間幕 「竜舎不足」
「あがががぎぎぎ」
謹慎最終日の朝。
クロ・レインフォートは、ついに人語を半分ほど手放した。
下段の寝台から聞こえたその声に、クレア・フォン・レーヴェンハルトは静かに本を閉じた。
驚きはない。
七日目ともなれば、人は多くを諦める。
少なくともクレアは、この黒猫の奇行に対して、驚くという感情をかなり手放しつつあった。
「今日はそちらから始まりましたのね」
「ぎぎぎ」
「歯車ですの?」
クロは寝台の上で丸くなっていた。
耳は伏せている。
尻尾は寝台の端からだらりと垂れ、床に落ちかけている。
金色の目は開いているが、焦点は遠い。
王都竜騎士団見習い、クロ・レインフォート。
黒い竜の暴走にしがみつき、王都外まで連れ去られ、なお帰還した少女である。
現在、竜舎立ち入り禁止七日目。
黒い竜よりも、竜舎禁止の方が効いていた。
「クロ。あなた、朝食までには人語へ戻りなさいませ」
「竜舎」
「行けませんわ」
「竜舎に行くんじゃない」
「ほう?」
「竜舎が、こっちに来る」
「来ませんわ」
「心の中に」
「戻しなさい」
「竜舎を?」
「あなたの理性をです」
「理性、昨日逃げた」
「捜索願を出しますわよ」
「竜舎にいると思う」
「結局そこへ行くのではありませんか」
クロの尻尾が、床にぺしんと落ちた。
重い音ではなかった。
しかし、気持ちは重かった。
クレアは溜息をつく。
彼女はこの七日間、クロの同室者として、正式に監督補助を命じられていた。
処分中のクロが無断で竜舎へ向かわないよう行動を確認し、医務室の指示に反する無理を止め、異常があれば担当教官か竜舎番へ報告する。
言葉にすれば簡単だ。
ただし、対象はクロ・レインフォートである。
簡単で済むはずがなかった。
「わたくしは正式に、あなたの監督補助を命じられていますの」
「補助」
「ええ」
「竜舎に行く補助?」
「違います」
「壁を伝って竜舎に行く補助?」
「もっと違います」
「じゃあ、転がって竜舎に行く補助」
「移動方法から離れなさい」
クロは真剣に考えていた。
冗談ではない。
この黒猫は、今なら本当に壁を伝いかねないし、床を転がりかねない。
クレアはもう一度、本を閉じた。
今日は読書を諦めた方がよさそうだった。
「いいですか。処分は今日いっぱいで終わります。七日です。七日で済んだのです」
「七日、長い」
「昨日も聞きましたわ」
「昨日の七日は、今日の七日より長かった」
「時間に個体差を与えないでくださいませ」
クロは寝台の上でゆっくり身体を起こした。
その動きは妙に重い。
まるで長い冬眠から覚めた動物のようだった。
ただし、冬眠していたわけではない。
昨日も普通に食べた。
一昨日も普通に食べた。
その前の日には、空の水桶を抱えて虚ろな表情で部屋の隅に座っていた。
クレアはそれを見て悲鳴を上げた。
なお、水桶は医務室から没収された。
「クレア」
「なんですの」
「藁」
「ありませんわ」
「藁、触りたい」
「禁断症状ですの?」
「水桶でもいい」
「ないです」
「空でもいい」
「ないです」
「鞍具」
「あるわけがありません」
「革油」
「部屋を工房にするつもりですの?」
クロは黙った。
黙ったまま、窓の外を見た。
竜舎はここから見えない。
見えないが、方向は分かっている。
耳がそちらを向く。
「耳だけ竜舎へ行こうとしないでくださいませ」
「耳は自由」
「本体と連帯責任です」
「耳、悪くない」
「悪いです。今、完全に竜舎方面へ逃げようとしていました」
クロは耳を押さえた。
「捕まった」
「捕まえました」
クレアは自分で言って、少しだけ頭が痛くなった。
自分は今、何をしているのだろう。
レーヴェンハルト家の娘として竜騎士団へ入り、厳しい訓練に耐え、竜への恐怖と向き合い、少しずつ前へ進んでいる。
そのはずだった。
今は、同室の黒猫の耳を監視している。
人生とは分からないものだ。
しばらく沈黙があった。
クロは寝台の端に座り、窓の外を見続けていた。
その横顔は妙に真剣だった。
クレアは嫌な予感がした。
こういう時のクロは、大抵おかしい。
「ああ……」
クロが囁いた。
クレアは即座に身構えた。
「始まりましたわね」
「竜舎よ……」
「はい」
「我が魂は、濡れた藁の海を漂う黒き小舟……」
「昨日より悪化していますわ」
クレアは即座に診断を下した。
クロは止まらない。
「石床よ……お前だけが、私の足音を覚えている……」
「石床に語りかけないでくださいませ」
「水桶は空でも、水の記憶を抱いている……」
「抱いていませんわ」
「革油の香りがしない朝など、朝ではない……ただの明るい夜……」
「かなり重症ですわね」
「ああ、黒き翼よ……私を泥と藁の王国へ連れ戻して……」
「あなたは謹慎中の見習いです」
クロはそこで、ふっと笑った。
笑い方がよくなかった。
「クレア」
「なんですの」
「私は今、部屋にいる」
「ええ」
「でも心は竜舎にある」
「今すぐ心を回収してきなさい」
「無理。心、藁に絡まってる」
「心の管理がずさんすぎますわ」
クロは胸元に手を当てた。
「聞こえる」
「何がですの」
「藁が呼んでる」
「呼びません」
「水桶が泣いてる」
「泣きません」
「竜糞も――」
「そこまでですわ」
クレアは本を置き、立ち上がった。
これ以上は危険だった。
主に品位が。
「クロ。戻ってきなさい」
「どこへ?」
「ここへ」
クロは少し考えた。
「遠い」
「遠くありません。昨日まではいましたわ」
「昨日の私はもういない」
「面倒な詩人にならないでくださいませ」
クロはまた窓の外を見た。
その目は、完全に竜舎不足に沈んでいる。
クレアは額に手を当てた。
あと一日。
あと一日で、この黒猫は竜舎へ戻れる。
ただし、黒い竜への接近は半年間、担当教官と竜舎番の許可制である。
完全自由ではない。
それを今ここで言うべきか。
クレアは迷った。
言えば、また「あがががぎぎぎ」に戻る気がした。
やめた。
人には、知らなくていい朝もある。
その直後、クロは寝台からするりと降りた。
動きが速い。
そして目が怖い。
「今度は何を――」
「かけしっぽ」
「はい?」
クロは床に置いてあった紙と鉛筆を掴んだ。
どこから出したのかは分からない。
たぶん、昨日の時点で隠していた。
監視役として痛恨の見落としである。
「かけしっぽ!」
「クロ?」
「しっぽがかけてる、かけしっぽ!」
十四歳の少女が、幼児退行を始めた。
それは、クロの脳にかかるストレスの大きさを物語っていた。
クロは床に腹ばいになり、すごい勢いで鉛筆を走らせ始めた。
目が据わっている。
耳が立っている。
尻尾が床をぺしぺし叩いている。
「かけしっぽ、かける!」
「急に全部ひらがなにならないでくださいませ」
「かける!」
「聞いていませんわね」
鉛筆が紙の上を滑る音だけが部屋に響く。
クレアは恐る恐る覗き込んだ。
そこには、妙に精巧なしっぽの欠けたトカゲが描かれていた。
鱗の並び。
細い指。
薄い腹。
欠けた尻尾の断面。
石の隙間に張りつく時の、平たい姿勢。
写実的だった。
写実的なのに、どこか丸くて、妙に愛嬌がある。
クレアは少しだけ黙った。
「……腹立たしいですわね」
「なにが?」
「妙に上手い上に、少し可愛いところですわ」
「かけしっぽ、かわいい!」
「その呼び方はともかく……少しだけ分かります」
クロは満足そうに頷いた。
「かけしっぽ、もっとかける!」
「今は一匹で十分です」
「よこ!」
「横?」
クロは二枚目の紙を引き寄せた。
今度は横向き。
三枚目は正面。
四枚目は、壁に張り付いた状態。
そのどれもが妙に上手い。
上手いというより、研究記録だった。
だが、どれもほんの少し丸い。
妙に柔らかい。
写実的なはずなのに、眺めていると、だんだん小さな竜のようにも見えてくる。
クレアは紙を一枚手に取る。
「……これ、竜騎士団の生物資料に混ぜても通りそうですわね」
「かけしっぽ!」
「口調は戻らないのですね」
クロは胸を張った。
理由は分からない。
そこで、クレアはふと思った。
ここまで生き物を描けるなら。
もしかして。
本当に、もしかして。
「クロ」
「かけしっぽ!」
「……レイナ様は、描けますの?」
声に、ほんの少しだけ期待が混じった。
レイナ・アス・クラウゼ小隊長。
桜色の竜ロザを駆る、クレアにとって憧れの竜騎士。
その御姿を、もしクロが描けるなら。
たとえ鉛筆画でも。
たとえ雑でも。
いや、雑では困る。
かなり困る。
クロの目がぎらりと光った。
「れいな!」
「ええ」
「かける!」
「お願いしますわ」
クレアは姿勢を正した。
クロは新しい紙を置き、鉛筆を構える。
その姿は真剣そのものだった。
先ほどまで幼児退行していたとは思えない集中。
クレアは息を呑んだ。
鉛筆が走る。
速い。
速すぎる。
迷いがない。
これは期待できるのでは。
クレアは思った。
思ってしまった。
やがてクロは、紙を差し出した。
「れいな、かけた!」
クレアは受け取った。
沈黙。
紙の上には、人の顔らしきものがあった。
髪らしき線はある。
目らしきものもある。
たぶん鼻もある。
おそらく口もある。
しかし全体としては、人ではなかった。
強い感情を持った風。
あるいは、山にぶつかって砕けた雲。
もしくは、何かを訴えかける前衛的な概念。
「……」
クレアは紙を見つめた。
もう一度見た。
角度を変えた。
遠ざけた。
近づけた。
駄目だった。
どこから見ても、レイナ様ではなかった。
「……クロ」
「れいな!」
「レイナ様を抽象概念にしないでくださいませ……」
クロは首を傾げた。
「れいな、むずかしい」
「難しいで済ませてよい領域ではありませんわ。これはもう、顔という制度への反逆です」
「かお、むずかしい」
「あなた、トカゲの腹の鱗はあんなに描けたではありませんか」
「かけしっぽ、わかる!」
「レイナ様も分かってくださいませ」
クロは真剣に紙を見た。
「れいな、つよい!」
「その情報だけで描いたのですか?」
「きれい!」
「ならばもう少し何かあったでしょう」
クレアは深く息を吐いた。
期待した自分が悪かった。
竜舎不足で壊れた黒猫に、レイナ様の御尊顔を託した自分が愚かだった。
そう思った時だった。
クレアの脳裏に、一つの可能性が走った。
人間は駄目。
しかし、しっぽの欠けたトカゲは描けた。
ならば。
竜なら。
クレアはゆっくり顔を上げた。
「クロ」
「れいな、むずかしい」
「……ロザ様は?」
空気が変わった。
クロの手が止まる。
耳が立った。
目の奥に、先ほどとは違う光が灯る。
「ろざ!」
声が、少しだけ戻った。
「描けますの?」
クロは新しい紙を置いた。
「ろざ、かける!」
鉛筆が走った。
先ほどまでとは違った。
線が迷わない。
速いのに、雑ではない。
クロの目は紙を見ているのに、どこか遠い冬の空を見ているようだった。
クレアは、思わず黙った。
やがて、紙の上に竜が現れた。
鉛筆だけで描かれているはずだった。
色など、どこにもない。
それなのにクレアには、淡い桜色の鱗が見えた気がした。
鱗の縁を走る、鮮やかな赤まで。
翼の張り。
首のしなやかさ。
レイナの隣に立っていた時の、あの誇らしい姿。
紙の上にいるのは、確かにロザだった。
クレアは、しばらく黙っていた。
「……上手ですわね」
声は、いつもより少し低かった。
クロは紙を見た。
「ろざ、きれいだった!」
「ええ」
クレアは短く答えた。
「……とても」
クロは少し考えてから、その紙をクレアへ差し出した。
「いる?」
クレアは瞬きをした。
「よろしいの?」
「うん。くれあ、ろざすきだから」
クレアは一度だけ視線を逸らした。
「……いただきますわ」
紙を受け取る手つきは、いつもより少し丁寧だった。
クロは満足そうに頷いた。
「ろざ、あげた!」
「ありがとうございます。ですが、ひらがなはそろそろ卒業なさい」
「了」
「戻りましたの?」
「少し」
「少しですのね」
クレアはロザの絵を、折れないように机の端へ置いた。
丁寧に。
かなり丁寧に。
それから、視線を横へ動かす。
そこには、先ほどのレイナ様らしき何かがあった。
強い感情を持った風。
山にぶつかって砕けた雲。
顔という制度への反逆。
どう見てもレイナ様ではない。
ない、はずだった。
「それと」
「うん」
「そのレイナ様らしき何かは、わたくしが責任を持って処分します」
「れいな」
「戻りかけたのに戻らないでくださいませ」
クレアはそう言って、問題の紙を手に取った。
処分する。
処分するべきだ。
このまま残せば、レイナ様への不敬にあたる可能性すらある。
けれど、指は紙を折らなかった。
紙の上のそれは、どこからどう見てもレイナ様ではない。
むしろ、レイナ様を表現しようとして、顔という概念の方が耐えきれずに崩壊した何かだった。
それでも。
あの黒猫が描いたのだ。
竜舎不足で人語を半分手放しながら、それでも「れいな」と言って、妙に真剣な顔で鉛筆を走らせていた。
その結果が、たとえ強い感情を持った風であったとしても。
捨てるには、少しだけ。
ほんの少しだけ、惜しかった。
「クレア?」
「なんでもありませんわ」
クレアは素早く机の引き出しを開け、ロザの絵とは別の紙に挟むようにして、レイナ様らしき何かをしまった。
かなり奥へ。
人目につかない場所へ。
しかし、折らずに。
クロは首を傾げた。
「処分?」
「しました」
「しまった」
「処分しました」
「でも、しまった」
「処分です」
クレアはきっぱりと言い切った。
言い切ったものの、指先は引き出しの取っ手からすぐには離れなかった。
これは違う。
断じて、記念ではない。
ましてや、レイナ様を描いた貴重な一枚として保管したわけでもない。
ただ、いきなり捨てるには、あまりにも前衛的だっただけだ。
「くれあ、れいなすき」
「戻りなさい」
「れいな、しまった」
「戻りなさいと言っています」
クロは少し笑った。
久しぶりに、いつものクロに近い笑い方だった。
その後、クロは部屋の片隅で倒立腕立てを始めた。
理由は不明。
いや、本人曰く理由はあった。
「身体を落ち着かせてる」
「落ち着く人間は逆さになりませんわ」
「血が頭に来ると、竜舎のことを少し忘れる」
「危険な忘れ方をしないでくださいませ」
クロは逆さのまま、腕を曲げ伸ばししていた。
細い腕なのに、動きが安定している。
尻尾が器用に均衡を取っていた。
クレアは椅子に座り、もらったロザの絵をそっと机の端へ置いた。
丁寧に。
かなり丁寧に。
部屋の中には、妙に精巧なしっぽの欠けたトカゲの絵。
前衛芸術になったレイナ様らしき何か。
そして、鉛筆だけで桜色を思わせるロザ。
謹慎七日目。
濃すぎる朝だった。
「クロ」
「なに?」
逆さのまま、クロが答えた。
少しだけ人語が戻っていた。
「今日で、七日ですわ」
クロの腕が止まった。
逆さのまま、耳がぴくりと動く。
「明日」
「ええ。明日です」
「竜舎」
「ただし、勝手に走らないこと」
「……歩く」
「歩幅も監視しますわ」
クロは真剣に頷いた。
逆さだったので、非常に分かりにくかった。
「教官は?」
小さな声だった。
クレアは少しだけ表情を改めた。
「あの方への沙汰も下ったそうですわ。詳しい内容までは聞いていません」
「うん」
「けれど、少なくとも、訓練場から消えることはなさそうです」
クロはしばらく黙った。
それから、腕を伸ばして、身体を元に戻した。
床に足が着く。
「じゃあ、怒られる」
「確実に怒られますわね」
「うん」
クロは少しだけ安心したような顔をした。
怒られることを安心するのはどうなのか、とクレアは思った。
けれど、言わなかった。
戻ってきたから怒られる。
残れたから処分を受ける。
明日があるから、また叱られる。
そういうものも、きっとあるのだろう。
「クロ」
「なに?」
「明日、竜舎へ行く前に、その髪を整えますわ」
「なんで?」
「その状態で教官に会ったら、謹慎中に別の何かが起きたと思われます」
クロは自分の髪を触った。
確かに、少しひどかった。
「ねぇ、クレア」
「いきなり畏まって、なんですの?」
「ありがとう」
不意に、普通の声だった。
クレアは一瞬だけ言葉を失った。
それから、ふいと顔を逸らす。
「監督補助として当然ですわ」
「うん」
クロは少し笑った。
久しぶりに、いつものクロに近い笑い方だった。
窓の外には、まだ竜舎は見えない。
けれど、明日は行ける。
走らず。
たぶん。
おそらく。
可能なら。
クレアは、その「可能なら」の部分を信用しないことにした。
監督補助の朝は、まだ終わらない。




