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一章 第30話 「まだ遠い空」

第一章 第30話

「まだ遠い空」




昨日告げられた言葉は、翌朝になってもクロの中に残っていた。


退団ではなかった。


竜騎士団には、残れた。


その代わり、訓練場へは行けない。竜舎にも行けない。水桶を持つことも、藁を替えることも、革油の匂いがする鞍具を運ぶこともできない。


窓の外では、いつも通り竜の声がした。


低く、長い音。


クロの耳が、ぴくりと動く。


下段の寝台の端に座ったまま、クロはしばらく窓の方を見ていた。尻尾は床に落ちている。膝の上に置いた手は、何かを持ちたそうに少しだけ開いていた。


「竜舎、行きたい」


ぽつりと言う。


上段から、布の擦れる音がした。


「駄目です」


クレアの声は、いつも通り低かった。


「……見に行くだけ」


「それも駄目です」


「遠くから」


「駄目ですと言いました」


クロは少し黙った。


それから、小さく言う。


「……匂いだけ」


上段の空気が、ほんの少し冷たくなった。


「犬ですの?」


「猫」


「そういう事を聞いているんじゃないのだけれど?」


クレアが梯子を降りてくる。髪はきちんと整えられ、手袋の指先も乱れていない。けれど、その目元にはまだ薄く疲れが残っていた。


クロは寝台の端で、少しだけ丸くなる。


「七日、長い」


「ついこないだ死にかけた人間が言う台詞ではありませんわね」


「長い」


「二度言っても短くなりませんわよ?」


クレアは呆れたように息を吐き、椅子を引いて座った。けれど、その目はクロから離れない。


「七日です。長いか短いかではなく、決まった処分ですわ」


「……わかってるよ」


クロは頬を膨らませた。




医務室では、包帯を替えられ、鼻血の跡を確認され、腕や肩の痛むところを動かされた。


「無茶をした身体だ」


医務担当の老騎士は、そう言ってクロの肩を押した。


クロは小さく唸る。


「痛い」


「痛いで済んでいるなら上等だ」


そう言われると、返す言葉がなかった。


医務室の窓からは、訓練場の端が少しだけ見えた。見習いたちが走っている。遠くでレイヴンの声がした気がして、クロの耳がまた動く。


「見すぎですわ」


隣の椅子に座っていたクレアが言った。


今日は医務室まで付き添ってきている。頼んだわけではない。けれど、当然のように隣にいた。


「訓練」


「参加禁止です」


クロは口を閉じた。


クレアは腕を組む。


「あなた、危険な時ほど妙に動けますのに、待つことは本当に下手ですわね」


「待つの、むずかしい」


「見ていればわかります」


即答だった。


クロはクレアを見る。


クレアは視線を逸らさなかった。


「だから、私がここに居ますの」


短い言葉だった。


クロは少しだけ黙ったあと、頷いた。


「うん」


医務担当の老騎士は、二人を見て低く笑った。


「では、そちらの嬢ちゃんの言うことをよく聞くことだ」


クレアは澄ました顔で視線を逸らした。


「……当然ですわ。医務室でまで問題を起こされたら困りますもの」


「うん」


「今の返事も、少し信用できませんわね」


クロは何も言わなかった。


言うと、また怒られそうだった。




竜舎の奥では、折れた柱の補修が進んでいた。


新しい木材。打ち直された金具。石床には、まだ大きな爪痕が残っている。引きちぎられた鎖は外され、代わりにより太い鎖が用意されていた。


黒い竜は、その奥に伏せていた。


片目を閉じ、長い尾を床に沿わせ、動かない。


黒い竜の周りには、前よりも広く白い線が引かれている。


水桶が置かれる。


黒い竜は動かない。


人の足音が、少しずつ遠ざかる。


黒い竜の片目が、ゆっくりと開いた。


琥珀色の目が、竜舎の入口の方を見る。


そこには誰もいない。


黒猫の見習いもいない。


黒い竜はしばらく入口を見ていた。


やがて、喉の奥で低く音が鳴った。


ぐる、とも、うなるとも違う、小さな音だった。


黒い竜は動かない。


それでも、喉の奥の音は、すぐには消えなかった。




部屋に戻っても、クロは落ち着かなかった。


寝台の端に座る。立ち上がる。窓を見る。水差しを見る。手袋を見る。もう一度座る。


クレアが本を開いたまま、目だけを上げる。


「落ち着きなさい」


「落ち着いてる」


「その尻尾で言われても説得力がありませんわ」


クロは自分の尻尾を見た。


右へ左へ、落ち着きなく揺れていた。


手で押さえる。


クレアは深く息を吐いた。


泥の匂いがしない。


藁を踏む感触がない。


竜の息遣いが近くにない。


最初は、竜舎の仕事は大変だった。手は汚れるし、匂いは落ちないし、クレアは顔色を悪くするし、竜糞は存在感がありすぎた。


それなのに、今は戻りたいと思っている。


水桶を持ちたい。


床を拭きたい。


アテルのいる奥の空気を、少しだけでも感じたい。


クロは自分の手を見た。


この手で鞍具を持った。濡れた藁に手をついた。クレアの腕を掴んだ。アテルの鱗を掴んだ。


そして今は、何も持っていない。


「クレア」


「なんですの」


「何もできない」


クレアは本を閉じた。


ぱたり、と乾いた音がする。


「何もできないのではありません。休むのも、処分を受けることも、あなたのすることです」


クロは目を瞬かせた。


「休むのも?」


「そうです」


「処分も?」


「そうです」


クレアは立ち上がり、クロの前に来る。


「あなたは戻ってきました。黒い竜も戻りました。それで全部終わったわけではありませんわ」


クロは黙った。


「戻ってきたなら、休みなさい。怒られなさい。処分も受けなさい。心配した者の顔も、ちゃんと見なさい」


クロは黙った。


クレアの言葉は、少し痛かった。


痛いだけではなかった。


「怒られるのも?」


「当然です」


「心配されるのも?」


クレアの眉が少しだけ動いた。


「……それも、受けなさい」


「うん」


クロは小さく頷いた。


クレアはそれを見て、少しだけ視線を逸らした。


「まったく。本当に手のかかる黒猫ですわ」


その声は呆れていた。


少しだけ、柔らかかった。




何も持っていない手を見ていると、ここに来てからのことが、ぽつぽつと戻ってきた。


王都の門。


竜騎士団の受付で、自分の名前を言った時の喉の硬さ。


初めて会ったクレアの、冷たく見えた目。


入団試験で走った足の熱さ。


座学の最後、一行だけ書いた答え。


間に合う人。


あの時は、それ以上書けなかった。


今は、その一行の中に入るものが、前よりずっと多くなっていた。


竜舎の泥と藁。重い鞍具。教官の足音。


黒い竜の片目。


今は触るな、と言われた声。


見すぎないこと。


言わないこと。


待つこと。


独りにさせたくなくて走ったこと。


首にしがみついて、離さなかったこと。


廃墟の教会。塞がれた穴。アテルの背から見た空。


そして、処分。


クロは寝台に腰かけたまま、膝の上で指を組んだ。


間に合える人になりたい。


その気持ちは、変わっていない。


間に合いたいなら、走らなければならない。


それも、変わらない。


ただ、走ればいいわけではなかった。


見たものを全部言えばいいわけではない。気づいたものへ、すぐ手を伸ばせばいいわけでもない。


言わないこと。


待つこと。


戻ってきたあとに、責任を受けること。


怒られて、待たされて、それでもまた立つこと。


それもきっと、間に合える人になるために必要なことだった。


クロは、ゆっくり息を吸った。


自分はまだ、竜騎士ではない。


見習いだ。


処分を受けた見習いだ。


それでも、ここにいる。


ここに残れた。




夕方、窓の外が少し赤くなった頃、遠くで竜の声がした。


クロの耳が動く。


すぐに、クレアが言う。


「行きませんわよ」


「まだ何も言ってない」


「耳が言いました」


クロは耳を押さえた。


クレアは椅子に座ったまま、少しだけ口元を緩めたように見えた。すぐに戻ったので、たぶん気のせいかもしれない。


「七日で済んだのです」


クレアは言った。


「あなたは戻ってこれて、今ここにいる。その有り難みを享受なさい」


クロは窓の外を見た。


戻ってきた。


そうだ。


自分は戻ってきた。


アテルも戻ってきた。


戻ってきたから、処分を受けている。戻ってきたから、クレアに怒られている。戻ってきたから、七日間を長いと思える。


クロは少しだけ黙った。


「クレア」


「なんですの」


「ここに戻ってこれて、よかった」


クレアは一瞬、言葉を失ったように見えた。


それから、手袋の指先を整える。


もう整っているのに、もう一度。


「……当たり前ですわ」


低い声だった。怒ってはいなかった。


クロは頷いた。


「うん」


窓の外には、夕暮れの空が広がっている。


あの空を、クロはもう知っていた。


アテルの背から見た地平線も、山脈も、森も、川も、あの時触れた近い雲も、まだ目の奥に焼き付いている。


今は、そこへ行けない。


竜舎にも、アテルのそばにも。


七日間の処分。


長い。


それでも、終わらない時間ではなかった。


見上げる空は、まだ遠い。


泥の匂いも、藁の重さも、処分を受けた朝の胸の痛みも、きっとあの空へ続いている。


クロは待つ。


待って、また歩き出す。


いつかもう一度、あの空へ行くために。

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