濃い。だから誇りも強い、と。
その言葉を考えながら、クロは試験場へ足を踏み入れた。
そして、足を止めた。
「おお」
クレアも隣で立ち止まった。
「なんと……」
昨日とは違っていた。
穴の中心には、竜肥が小さな山を作っている。竜糞と藁、灰、落ち葉、土を混ぜたものだ。そこから穴の縁までは、まだ距離がある。直接触れているわけではない。
それなのに、穴の縁に沿って、緑が生えていた。
小さな芽。細い草。土の隙間から立ち上がる、柔らかな葉。
昨日はなかった。
少なくとも、クロの目にはなかった。
中心に置いたものが、離れた土にまで届いている。
クロは穴の縁にしゃがみ込んだ。クレアがすぐに肩を掴む。
「近づきすぎですわ」
「見てるだけ」
「その言葉も信用なりません」
遅れて、クラインがやってきた。
記録板を片手に、いつものように整った足取りだった。眼鏡の奥の瞳は冷静で、筆記具もきちんと用意されている。
だが、穴を見た瞬間、足が止まった。
「これは……」
クラインはすぐに穴の周囲へ回った。竜肥の位置、緑の出ている場所、前日の記録板、土の湿り具合。順に確認し、眼鏡の位置を指先で直す。
「昨日の今日で、これは少々、記録を疑いたくなりますね」
「記録、間違えた?」
クロが聞くと、クラインは首を横に振った。
「いいえ。むしろ、記録があるからこそ異常だと分かります。中心から距離がある。直接触れていない土まで反応しています」
クラインはしゃがみ、緑の縁を見た。
「竜の生命力の残滓、という表現は、比喩だけでは済まないようです」
クレアが、少し嫌そうに眉を寄せた。
「つまり、良いことなのですの?」
「良いことでもあります。危ういことでもあります」
クラインは記録板へ素早く書き込んだ。
クロは穴を見た。
緑は、確かに生えている。けれど、綺麗に育った畑の緑とは違う。急に押し上げられたような、勢いだけが先に走ったような緑だった。
「強すぎる」
クロが呟くと、クラインが頷いた。
「ええ。濃すぎます」
「このままだと、畑が負ける」
「過去の失敗記録とも一致しますね。やはり直接利用ではなく、土、藁、灰との配合を増やすべきでしょう」
クロの耳が立った。
「薄める?」
「今後は、その方向で見ましょう」
クラインは記録板に新しい欄を作り始めた。
「正確には、土に受け止めさせる、あるいは逃がす。このままでは強すぎる」
クロは少し考えた。
「竜を、土に座らせる」
クラインの筆が一瞬止まった。
「……表現は独特ですが、方向性は近いです」
「土を増やす?」
「まずは土の比率を増やします。藁も変えたいですね。灰は増やしすぎると別の影響が出る可能性があります。水分量も記録しましょう。できれば小分けにして比較したい」
「穴、増やす?」
「いえ、まずは小区画で十分です。穴を増やすと、管理区画の変更申請が必要になります」
「穴なのに?」
「穴だからです」
クラインは眼鏡の位置を直した。
「落ちる。臭う。水が溜まる。失敗した場合の処理も必要になる。書類上、穴は意外と面倒な存在です」
クロは真剣に頷いた。
「穴、たいへん」
「はい。穴はたいへんです」
「じゃあ、土に座らせる場所を分ける」
「記録上は配合別試験区画と呼びます」
「はいごうべつ」
「覚えなくても構いません。クロさんは変化を見てください」
「うん」
二人は穴の前で、真剣に話し始めた。
土の量。藁の比率。灰の扱い。水分。縁の緑の記録。まだ作物には使わないこと。試験用の土を増やすこと。
クレアは、少し離れた場所から二人を眺めていた。
竜糞の穴を前にして、耳を立てる黒猫。
竜糞の穴を前にして、眼鏡の奥の瞳を鋭くする事務官。
二人とも、理解できないほど真剣だった。
「……あなた方、楽しそうですわね」
「うん」
「有意義です」
即答だった。
クレアは、もう一度穴を見た。
それから二人を見た。
「そうですの」
その声には、理解を諦めた者の静けさがあった。
クロは穴へ視線を戻した。
金色の瞳。
穴の縁の緑。
どちらも、まだ胸の中に残っている。
「うん……竜糞、すごい」
クロが真剣に呟くと、クレアは深く息を吐いた。
「あの恐ろしい地竜を見た後で、なぜ平然とできますの……」
クロは穴を見た。
どちらも、濃かった。




