二章 第1話 「竜舎復帰」
朝、クロは宿舎の廊下を歩いていた。
走ってはいない。
ただ、耳はかなり前を向いていた。尻尾も本人の歩幅より、少しだけ先に行こうとしている。
隣を歩くクレアが、横目でそれを見た。
「クロ」
「走ってない」
「分かっていますわ。問題は耳です」
クレアは、ぴんと前を向いた黒い耳を見た。
「もう竜舎に着きかけています」
クロは、ぴたりと耳を止めた。
「……耳は、まだここにいる」
「今、戻しましたわね」
「戻した」
クレアは小さく息を吐いた。七日間、部屋の中で竜舎へ向かおうとする黒猫の耳と尻尾を監視し続けたせいで、最近は本人よりも先に耳の動きを見る癖がつきかけていた。
それも今日で終わり。
少なくとも、竜舎へ行くこと自体は許される。
竜舎の大扉が近づくにつれ、クロの歩幅がほんの少しだけ大きくなった。
クレアが横目で見る。
クロはその視線に気づき、自分で歩幅を戻した。
「……歩く」
「ええ。今日はそれで十分ですわ」
七日間、何度も竜舎へ行こうとしていた黒猫が、自分で足を戻した。
クレアは、それ以上何も言わなかった。
二人は竜舎へ入った。
一歩入っただけで、空気が変わった。
外の朝の冷たさが背中に残っているのに、鼻の奥には湿った藁と竜の息が入ってくる。水桶の水面が揺れ、どこかで太い尾が床をこすった。寝ぼけた竜が喉を鳴らし、その低い音が柱から柱へゆっくり渡っていく。
クロは入口で、しばらく立ち止まった。
七日前まで当たり前だった音が、今日はひとつずつ胸に落ちてくる。
「……竜舎」
「はい。竜舎ですわ」
「本物」
「偽の竜舎という概念を作らないでくださいませ」
クレアはそう言ったが、声はあまり強くなかった。
クロの目が少し潤んでいたからだ。
クロは真面目な顔でうなずき、それから水桶の方へ歩いた。両手で取っ手を握る。持ち上げる。水が入った桶の重さが、腕から肩へ乗った。
耳が、ぴんと立つ。
「重い」
「水が入っていますからね」
「竜舎の重さ……」
「水の重さですわ」
そう言った直後、クレアも隣の桶を持ち上げた。
腕にずしりと重さがかかる。
ーー竜舎の重さ。
クレアは眉間にしわを寄せた。
「……こぼさず運びなさいませ」
「はい」
クロは水桶を決められた位置へ運び、丁寧に置いた。桶の縁に手を添え、位置を少し直す。竜が首を伸ばした時に飲みやすい高さか、足元の邪魔にならないか、周囲の藁が濡れすぎないかを確かめている。
感動している顔なのに、仕事はやけに丁寧だった。
次に、新しい藁を抱える。
クロは一瞬だけ頬を近づけかけた。
クレアは黙って見た。
見た。
クロは、そっと顔を離した。
「……してない」
「ええ。言われる前に戻ったところは評価しますわ」
クロは藁を抱え直し、寝床へ運んだ。古い藁をよけ、新しい藁を足し、竜が身体を預けた時に硬いところが出ないよう、手でならしていく。指先が藁の下にある小さな石を拾い、端へ除けた。
近くの竜が、眠たげに片目を開ける。
クロはその竜を見た。
なんとも言えない顔だった。
嬉しそうで、泣きそうで、少しだけ申し訳なさそうで、全部混ざっている。
「何ですの、その顔は」
「竜がいる」
「いますわ。竜舎ですから」
クロは小さくうなずいた。
「よかった」
その一言だけは、クレアも突っ込まなかった。
竜舎仕事は続いた。鞍具を拭き、革のひびを確かめ、床を掃き、水のこぼれを拭き、古い藁をまとめる。クロは感動するたびに手を止めかけ、それでも作業だけは丁寧にこなした。
クレアは何度か、クロの横顔と手元を見比べた。
浮かれている。
かなり浮かれている。
けれど、桶を置く位置も、鞍具を拭く指先も、雑にはなっていない。
クレアの注意は、自然と必要なものだけになっていった。
「そちらの金具、まだ砂が残っていますわ」
「うん」
「藁は奥へ寄せすぎない方がよろしいです。尾が当たります」
「分かった」
「……返事は良いですわね」
「うん」
「その顔でなければ、もっとよろしいのですけれど」
「どの顔?」
「竜舎に帰ってきた魂みたいな顔です」
クロは少し考えた。
「近い」
「近いんですの……」
クレアは、もう深く追及しないことにした。
そして、掃除用の道具を手にしたところで、クロはぴたりと止まった。
そこには、立派な竜糞があった。
大きく、形がよく、まだうっすら湯気が立っている。
クロの瞳が震えた。
「ふおお……」
「嫌な予感しかしませんわ」
クロは道具を握ったまま、そっと膝をついた。
「まだ、温かい」
「確認しなくてよろしい」
「これは竜の生命の息吹……!」
「竜糞ですわ!!」
クレアの声が、竜舎に少し響いた。
近くの竜が片目を開けた。竜舎番の一人がこちらを見た。クレアは咳払いをし、何事もなかったように背筋を伸ばした。
クロは涙ぐんだまま、竜糞を丁重に処理した。
丁重に。
あまりにも丁重に。
近くの竜が、何とも言えない目でそれを見て、すぐに目を閉じた。竜舎番の一人も、見なかったことにした。
「……竜糞を王侯貴族の贈答品のように扱わないでくださいませ」
「大事なもの」
「掃除するものです」
「でも、大事」
クレアは眉間を押さえた。
竜糞相手にそんな顔をしないでほしい。
本当に、心からそう思う。
けれど、クロの横顔は、七日間、何度も窓の外を見ていた時と同じだった。
「……手袋は、後で替えなさいませ」
「うん」
「あと、感動は作業の後です。床に残ると、次の作業に響きますわ」
「分かった」
「目はまだ竜糞を見ていますけれど」
クロは、そっと視線を戻した。
「戻した」
「はぁ……」
クレアは処理用の灰を渡しながら、小さくため息をついた。
七日前なら、竜糞を前に涙する同室者を本気でどうかと思ったかもしれない。今もどうかとは思っている。かなり思っている。
けれど、クロが本気で戻ってきたかったことも分かってしまう。
だからクレアは、ため息だけで済ませた。
午前の作業が終わる頃、クロは担当区画の竜たちを見渡した。
水を飲む竜。藁に身体を預ける竜。尾の先だけをゆっくり動かす竜。
どれも、ここに戻ってこられたのだと教えてくれる。
けれど、竜舎の奥は見えない。
柱の向こう、見張りの立つ先。そこへ勝手に入ってはいけないことを、クロは知っていた。
耳が少しだけ下がる。
「……見てない」
先にクロが言った。
「分かっていますわ」
クレアの声は、責めるものではなかった。
「今日は、ここまでです」
クロは小さくうなずいた。
「仕事、する」
「ええ。それが今日のすることですわ」
午後の訓練は、障害物を混ぜた持久走だった。
丸太を越え、低い柵をくぐり、泥の溜まった窪地を抜け、砂袋を抱えて短い坂を上る。派手さはない。けれど、竜騎士団の訓練はそういうものだった。飛ぶ前に、転ばず、止まらず、息を切らしても動き続ける身体を作る。
クロは謹慎明けだったが、身体はよく動いた。むしろ、七日分の竜舎不足が足に回っているようでもあった。
ただし、速すぎるとレイヴンの視線が飛んでくる。
だからクロは、少し抑えて走った。
少しだけ。
クレアはその後ろを、以前より安定した足取りで走っていた。泥に入る時、ほんの少し眉は寄る。けれど止まらない。砂袋を抱える手つきも、最初の頃ほど危なっかしくない。
クロが横に並んだ時、ぽつりと言った。
「クレア、前より速い」
「いつまでもあなたの背中を追う趣味はありませんわ」
クレアは息を整えながら、低い柵をくぐった。
クロの耳が、少しだけ揺れた。
その時だった。
どん、と遠くで音がした。
地面の下から殴られたような音だった。
訓練場の端に立てられた杭が、かすかに震える。泥の窪みに溜まった水が、丸く波紋を作った。
数人の見習いが、思わず足を緩める。
次の瞬間、低い咆哮が響いた。
飛竜の高く抜ける声ではない。もっと太く、腹の底を押されるような声だった。土と石をまとめて震わせるような、重い声。
クレアの肩が、わずかに跳ねた。
けれど、足は止まらなかった。
泥に入る前より、ほんの少し顎を引く。怖いものを、なかったことにはしない。それでも、走る。
クロはそれを横目で見て、少しだけ目を細めた。
「止まるな」
レイヴンの声が飛んだ。
見習いたちは慌てて走り直す。
さらに遠くで、何かが柵にぶつかったような鈍い音がした。ざらざらと砂が落ち、訓練場の隅に置かれた木桶が小さく跳ねる。
クロは走りながら、耳だけを動かした。
「教官、今のは」
「地竜区画だ」
レイヴンは記録板を脇に挟んだまま、目だけをそちらへ向けた。
「走れ。訓練中に余所を見るな」
「はい」
クロは返事をして、足を戻した。
地竜。
空を飛ぶ竜だけではない。
地面を駆ける竜。大地を蹴り、重さで道を作る竜。
さっきの音は、翼でも鎖でもない。足の音だ。地面そのものを押し返すような、重い足音。
飛ぶ竜とは違う。
あれは、大地の上で強い竜だ。
どんな竜が暴れているんだろう。
そう考えた瞬間、丸太が迫っていた。クロは慌てず足を乗せ、軽く越える。考えるのは後だ。今は走る。
訓練が終わる頃には、見習いたちの息は白くもないのに荒かった。クロも汗を拭い、クレアは額に張りついた髪を指で直している。
レイヴンは記録板を閉じた。
「謹慎明けにしては動いていたな」
「はい」
「だが、調子に乗るな。身体は戻っても、処分は取り消しにはならん」
クロの耳が少し動いた。
「教官は……」
言いかけて、クロは止まった。
レイヴンはそれを見て、義足の先で石を軽く鳴らした。
「俺の沙汰は俺のものだ。お前が背負うもんじゃねぇ」
「……はい」
「ただ、しばらく書類仕事は増えた。おかげで眠い」
レイヴンの目は元から眠たげだったので、どこまで本気か分かりにくかった。
それでも、訓練場から消えることはなさそうだった。
クロは小さく息を吐いた。
「よかったです」
「よくはない。お前もまた何かやらかせば、普通に怒る」
「はい」
「そこで安心するな」
レイヴンはこめかみを押さえた。
クレアはその横顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。怒られると分かって安心するのは妙な話だが、クロがそう思う理由も、もう分からなくはなかった。
訓練が終わり、見習いたちが宿舎へ戻り始めた頃、クロは少しだけ足を止めた。クレアも気づいて、隣で止まる。
クロはレイヴンの方へ向き直った。
「あの、教官」
「なんだ」
「黒い竜の区画へは、いつ行けますか」
レイヴンの動きが止まった。
それから、ゆっくりとこめかみを押さえた。
「お前……まさかそんなにすぐあいつに近づけると思っていたのか」
クロは瞬きをした。
「許可があれば、会えるって」
「書面上はな」
レイヴンの声は低かった。
「だが、現場では違う」
クロの耳が、ぴたりと止まる。
「あれは事実上の接近禁止命令だ」
風が、訓練場の端を抜けた。
クロは動かなかった。
「……接近、禁止」
「原則として近づけない。必要がある時だけ、例外として許可する。そういう意味だ」
「……必要」
「復帰初日の見習いが、今日すぐ会いに行く必要はない」
クロは何かを言おうとした。
けれど、口が少し開いただけだった。
レイヴンはため息をついた。
「半年だ。最低でも半年は、その扱いが続く」
「……半年」
クロの声が、小さく落ちた。
半年。
水桶よりも、砂袋よりも、ずっと重い言葉だった。
竜舎には戻れた。
けれど、黒い竜のいる奥は、まだ遠い。
クレアが横から覗き込む。
「クロ?」
クロは固まっていた。
耳も、尻尾も、呼吸さえも止まったように見えた。
クレアは反射的に一歩近づく。
「……クロ、聞こえていますの?」
声が、思ったより弱くなった。
そこでようやく、クロの口が小さく開いた。
「あがっ」
クレアの表情が変わった。
「あっ、これはまずいですわ」
「がぎぎ」
次の瞬間、クロは白目を向いた。
「クロ!?」
泡を吹いて、倒れた。
クレアは慌ててその肩を支える。細い身体は、訓練の後だというのに妙に軽かった。
レイヴンはこめかみを押さえたまま、深く息を吐いた。
「……復帰初日から倒れるな」
「言い方が直球すぎますわ、教官!」
「曲げても現実は曲がらん」
「それはそうですけれど!」
クロは白目のまま、小さく喉を鳴らした。
竜舎には戻れた。
けれど、黒い竜はまだ遠い。
竜騎士への道は、まだまだ長い。




