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一章 第29話 「沙汰」

朝、クロは呼び出された。


通常訓練ではない。竜舎仕事でもない。昨日の件について、正式な沙汰を受けるための呼び出しだった。


身体はまだ重い。腕にも肩にも、黒い竜の背にしがみついていた疲れが残っている。けれど、眠れなかったわけではなかった。昨夜、狭い寝台の隣にはクレアがいて、その呼吸が近くにあった。


クロが目を覚ました時、クレアはすでに身支度を終えていた。


いつものように髪を整え、制服の襟を正し、手袋の指先まできちんと揃えている。けれど、目元には少しだけ眠りの浅さが残っていた。


「私も行きます」


クレアは短く言った。


クロは少しだけ瞬きをする。


「いいの?」


「あなた一人で行かせる方が、よほど不安ですわ」


声は低かった。


怒っている。


けれど、その怒りの奥にあるものを、クロはもう少しだけ知っていた。


「うん」


クロは頷いた。


二人は並んで部屋を出た。




沙汰の場は、竜騎士団本部の小さな会議室だった。


広くはない。けれど、机の上には書類が揃えられ、壁際には書記役が立っている。竜騎士団側の上官と、王国軍部の監察役らしい男が席についていた。


レイヴンはいない。


昨日の取り調べとは違う。ここには、怒鳴り声も、走る足音も、竜舎の匂いもない。ただ、紙の匂いと、冷えた朝の空気だけがあった。


クロは部屋の中央に立たされた。


クレアは少し後ろに控える。発言を許された立場ではないのだろう。それでも、そこにいてくれた。


「クロ・レインフォート」


竜騎士団側の上官が名を呼んだ。


「はい」


クロは背筋を伸ばす。


声が少し硬くなった。


王国軍部の監察役は、椅子に深く座ったまま表情を変えなかった。机の上には、竜舎の損壊箇所と王都外への離脱経路を記した書類が置かれている。


ここは、竜騎士団の内輪だけで済む場ではないのだと、クロにも分かった。


上官は手元の書類へ一度目を落とし、淡々と読み上げた。


「お前は命令を受けず、暴走状態にあった黒い竜へ接近した。その結果、王都外へ離脱し、竜騎士団および王国軍部を動かす事態を招いた」


クロは唇を結んだ。


「はい」


「本来、見習いの身でこのような危険行動を取ることは、到底看過できるものではない。お前自身の生命だけでなく、王都、竜騎士団、周辺住民へ被害を広げる可能性があった」


言葉は冷たかった。


責める声ではない。


ただ、事実を並べる声だった。


だから余計に、胸の奥へ落ちる。


クロは何も言えなかった。アテルを独りにしたくなかったことも、無我夢中だったことも、結果として戻ってこられたことも、ここで口にすれば全部言い訳になる気がした。


上官が次の紙を見た。


「よって、退団処分が相当と判断された」




ーー退団。




その言葉だけが、部屋の中で重く響いた。


紙をめくる音も、書記役の息遣いも、一瞬遠くなった。


クロは唇を噛み締めた。


俯く。


拳を握る。


指先が、手のひらに食い込んだ。


竜騎士団に来た。


ここまで来た。


白い竜を見た日から、ずっとここへ来たかった。

父と母に送り出され、ジェミノ村を出て、王都へ来て、クレアと同じ部屋になって、竜舎で泥にまみれた。

その全部が、ここで終わる。


それが、ここで終わる。


そう思った。


何かを言えば、もっと悪くなる気がした。


だから、クロは黙っていた。


背後で、クレアが息を呑む気配がした。


手袋の革が、小さく軋む。


何かを言いかけたように、空気がわずかに動いた。けれど、クレアも何も言わなかった。


沙汰の場で、勝手に口を挟むことはできない。


その沈黙を、上官の声が切った。




「だが」




クロの耳が、わずかに動いた。


顔は、すぐには上げられない。


「処分相当であるという判断は、覆らない」


その言葉に、クロの握った拳が少しだけ強くなる。


「だが、ヴァルフリート・フォン・アイゼンベルク竜騎士団長、オイゲン・フォン・レーヴェンハルト大隊長、レイナ・アス・クラウゼ小隊長より、酌量を求める意見書が提出されている」


知らない名前があった。


ヴァルフリート・フォン・アイゼンベルク。


けれど、竜騎士団長、という言葉だけで、クロの背筋は少しだけ伸びた。


次の名前に、クロは隣ではなく、後ろにいるクレアの気配を意識した。


オイゲン・フォン・レーヴェンハルト。


レーヴェンハルト。


クレアと同じ家名だ。その名前が出た瞬間、背後のクレアの姿勢がほんの少し硬くなった気がした。


そして、最後の名前。


レイナ・アス・クラウゼ。


クロの胸の奥が、少しだけ動いた。


冬のジェミノ村。


桜色の竜。


黒い竜と共に、魔狼から村を守った竜騎士。


今は、小隊長なんだ。


そう思った。


背後で、クレアの手袋の指先がわずかに動いた。


上官は続ける。


「酌量理由は三つ」


紙をめくる音がした。


「一つ。黒い竜を竜騎士団へ帰還させたこと」


クロは目を伏せた。


帰還させた、という言葉は少し違う気がした。クロが命じたわけではない。アテルは、自分で戻った。けれど、クロが背にいたのも事実だった。


「二つ。王都外でのさらなる被害を防いだ可能性があること」


廃墟の町。


教会。


オーガ。


黒い竜が穴を塞いだ夜。


短い場面が、胸の中を通り過ぎる。


「三つ。黒い竜がレインフォート見習いを背に乗せて帰還し、帰還後も抵抗しなかったこと」


黒い竜の背中の硬さを思い出した。


レイヴンではない重さ。


それでも、アテルは飛んだ。訓練場へ降り、おとなしく鎖に繋がれた。


「以上は、処分判断において無視できない事実とされた」


褒められているわけではなかった。


許されたわけでもない。


ただ、事実として並べられている。


クロは、そのことを感じた。


上官は書類を置いた。


「よって、退団処分は保留とする」


クロは、ゆっくり顔を上げた。


「ただし、厳重譴責。通常訓練および竜舎への立ち入りを七日間禁ずる。その間は医務室の指示に従い、身体の回復と経過観察に努めよ」


退団ではない。


その言葉が、遅れて胸の中に落ちる。


けれど、嬉しいと言えるほど軽くはなかった。


上官の声は続く。


「また、今後半年間、黒い竜への接近は、担当教官および竜舎番の許可を必要とする。半年後、勤務態度、訓練記録、黒い竜の観察記録をもって、処分の継続または解除を再審議する」


半年。


黒い竜への接近は、許可がいる。


クロは一瞬、竜舎の奥を思い出した。


片目だけを開けていた黒い竜。


白い線。


近づきすぎないように立ち止まった場所。


今度は、自分の意思だけではなく、沙汰として距離が置かれる。


「黒い竜については、厳重管理を継続。観察および再評価の対象とする。担当教官への沙汰は、別途通達される」


担当教官。


レイヴンのことだ。


昨日、部屋を出ていった背中を思い出す。


すまなかった。


俺は、あいつに届かなかった。


あの声が、耳の奥に残っている。


クロは拳を握り直した。


「以上だ。処分を受けるか」


上官が言った。


クロは背筋を伸ばした。


喉の奥が、一度だけ引っかかった。


声は少し掠れた。


それでも、言った。


「はい。……受けます」


上官は頷いた。


「下がれ」


クロは深く頭を下げた。


背後で、クレアも同じように頭を下げる気配がした。




会議室を出ると、廊下の空気が少しだけ柔らかく感じた。


それでも、胸の奥は重いままだった。退団ではなかった。けれど、七日間、訓練にも竜舎にも入れない。半年間、アテルへ自由には近づけない。


クロはしばらく黙って歩いた。


隣を、クレアが歩いている。


いつものように背筋を伸ばしているけれど、手袋の指先は少し強く握られていた。


クロはぽつりと言う。


「退団じゃなかった」


クレアは前を向いたまま答えた。


「退団だったら、昨日より怒っていました」


声は低い。


けれど、昨日の夜のような震えはなかった。


クロは少しだけ耳を動かした。


「昨日より?」


「当然です。これ以上心配させる気でしたら、私はあなたを許しません」


「うん……」


クロは小さく頷いた。


クレアは一度だけ横目でクロを見る。


「七日間、竜舎に入れませんわね」


「うん」


「当然です。反省なさい」


「うん」


素直に返事をすると、クレアは少しだけ眉を寄せた。


「そこで素直にされると、怒りにくいのですが」


「ごめん」


「謝ればいいというものではありません」


そう言いながら、クレアの声はほんの少しだけ柔らかくなっていた。


廊下の先で、竜舎へ続く通路が見える。


今は騎士が立っている。昨日より警備が増えていた。奥までは見えない。けれど、そこに竜がいることは分かる。


クロは足を止めた。


竜舎の方から、低い息遣いが聞こえた気がした。


本当に聞こえたのかは分からない。


でも、黒い竜はそこにいる。


アテルは、そこにいる。


会いに行くことはできない。


今は、許可がいる。


クロは拳をほどいた。さっきまで強く握っていた手のひらに、爪の跡が残っている。


クレアも足を止めた。


「行きませんわよ」


「うん」


「七日間です」


「うん」


「半年間、勝手に近づくのも駄目です」


「分かってる」


クレアは少しだけ目を細める。


「本当に?」


クロは考えた。


それから、頷いた。


「たぶん」


「そこは、はい、と言いなさい」


「はい」


クレアは小さく息を吐いた。


クロはもう一度だけ、竜舎の方を見る。


戻ってきた。


でも、それで全部が終わったわけではない。


泥と藁の匂いは、まだ遠い。


明日の朝、竜の声で目を覚ましても、あの石床を掃くことはできない。


黒い竜の息も、まだ遠い。


クロはゆっくり向き直った。


今は、まだ。


クレアが隣で歩き出す。


クロも、その隣を歩いた。

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