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二章 第3話 「触れる」

その日の基礎訓練は、いつもの訓練場ではなかった。


見習いたちは朝から竜舎の奥へ向かう通路を進み、飛竜たちの区画を横目に、さらに低く広い建物へ連れてこられた。


そこは、天井の高さよりも、床と柵の厚みが先に目につく場所だった。踏み固められた土と石床が奥まで続き、通路の両側には太い柱が並んでいる。柵は低いが、一本一本が重く、簡単には押し曲げられそうにない。


飛竜の区画とは、空気が違った。


風が上へ抜けていく感じがない。代わりに、足の裏から重さが上がってくる。どこかで尾が床を擦り、石の上を引きずるような鈍い音が長く響いた。続いて、腹の奥に沈むような低い鳴き声が聞こえる。高く抜ける声ではない。地面ごと震わせるような、太い音だった。


クロの耳が、ぴくりと動く。


「……重い音」


隣でクレアが、手袋の指先をわずかに握った。


「……飛竜の区画とは、ずいぶん違いますわね」


「うん」


クロは短く頷き、奥を見る。


地竜地区。


竜騎士団にいる竜は、空を飛ぶものばかりではない。大地を駆ける竜がいる。翼で空へ上がるのではなく、足で地面を掴み、重さと速さで進む竜がいる。


飛ばないから弱いのではない。


この場所に満ちている音と重さが、それを先に教えていた。


見習いたちが柵の前に並ぶと、レイヴンが義足の音を鳴らしながら前へ出た。眠たげな目はいつも通りだったが、声は訓練場で聞く時より少し低い。


「本日から少し進む」


それだけで、見習いたちの背筋が伸びた。


「竜に触れる訓練だ」


誰かが息を呑む。


レイヴンは見習いたちの顔を一通り見てから、柵の向こうにいる地竜へ顎をしゃくった。


クロは、その地竜を見た。


飛竜に少しも劣らない、立派な体躯だった。低く構えているせいで背は高く見えないが、胴は太く、首も厚い。翼がないぶん、身体の重さが逃げずに地面へ沈んでいて、そこにいるだけで石床ごと押さえつけられているように感じる。


なにより目を引くのは、発達した後ろ足だった。飛竜のそれとは比べものにならないほど太く、強く、地面を蹴るために生まれたような形をしている。胸の下に置かれた前足には鋭い鉤爪があり、地竜はそれを軽く曲げ、油断なく宙を掴んでいた。


飛ぶための身体ではない。


走るための身体だ。


そしてきっと、止まらないための身体だった。


「撫でて喜ぶ訓練じゃねぇ。勝手に近づくな。勝手に触るな。触る前に見ろ。竜がこっちを見ているか確かめろ。触った後も気を抜くな」


短い言葉が、石床に落ちていく。


「竜に触るってのは、物を扱うことじゃねぇ。相手が嫌がれば離れろ。相手が怒れば止まれ。分からないなら、勝手に判断するな」


レイヴンの義足が、一歩だけ前へ出た。


「順調に行けば、いずれ騎乗訓練に移る」


その言葉に、見習いたちの間で小さなざわめきが生まれた。


騎乗。


まだ遠いと思っていた言葉が、急に足元へ近づいてくる。


「その時に、竜を見ない奴は落ちる」


ざわめきが消えた。


「落ちるだけならいい。竜に嫌われたら、もっと悪い。お前達も黒い竜の暴走を見ただろう」


誰かが、生唾を飲み込んだ。


クレアの指先が、わずかに強張った。


鎖が引き千切れる音。石床を爪が抉る音。柱が砕け、竜舎の空気が裂けた瞬間。


あの日の記憶は、彼女だけのものではない。見習いたちの顔にも、同じものが落ちていた。


レイヴンは、あえて長く語らない。


「竜は道具じゃねぇ。嫌がる。怒る。傷つく。間違えれば、こっちが死ぬだけじゃ済まない」


そこで、彼は地竜の方を見る。


「だから今日は、触る前に見る。触った後も見る。勝手に安心するな」


訓練は、竜舎番と教官たちの指示のもとで始まった。


見習いたちは一人ずつ柵の内側へ入り、地竜へ近づいていく。歩く位置、止まる位置、手を出す前の間合い。どれも細かく指示され、少しでも早ければ竜舎番の声が飛ぶ。


地竜は落ち着いていた。


大きな身体を動かさず、近づく見習いたちを見ている。最初の数人は緊張で肩が上がっていたが、竜舎番の声に従い、なんとか触れることができた。


クロの番は早かった。


クロは地竜の前で一度止まり、相手がこちらを見ているのを確かめてから、ゆっくり手を出した。地竜は動かない。手袋の指先が、硬い鱗にそっと触れる。


そこで終わりだった。


派手なことは何もない。


竜舎番がわずかに頷いた。


「よし。離れろ」


「はい」


クロは素直に下がり、すぐにクレアの方を見る。


クレアの番は、少し後だった。


列の中で、彼女は姿勢を崩していない。背筋は伸び、顎も上がりすぎていない。外から見れば、いつものように整った令嬢の立ち姿に見えただろう。


けれど、手袋の指先だけが固まっていた。


クロはそれに気づいたが、まだ何も言わなかった。


クレアは、自分の番が近づくにつれて、腕の奥が冷えていくのを感じていた。


痛みはもうない。


入団試験で噛まれた傷は、跡こそ残ったが、すっかり治っている。日常にも訓練にも支障はないと、医務室でも言われた。


けれど、痛みが消えたからといって、身体が忘れてくれるわけではない。


深緑の竜。


近づいた時の、張り詰めた空気。


腕を噛まれた瞬間。


周囲の声。


自分は終わったのだと、頭のどこかで思った感覚。


クレアは手袋の内側で指を動かそうとした。だが、うまく動かない。


「次。クレア」


呼ばれた。


足は動いた。


地竜の前へ出る。


大きい。


近い。


怖い。


息が詰まりそうになる。


手を出さなければならない。これは訓練で、教官も竜舎番もいる。目の前の地竜は、落ち着いてこちらを見ている。


分かっている。


分かっているのに、身体は別のものを覚えていた。


クレアの手が、途中で止まる。


下がりそうになった。


その時、横から小さな声がした。


「大丈夫。この子、クレアを見てるだけ」


クロだった。


いつもの短い声。けれど急かす響きはない。


クレアは、少しだけ顔を向けた。


クロは地竜を見ていた。クレアではなく、地竜を。それから、ほんの少しだけクレアへ視線を戻す。


「怖がってるのも、見てる。でも、嫌がってないよ」


それだけだった。


励ましというには、少し不器用だった。慰めというには、あまりに具体的だった。


けれど、クレアの胸には残った。


見ているだけ。


あの時、自分は竜を見ていただろうか。


ふと、そんな問いが浮かんだ。


竜騎士になるための証。レーヴェンハルトの娘としての価値。父の期待。家の名。失敗できない自分。


抱えていたのは、そういうものばかりだった気がする。


目の前にいた竜を、自分の未来へ続く階段のように見ていなかっただろうか。栄達の道具のように、証明の場のように扱っていなかっただろうか。


あの竜が何を感じたのかは、分からない。


噛まれた理由を、今ここで決めつけることはできない。


それでも、あの時の自分が竜そのものを見ていなかったことだけは、今なら分かる気がした。


クレアは、もう一度地竜を見る。


大きい。


怖い。


近い。


けれど、今度はその怖さだけで終わらせなかった。


この竜は、ここにいる。


自分の前にいて、自分を見ている。


竜騎士になるための階段ではない。レーヴェンハルトの娘である証明でもない。父の期待に応えるための道具でもない。


目の前にいる、一頭の竜だった。


クレアは、震える手をゆっくり伸ばした。


地竜は動かない。


逃げない。


拒まない。


手袋の指先が、そっと触れる。


ただ、それだけだった。


地竜は立っている。クレアに触れられても、首を引くことも、足を動かすこともしなかった。


拒まれなかった。


クレアは息を吸い、胸の奥で詰まっていたものを、ほんの少しだけ吐いた。


そして、クロにも聞こえないほど小さな声で言う。


「……受け入れてくれて、ありがとうございます」




その直後だった。


地面が震えた。


低い咆哮が、地竜地区の奥から叩きつけられるように響く。柵が震え、石床の上に薄く積もっていた土が跳ねた。見習いたちの肩が一斉に揺れる。


「ひっ……!」


クレアはその場で腰を抜かした。


触れていた手が離れ、床に尻餅をつく。顔は青い。さっきまで整えていた姿勢はどこにもない。


それでも、誰も笑わなかった。


見習いたちもそれどころではない。誰かが周囲を見回し、誰かが一歩下がりかける。ざわめきが広がりかけた瞬間、レイヴンの声が飛んだ。


「地竜の近くで騒ぐな」


短い一喝だった。


空気が止まる。


「目を動かせ。急に体を動かすな。勝手に逃げる方が危ない」


見習いたちは凍りついたように止まった。


竜舎番たちが静かに動き、教官たちも配置を変える。訓練用の地竜は、さきほどと同じ場所にいた。ただ、低い鳴き声に反応したのか、わずかに首を上げている。


クレアは床に座ったまま、手袋の指先を握りしめていた。


クロは咆哮のした方を見る。


耳が動く。


音は、地竜区画の奥から来ていた。訓練用の地竜たちから少し離れた一角。太い柵と、踏み荒らされた土。そのさらに奥で、重い鎖の音が一瞬混じった。


咆哮は、ただ大きいだけではない。


怒っている。


けれど、ただ怒っているだけでもない。


クロは目を凝らした。


地竜区画の隅に、濃い茶褐色の影がある。


土煙の向こうで、金色の瞳が光っていた。


クロは、その瞳を見る。


もう一度、低い咆哮が地面を震わせた。

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