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間幕 「限界令嬢」



七日目の夕方。


私とクロは、医務室と担当官への報告を終え、宿舎へ戻る廊下を歩いていた。


七日間の経過観察に大きな問題はなし。明日から通常の現場復帰を認める。ただし、黒い竜への接近制限は継続。


報告の内容は、だいたいその三つだった。


隣を歩くクロの足取りは、いつもと変わらない。けれど耳だけが落ち着かず、ぴくり、ぴくりと動いている。足より先に、耳だけ竜舎へ行こうとしていた。


「嬉しそうですわね」


「うん」


「隠す気は?」


「ない」


「でしょうね」


私は小さく息を吐いた。


七日間、私はこの黒猫が竜舎へ這ってでも向かわないよう監督補助を命じられていた。


監督補助。


言葉だけなら簡単だが、実態は、竜舎不足で人語を半分手放す同室者の管理である。部屋の片隅で妙に精巧なしっぽの欠けたトカゲを描き始めた時は、竜騎士団という組織の業務通達に深刻な不備を感じた。


「耳だけ先に行かせないでくださいませ」


「行ってない」


「行こうとしていました」


「耳が?」


「耳が」


クロは自分の耳に触れた。確認したつもりなのだろうが、その耳はまだ少し動いていた。


その時、廊下の窓の外から短い号令が聞こえた。


出立場の方だった。革具の軋む音。金具が触れ合う音。石畳を踏む竜の爪音。七日間、部屋と医務室を中心に過ごしていたせいか、その音だけで、現場の空気が胸の奥に戻ってくるようだった。


クロが何気なく窓の外を見た。


そして、足を止めた。


「……あ」


本当に小さな声だった。


私もつられて窓の外を見る。


夕方の光の中に、桜色の竜がいた。


淡い鱗の縁に、鮮やかな赤が走っている。柔らかい色なのに、ただ柔らかいだけではない。任務前の空気をまとった体には、静かな力があった。


ロザ様。


その隣を、任務装備の女竜騎士が歩いている。肩には外套。腰には剣。歩幅は静かで、迷いがない。ローズピンクの髪が、夕日の中で揺れていた。


レイナ様だった。


間違いない。


見間違えるはずがない。見間違えるなど不敬である。というか不可能である。あの立ち姿。あの外套。あの歩幅。そして隣にはロザ様。桜色。赤い縁。首の角度。翼の畳み方。歩幅。呼吸。


死ぬ。


いや、まだ死んではいけない。


私はレーヴェンハルト家の娘である。廊下で取り乱すような真似はしない。外面はまだ生きている。内側については、すでに多少怪しい。


「レイナさん……」


クロが呟いた。


それだけだった。


それだけ。


それだけですの?


八年ぶりですわよね?


冬のジェミノ村で見た、あのレイナ様ですわよね?


隣にはロザ様もいらっしゃいますわよね?


なぜその温度で立っていられますの?


もっとありますでしょう。膝が砕けるとか、魂が月へ帰りかけるとか、窓枠を掴まないと立っていられないとか。


いや、それは私だった。


「クロ」


「うん」


「今、何を見ていますの?」


「レイナさんとロザ」


「そうですわね」


そうですわね、ではない。


そうですわねだけで済む光景ではない。


私は平静な顔を作った。作ったつもりだった。少なくとも、声だけは落ち着いていたはずである。


「落ち着きなさい、クロ」


「私?」


「ええ」


そう。あなた。


少なくとも今この場で一番落ち着いている黒猫に、私はそう言った。


もう駄目だ。


けれど外側の私は、まだ何とか持ちこたえていた。窓枠を掴む指に少し力が入りすぎている気はするが、廊下で叫んでいないのだから勝ちである。何に勝ったのかは分からない。


その時、レイナ様が歩きながら、ロザ様の首元へ手を伸ばした。


命じるためではない。急がせるためでも、宥めるためでもない。ただ、そこにいることを確かめるように、指先が桜色の鱗へ触れた。


ロザ様は歩みを止めなかった。


けれど、首をほんの少しだけレイナ様へ寄せた。


見た。


今、私はそれを見た。


命令ではない。号令でもない。


触れて、寄せた。


それだけで、同じ空を飛んできた時間が見えた。


どうしよう。


現実が強すぎる。


「……見ましたか、クロ」


「見た」


「今、ロザ様が……レイナ様へ……」


「首、寄せたね」


「寄せましたわね……?」


「うん」


言質は取った。


クロも見た。つまり幻覚ではない。現実である。現実が強すぎる。強すぎて、こちらの心が直接殴られている。


「仲いいね」


仲いいね。


仲いいね?


その表現で処理しますの?


今のは竜騎士と竜の信頼の結晶ですわよ。建国記の余白に金文字で書き足すべき瞬間ですわよ。仲いいね、ではなく、もっと、こう、あるでしょう。


いや、クロにそれを求めるのは酷かもしれない。


この黒猫は、味に姿勢を与えるくせに、こういうところで妙に静かなのである。


「クレア、息してる?」


「していますわ」


「浅い」


「細かく観察しないでくださいませ」


手袋の中で指が震えていた。心臓がうるさい。頬も熱い。視界の中心が、レイナ様とロザ様だけになっている。


だが、問題はない。


これは敬意。これは憧憬。これは魂の自然現象。


自然現象なら仕方ない。


「医務室行く?」


「行きませんわ」


「死ぬの?」


「今死んだら見逃しますもの」


「それは元気なの?」


「分かりませんわ」


本当に分からなかった。


分からないまま、私は窓枠に縋りついていた。


レイナ様が鞍の位置を軽く確かめる。ロザ様が首を低くする。レイナ様は流れるような動きで鞍へ上がった。


無駄がない。


なさすぎる。


教本に載せろ。いや、教本では足りない。何か、もっとこう、竜騎士団本部の壁に彫るべきである。


ロザ様が出立場の広い場所へ出る。周囲の竜騎士たちが少し距離を取った。


次の瞬間、ロザ様の翼が広がった。


大きな翼が夕方の光を受ける。桜色の鱗に走る赤い縁取りが、一瞬だけ強く浮かんだ。


翼が空気を打つ音が、窓まで届いた。


一度。


二度。


ロザ様の体が、ふわりと地面を離れる。


レイナ様の外套が風に跳ねた。


私は思わず前のめりになった。


「クレア」


「なんでふの」


「窓、顔、潰れてる」


「だばりばひゃい」


ロザ様は上昇し、夕方の空へ出た。


レイナ様とロザ様の姿は、すぐに小さくなっていく。


任務へ向かわれるのだから当然である。王国のために飛ぶ方々なのだから、どうか行ってくださいませ。ご無事で。


でも行かないで。


いや行って。


感情が忙しい。


私はしばらく動けなかった。


「……任務へ向かわれましたわね」


「うん」


うん、ではない。


今、王国の歴史が飛んだ。


けれど私は、それを廊下では口に出さなかった。出さなかった私は偉い。とても偉い。誰か褒めてほしい。できれば今すぐ。いや今は無理。今褒められたらたぶん泣く。


部屋に戻るまで、私は外側だけを何とか保った。


部屋に戻るなり、私は無言で自分の寝台へ上がった。


廊下では耐えた。


窓枠は掴んだ。多少、指は震えた。声も少し変だったかもしれない。だが叫ばなかった。レーヴェンハルト家の娘として、最低限の品位は守った。


守った。


たぶん。


「クレア?」


下からクロの声がした。


私は答えなかった。


枕を両手で掴み、顔を埋める。


そして。


「~~~~~~~~っ!!!!」


声にならない悲鳴が、枕の中で爆発した。


無理だった。


無理に決まっている。


レイナ様がいた。ロザ様がいた。首を寄せた。飛び立った。夕日が仕事をしすぎていた。クロの反応が薄かった。世界が過剰だった。


足が勝手にばたばたした。


令嬢としての品位は、寝台の上で一度死んだ。


「枕、苦しそう」


「黙りなさい!!」


私は勢いよく顔を上げた。


息が荒い。髪が少し乱れている。頬が熱い。目もたぶん血走っている。


だが、言わなければならないことがあった。


「クロ」


「うん」


「あなた、反応が薄すぎますわ!」


「薄い?」


「薄いですわ。八年ぶりのレイナ様とロザ様ですのよ!?」


クロは少し考えた。


それから、自分の胸元に手を当てる。


「胸は、少しあったかくなった」


私は一度、口を閉じた。


ずるい。


そういう言い方をされると、怒りづらい。


「……そういうところですわ」


「どこ?」


「今はいいです」


私は枕を抱え直した。まだ心臓はうるさい。けれど、廊下で膨れ上がっていたものは、少しだけ言葉の形に戻ってきていた。


「レイナ様は、ただお美しいだけの竜騎士ではありませんの。王都の子ども達が空を見上げて名を呼び、地方の村々では巡回任務でその姿を見ただけで安堵されるほどの存在ですわ。商隊護衛、急使任務、冬期巡回、開墾村への物資輸送。実績も、信頼も、人気もある。ロザ様との飛行精度も高く評価されています。」


「詳しい」


「当然ですわ」


当然ですわ、と言い切ったあとで、私は少しだけ息を整えた。


さすがに、ここで任務記録の年別一覧を暗唱し始めたら、クロに医務室へ連れて行かれる気がした。いや、たぶん本当に連れて行かれる。


だから、そこは飲み込む。


代わりに、もっと最初の話をすることにした。


私が、なぜレイナ様をそこまで追いかけるようになったのか。


枕を抱える手の力が、ほんの少し緩む。


「……私が、レイナ様を初めて見たのは、もっと小さい頃でした」


クロは黙って聞いていた。


「家の方針で、竜騎士団本部へ連れて来られたことがありました。レーヴェンハルト家の娘として、早いうちから見ておくべきだと。父ではなく、家の使用人が引率でしたけれど」


周りは大人ばかりだった。鎧の音も、竜の息も、石床を踏む軍靴の音も、幼い私には全部大きく聞こえた。屋敷とはまるで違う空気の中で、私は立っているだけで精一杯だった。


その時、任務帰りの女竜騎士が戻ってきた。


外套には砂埃がつき、髪も少し乱れていた。


それなのに、ひどく綺麗だった。


勇ましくて、可憐で、美しい。


私は目を離せなかった。家の礼儀も、使用人の注意も、その時だけどこか遠くへ行っていた。


すると、その人がこちらを見た。


目が合った。


「そんなに見られると、少し照れるな」


そう言って、レイナ様は笑った。


幼い私は、何も言えなかった。


視線だけが、レイナ様の外套から、ロザ様の鞍へ、それから出立場の向こうの空へ動いた。


この人は、あの空から帰ってきたのだ。


レイナ様はそれに気づいたのだと思う。


少し膝を折り、目線を近づける。


「あなたは、空を飛んでみたいの?」


私はすぐには答えられなかった。けれど、目だけは逸らせなかった。


「……はい」


小さく頷くと、レイナ様は少し笑った。


「いいよ、空は」


その声は、驚くほど軽かった。


高くて、広くて、自分の足だけでは届かない場所まで行ける。地面にいたら間に合わない場所にも、空からなら行けることがある。


そしてレイナ様は、幼い私をまっすぐ見た。


「私は、人を助けに行ける竜騎士でいることを、誇りに思ってる」


それだけだった。


長い話ではなかった。


けれど私は、その言葉を忘れられなかった。


「……それで、です」


私は枕を抱えたまま、小さく息を吐いた。


「私は、レイナ様に憧れました。ただ美しいからではありません。竜騎士であることを、あんなふうに誇れる人になりたいと思ったのです」


クロは、しばらく黙っていた。


それから、ゆっくり口を開く。


「私も、レイナさんのこと覚えてる」


私は顔を上げた。


「冬のジェミノ村で会った時、レイナさんとロザは、とても信頼していた気がする。今でも覚えてるよ」


胸の奥が、少しだけ静かになった。


「……あなたにも、そう見えましたの」


「うん」


クロは窓の方を見た。外は、もう夕暮れから夜に近づいている。けれどクロの中には、冬のジェミノ村で見た桜色の竜と女竜騎士の姿が残っているのだろう。


「レイナさん、空を飛ぶのが好きって言ってた」


「レイナ様が?」


「うん。ロザとなら、自分の体だけじゃ行けない場所へ、一緒に行けるって」


私は黙った。


レイナ様らしい、と思った。


幼い私に「いいよ、空は」と言った人は、別の場所でも同じように空の話をしていた。


それが、なぜだかとても嬉しかった。


「……そうですの」


声は小さくなった。


「やっぱり、レイナ様はそういう方なのですわね」


「うん」


「そして、あなたも」


「私?」


私はゆっくりと枕から手を離した。


クロ・レインフォート。


この黒猫は、レイナ様とロザ様の信頼を覚えている。ロザ様の隣に立つレイナ様を見て、同じものを感じている。


つまり、分かる側である。


「分かる方でしたのね」


「なにが?」


「レイナ様とロザ様の尊さですわ」


「尊さ」


「そうですわ」


私は勢いよくクロの手を取った。


鼻息が少し荒かった。


仕方ない。これは儀式である。


「あなたを、同志として認めます」


「同志?」


「ええ。レイナ様とロザ様の尊さを理解する者として、特別に認めて差し上げますわ」


「よく分からないけど、ありがとう」


「軽いですわ!! これは大変名誉なことですのよ!?」


「そっか」


「そこで納得されると、それはそれで困りますわね……!」


私は咳払いをした。


まだ手は握ったままだった。


「では同志として、まずレイナ様とロザ様の魅力を百項目に分けて確認しますわ」


「クレア」


「なんですの」


「明日から、竜舎」


「……」


現実が戻ってきた。


明日。竜舎。


クロは戻る。自分もまた、いつもの現場へ戻る。七日間の監督補助は終わる。


私は少しだけ目を逸らした。


「……では、要点だけにしますわ」


「いくつ?」


「十」


「十は要点?」


「要点ですわ」


クロは首を傾げた。


私はまだ少し赤い顔で、枕を抱え直した。


「その代わり、明日からの竜舎では絶対に走らないこと」


「歩く」


「早歩きも禁止」


「……ちょっと早い歩き」


「禁止」


「はい」


私は深く息を吐いた。


そして、窓の外をちらりと見た。


もうレイナ様とロザ様の姿はない。それでも、夕方の空の端に、桜色の残り香のようなものが見えた気がした。


「いつか、あのように」


小さく呟いた言葉に、クロは何も言わなかった。




「あ」


夜、これから就寝というとき、何かに思い当たったように、クロが声を出した。


「なんですの?」


「クレアのピンク色のゆる竜ぱんつは、ロザなんだね」


今度こそ死んだ。

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