二章 第2話 「それでも前へ」
その夜、クロはなかなか眠れなかった。
竜舎には戻れた。水桶を運び、寝藁を替え、鞍具を拭き、竜糞を片づけた。湿った藁の匂いも、竜の息も、石床をこする尾の音も、たしかにそこにあった。
けれど、竜舎の奥へは行けなかった。
黒い竜の区画へ近づくことは、半年間、事実上の禁止。許可制という言葉の響きよりもずっと重く、レイヴンの声はまだ耳の奥に残っている。
半年。
クロは下段の寝台で横になったまま、毛布の端を握った。耳は力なく伏せ、尻尾は寝台の縁から落ちている。
竜舎には戻れたのに、アテルのところへは行けない。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。走ってどうにかなるものではない。頼んで済むものでもない。処分は処分で、クロはそれを受けなければならない。
それでも、気持ちは簡単に納得してくれなかった。
ジェミノ村の家族の顔が浮かんだ。
送り出してくれた父。泣きながら抱きしめてくれた母。短い手を伸ばして「くろ」と呼んでくれたヨル。村の門の前で見送ってくれた人たち。
竜騎士団へ行きたいと言ったのは自分だ。間に合える人になりたいと言ったのも自分だ。
それなのに、入って早々に処分を受けた。
クロは毛布を少しだけ引き寄せた。
手紙には、まだ書けていない。黒い竜にしがみついて王都の外まで飛ばされたことも、処分を受けたことも、アテルの背から故郷の町を見たことも、どう書けばいいのか分からなかった。
父と母は、きっと心配する。
ヨルは、まだ分からないかもしれない。
申し訳なさが、胸の奥で小さく重くなる。
父の手を思い出した。
畑から帰ってきた時の、土のついた大きな手だった。母が水路のそばで芋を洗っていたことも思い出す。籠いっぱいの芋。土の匂い。夕方の水音。
ジェミノ村の芋から作られる醸造酒は、王都の下町でも少し名が知られている。村の人たちは、それを少し誇らしそうに話していた。
芋は、土で育つ。
いい土なら、芋は太る。
芋が太れば、村の酒も増える。
クロは、ふと昼間の竜舎を思い出した。
毎日、山のように出る竜糞。
あれは、どこへ行くのだろう。
クロは、がばっと身体を起こした。
「クレア」
上段の寝台から、布の擦れる音がした。
「……今度はなんですの」
眠そうな声だった。完全に寝入る前だったらしい。
クロは真顔で言った。
「竜糞って、どこにいくの?」
部屋の中が静かになった。
上段の寝台から、クレアの深い息が落ちてくる。
「夜に寝台の下から聞こえてよい言葉ではありませんわね」
「気になった」
「なぜ今ですの」
「芋を思い出した」
「芋を思い出して、なぜ竜糞に辿り着きますの」
クレアはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……少し待ちなさい」
上段から降りてきたクレアは、寝間着の袖を整えながら、クロの寝台の端に腰を下ろした。
「説明を聞く前から嫌な予感しかしませんけれど、一応聞きますわ。竜糞の何が気になりましたの?」
「どこにいくのかなって」
「行き先、ですの?」
「うん。毎日、たくさん出るから」
クレアは一度、目を閉じた。
「……まあ、その疑問だけなら、分からなくはありませんわ。竜騎士団全体で見れば、一日で数十トン規模になります」
「数十トン」
クロは目を少し丸くした。
「山になる」
「山にしていたら王都が滅びますわ」
クレアはそう言ってから、近くの壁を指先で示した。
「きちんと処理されています。それに、ただ処理するだけでもありませんわ。いつも見ていますのに。今この場にもあります」
「ここ?」
クロは、クレアの示した先を見た。
石とレンガで作られた、宿舎の壁。
「壁?」
「集められた竜糞は、乾燥、選別、こね直しを経て、焼き固められます。竜糞レンガですわ。丈夫で、良質な建材になりますの」
クロは壁を見た。
竜騎士団の宿舎を支える、硬い壁。
「竜糞、壁になるんだ」
「その言い方はやめてくださいませ」
「竜糞、すごい」
「感心する方向もどうかと思いますわ」
クレアは眉間を押さえた。
クロは、もう一度壁を見た。
さっきまで竜舎で片づけていたものが、形を変えて、王都のどこかを支えている。
そう思うと、少し不思議だった。
「畑には、使わないの?」
クロが聞くと、クレアは少しだけ目を細めた。
「昔は、試したそうですわ」
「使えた?」
「使えませんでしたの」
クレアはきっぱり言った。
「肥料として畑に入れたところ、作物が枯れたそうです。竜糞は強すぎるのだと、昔から言われていますわ」
「枯れた」
「ええ。かなり古い記録だったはずです。詳しい時期や方法までは覚えていませんけれど、その後は建材利用が定着しましたから、肥料としての研究はあまり進まなかったのでしょうね」
クロは膝の上で指を握った。
村の堆肥を思い出す。
馬や家畜の糞は、そのまま畑に入れなかった。父や村の大人たちは、藁や落ち葉、灰や土と混ぜ、時間を置いていた。時々、掘り返して空気を入れる。熱が落ちて、匂いが変わって、土みたいになってから畑に使っていた。
子供の頃のクロは、それを近くでよく見ていた。
土が変わる様子は、ゆっくりだった。
すぐには役に立たない。けれど、時間をかけると、畑に戻る。
「そのまま使ったから、だめだったのかも」
クロはぽつりと言った。
クレアがこちらを見る。
「竜糞がだめなんじゃなくて、竜糞のままだったから、だめだったのかも」
「……竜糞のまま、という表現はどうかと思いますけれど」
クレアは嫌そうに眉を寄せた。
けれど、すぐには否定しなかった。
「理屈としては、完全におかしいとは言えませんわ。家畜の糞も、処理を誤れば作物を傷めますもの。竜糞なら、なおさらでしょう」
「うん」
「ただし、思いついたからといって勝手にやってよいものではありませんわよ」
「うん」
「本当に分かっていますの?」
「分かってる」
クロは頷いた。
勝手にやってはいけない。
処分を受けたばかりだ。勝手に竜舎へ行ってはいけない。勝手に黒い竜へ近づいてはいけない。勝手に竜糞を持ち出しても、きっといけない。
でも。
アテルに会えない間にも、できることがあるかもしれない。
ジェミノ村で、いつか役に立つかもしれない。
クロは、しばらく壁を見ていた。
竜糞で作られたかもしれない、硬い壁。
土になるかもしれないものが、そこにもあった。
翌日、午前の作業と訓練の合間を見つけて、クロはレイヴンに話を持ち出した。
「教官、やってみたいことがあります」
レイヴンは記録板から目を上げた。
眠たげな目が、クロを見る。
「黒い竜に会わせろ、以外なら聞く」
「竜糞を、土にしたいです」
レイヴンは黙った。
近くにいたクレアが、そっと顔を覆った。
「……もう一回言え」
「竜糞を、土にしたいです」
「聞き間違いじゃなかったか」
「はい」
クロは真面目に頷いた。
レイヴンは、ゆっくりと記録板を下ろした。
「理由」
「ジェミノ村では、馬や家畜の糞を、そのまま畑に入れません。藁とか、灰とか、落ち葉とか、土とか、混ぜて置きます。熱が落ちて、匂いが変わって、土みたいになってから使います」
クロは言葉を選びながら続けた。
「竜糞も、そのままだと強すぎるなら、土に合うようにできるかもしれません」
「誰の入れ知恵だ」
「クレア」
「だろうな。お前だけなら、竜糞がどこかで山になっていると思って終わりそうだ」
クレアが顔を覆ったまま、低く言った。
「……すみません」
レイヴンは少しだけ息を吐いた。
「竜糞は資源だ。勝手に持ち出せるものじゃない。衛生、搬出、保管、建材利用の割り当て、全部に管理がある」
「はい」
「畑もいる。失敗した時に処理する場所もいる。臭いで周囲を殺すわけにもいかん」
「はい」
「お前が穴掘って勝手に埋めていい話じゃない」
「分かりました」
クロは素直に頷いた。
レイヴンは少しだけ目を細めた。
クロが素直に引くと、怒りにくい。
「……一旦持ち帰る」
レイヴンは言った。
「勝手にやるな。話はそれからだ」
「はい」
レイヴンは記録板を持ち直した。
「……黒い竜の区画へ走るよりはましだ」
クロは、耳を少し伏せた。
「はい」
「だが、許可が出るまで何もするな」
「はい」
「話が通れば呼ぶ。通らなければ、そこで終わりだ」
「分かりました」
レイヴンはそれ以上言わなかった。
クレアは隣で、まだ少し疑わしそうにクロを見ていた。
その日の夕方、レイヴンはクロの話を竜騎士団内で共有した。
多くの者は、またレインフォートか、という顔をした。
黒い竜にしがみついて王都外へ飛ばされ、戻ってきた見習い。竜舎復帰初日に竜糞を王侯貴族の贈答品のように扱った見習い。その少女が、今度は竜糞を土にしたいと言い出した。
反応としては、間違っていない。
しかし、その話に一人、興味を示した男がいた。
クライン・ヘスティール。
細い眼鏡の奥に怜悧な瞳を持つ、事務と管理の担当者だった。竜には乗らない。だが、申請、記録、補給、資源運用を握るその男が首を縦に振らなければ、現場の思いつきは思いつきのまま終わる。
「竜糞を堆肥化、ですか」
クラインは眼鏡の位置を直した。
「完全に的外れとは言えませんね」
レイヴンが眠そうな目を向ける。
「分かるのか」
「私は農家の出です。家畜糞をそのまま畑に入れればよい、などという雑な話ではありません。発酵、配合、水分、時間。必要な手順があります」
「昔は失敗したらしいぞ」
「記録は見ています。ですが、かなり昔の設立初期の試験ですね。当時の竜騎士団に、農家の堆肥作りを理解していた者がどれだけいたかは疑問です」
クラインは淡々と言った。
「竜糞は力が強い。竜の生命力の残滓が濃いのでしょう。そのまま畑へ入れれば作物が負ける。それは分かります。ですが、十分に落ち着かせ、土に馴染ませた場合まで否定する材料はありません」
「試す価値はあると?」
「あります。もちろん、正式な申請と記録の上で、ですが」
クラインは書類の束を軽く持ち上げた。
「竜糞は資源です。場所も、人手も、試験後の処理も必要になります。思いつきで始めるには、少々大きすぎる話です」
レイヴンは少しだけ嫌そうな顔をした。
「面倒だな」
「面倒です。ですが、そこを整えるのが私たちの仕事です」
クラインは眼鏡をくいと上げた。
「脳筋ばかりでは現場は回りません」
その声は丁寧だったが、少しだけ誇らしそうでもあった。
さらに翌日の夕方。
クロとクレアは、レイヴンに連れられて竜騎士団敷地の端へ向かった。
そこは訓練場や竜舎から少し離れた、普段は資材置き場に近い一角だった。人通りは少なく、風通しもある。低い柵で囲まれた中に、小さな畑と、まだ何も掘られていない土の場所が用意されていた。
そのそばに、見覚えのある男が立っていた。
細い眼鏡。怜悧な瞳。きちんと整えられた記録板。
クロは少しだけ首を傾げた。
「……試験の時の人」
男は眼鏡の位置を直し、軽く会釈した。
「覚えていただいていたようで何よりです。クライン・ヘスティールと申します。竜騎士団内で、事務と管理を担当しています」
クレアもそこで思い出したように目を細めた。
「入団試験で、試験官席にいらした方ですわね」
「はい。あの時は、なかなか印象深い答案と実技を拝見しました」
クロの耳が少し動いた。
「答案」
「あなたにとって竜騎士とは何か。そういう問いがありましたね」
「あ」
クロは、少しだけ背筋を伸ばした。
クラインはそれ以上深く触れず、区画へ視線を移した。
「こちらが今回の試験場です。正式な研究施設ではありません。廃棄予定分の一部を使った、小規模な予備試験。その名目で許可を取りました」
「早いですわね」
クレアが言うと、クラインは穏やかに頷いた。
「申請は、形を整えれば通るものです。形を整えれば」
最後の言葉に、妙な力がこもっていた。
レイヴンが目を逸らした。
「……俺を見るな」
「見ていません。ただ、現場の熱意だけで申請は通りませんので」
声は丁寧だった。
けれど、刺すところはきっちり刺していた。
クラインは小さな畑を示した。
「まずは食用作物には使いません。土の変化を見るところからです。隣に堆肥穴を作ります。竜糞、藁、灰、落ち葉、土。クロさんが話していたものは、一通り用意しました」
クロの耳が立った。
「掘っていいですか」
「はい。ただし、広げすぎないように。場所も量も、許可された範囲内です」
「分かりました」
クロはすぐにシャベルを手に取った。
クレアが慌てて言う。
「なぜそんなに嬉しそうなんですの」
「穴を掘るの、久しぶり」
「竜騎士団で聞くとは思いませんでしたわ、その感想」
クロはざくざくと土を掘り始めた。
小柄な身体に似合わない勢いで、土が横へ積まれていく。湿った土の匂いが立ち、クロの耳はぴんと立ったまま、尻尾の先が小さく揺れていた。
クラインはそれを見ながら、記録板に何かを書き込んだ。
レイヴンはしばらく見ていたが、やがて眠たげに言った。
「俺は戻る。許可の範囲を越えるな。あと、育てたものを誰かに食わせるな」
「はい」
クロは真面目に頷いた。
クレアが低く言う。
「最後の条件が一番怖いですわ」
「食用に回す場合は、別途申請が必要です」
クラインがさらりと付け足した。
「そこは止めるところではありませんの?」
「申請が通る条件なら、試験として成立します」
「成立させないでくださいませ」
「まだ成立しません。ご安心を」
安心できる要素はあまりなかった。
穴ができる頃には、夕方の光が少し傾いていた。
クラインの手配で、試験用の少量の竜糞が運ばれてきた。建材用に回される前のものから、許可を得て分けられた分だ。藁、灰、落ち葉、土、水も用意されている。
クロは穴のそばにしゃがみ込んだ。
竜糞は、まだ強い匂いがした。竜舎で嗅いだものよりも、乾きかけている分だけ少し硬い。けれど、奥の方に熱が残っている。
クロは鼻を少し動かした。
「まだ、竜のまま」
クレアが鼻元に布を当てる。
「またその表現ですの」
クラインは少しだけ目を細めた。
「今の言葉、記録します」
「え」
クレアが思わず声を漏らした。
「記録するんですの、それを?」
「します」
クラインは記録板にペンを走らせた。
「クロさんの感覚記録。『まだ竜のまま』。匂いが強い。熱が残っている。土に馴染んでいない。そういう意味を含んでいるのでしょう」
クロは少し考えた。
「うん。でも、それだけじゃなくて……強い。土より前に出てる」
「なるほど。土より前に出ている」
「それも記録するんですのね」
「します。農家では、匂い、熱、手触りも見ます。もちろん数字と記録は必要ですが、それだけでは分からないこともあります」
クラインは記録板を軽く叩いた。
「同じ人間が、同じ言葉を使い続ければ、それは変化の記録になります。三日後、一週間後、一月後。クロさんが『前に出なくなった』と言ったなら、それは立派な変化です」
クロの耳がぴんと立った。
「分かりました」
クレアは鼻元の布を押さえたまま、クロと記録板を交互に見た。
「……つまり、今後もその表現を聞くことになるのですわね」
「うん」
「そうですか」
クレアは短く息を吐き、記録板から目を逸らした。
クロは藁を手に取った。
ジェミノ村で見た堆肥の山を思い出す。父の手。母の声。土の匂い。雨の後、湯気のように上がる熱。
すぐに成果は出ない。
時間がかかる。
けれど、時間をかければ変わるものがある。
「混ぜます」
「始めましょう」
クラインが言った。
クレアは深く息を吐き、二重にした手袋をぎゅっとはめ直した。
「……竜騎士団に入って、まさか竜糞の穴を見守る日が来るとは思いませんでしたわ」
「クレアも混ぜる?」
「見守りますわ」
「混ぜない?」
「見守りますわ」
クロは少しだけ口元を緩めた。
穴の底へ、竜糞を入れる。
藁を重ねる。
灰を振る。
落ち葉を入れ、土をかぶせる。
水を少しずつ足す。
クラインが量を見て、クレアが顔をしかめながら手順を確認し、クロが手触りと匂いを確かめる。最初はばらばらだったものが、少しずつ一つの重さになっていく。
まだ土ではない。
竜糞。藁。灰。落ち葉。土。
それぞれの匂いが、まだ別々に立っていた。
クラインが木札に日付を書き、穴のそばへ差した。
「本日より、予備試験開始です」
クロは木札を見た。
小さな札だった。
けれど、そこから何かが始まった気がした。
クレアは鼻元の布を押さえたまま、しばらく木札を見ていた。
「……まあ、始めてしまった以上、途中で投げ出すわけにはいきませんわね」
「クレアも?」
クロが顔を上げると、クレアは少しだけ眉を寄せた。
「あなた一人に任せたら、竜糞と会話を始めそうですもの」
「……しない、と思う」
「そこは言い切りなさい」
そう言いながらも、クレアは木札から目を離さなかった。
「でも、続ける価値はあると思いますわ」
クロの耳が、ぴんと立った。
「あなたの故郷に、いつか繋がるかもしれませんもの」
クロは、すぐには返事ができなかった。
父の手。
母が芋を洗っていた水路。
夕方の畑の匂い。
胸の奥に、ゆっくり戻ってくるものがあった。
「……うん」
やっと頷くと、クレアは少しだけ視線を逸らした。
「ですから、見ます。最後まで」
「ありがとう、クレア」
「まだ礼を言うには早いですわ。まずは、臭いをどうにかしてくださいませ」
「うん」
クロは穴を見た。
まだ土ではない。
アテルのところへは、まだ行けない。
けれど、何もできないわけではない。
その日から、クロたちの日常に新たな仕事が増えた。




