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一章 第28話 「帰還」

訓練場には、多くの人が集まっていた。


竜騎士団の団員。竜舎番。王国軍部の兵士。見習いたちの姿もある。ただし、誰も不用意に前へは出ない。視線は皆、空へ向いていた。


「北東より竜影!」


報告の声が走る。


訓練場の空気が、さらに張り詰めた。


「黒い竜です!」


その言葉で、何人かが息を呑む。


昨日、竜舎を壊して飛び去った黒い竜。鎖を引きちぎり、柱を砕き、見習いの少女を乗せたまま空へ消えた竜。


その黒が、朝の空の中から近づいてくる。


けれど、飛び方は昨日とは違っていた。


黒い竜は、翼で空気を叩きつけるようには降りてこなかった。大きな翼で風を受け、ゆっくりと高度を落としてくる。荒れていない。急いでいない。けれど、その大きさだけで訓練場の空気が押される。


背に、人影があった。


小柄な黒い耳。


竜の背にしがみつくように乗った、黒猫の少女。


「クロ……!」


誰かの声が漏れた。


黒い竜は訓練場の中央へ降りた。黒い爪が土を掴み、大きな翼が一度だけ広がる。風が砂を払い、見守っていた者たちの服を揺らした。


それから、翼は静かに畳まれた。


クロは、しばらく動けなかった。


地面に着いたことは分かっている。訓練場の匂いも、遠巻きに見ている人たちの気配もある。けれど、目の奥にはまだ空が残っていた。


地平線。


森。


山脈。


雲。


黒い竜の背から見た、世界の形。


そのすべてが、まだ身体の中で風のように流れている。


「あ」


ようやく周りの視線に気づいて、クロは小さく声を漏らした。


団員も、兵士も、見習いたちも、こちらを見ている。


とても見ている。


クロは、黒い竜の背の上で少し固まった。


黒い竜が、ゆっくりと身体を伏せる。


降りやすいように。


クロはそれに気づいて、鱗にかけていた指を少し緩めた。


「ありがと」


小さく言って、黒い竜の背から降りる。足が地面についた瞬間、膝が少しだけ震えた。空の上とは違う重さが、足の裏に戻ってくる。


そこへ、声が飛んだ。


「クロ!!!」


クロは肩を跳ねさせた。


声の方を見るより早く、金色の髪が視界に入る。クレアが走ってきていた。息を切らし、髪を乱し、手袋の指先も整っていない。


いつものクレアではなかった。


クロは反射的に思った。


あ、やばい。


怒られる。


クレアは止まらなかった。


クロの前まで来ると、すごい剣幕で手を振り上げる。細い手だった。いつもなら手袋の指先まで整えられた、令嬢らしい手。


クロは目を閉じた。


叩かれると思った。


けれど、いつまで待っても頬を打つ痛みは来なかった。


かわりに、震えた指先がクロの頬に触れた。


そっと。


壊れ物に触れるみたいに。


クロはゆっくり目を開けた。


クレアがいた。


目に涙をため、唇を震わせている。怒っている顔だった。けれど、それだけではなかった。


クロの胸が、きゅっと狭くなる。


「クレア、ごめん……」


その一言を聞いた瞬間、クレアの表情が崩れた。


「ごめんじゃないでしょうが!」


声が震えていた。


「私がどれだけ心配したと思うの!」


クロは何も返せなかった。


クレアの手は、まだクロの頬に触れている。指先が震えている。怒りではなく、恐怖と安堵で震えていた。


「死んじゃったかと……もう二度と会えないかと思ったのよ……」


とうとう涙がこぼれた。


クレアはそのままクロの胸に顔を埋める。金色の髪が、クロの顎の下に触れた。いつものような冷たい言葉も、取り繕った声もない。


クロは、そっと腕を回す。


「うん……」


それしか言えなかった。


「うん」


もう一度、同じ言葉を繰り返す。


クレアは泣いていた。


クロは、黒い竜の背で見た世界の広さよりも、その震える肩の方が、今はずっと近くに感じた。




ぐる、と低い音がした。


黒い竜の喉が鳴った音だった。


わざとらしいくらいに。


クレアの肩が、ぴたりと止まる。


クロの胸に顔を埋めたまま、クレアはゆっくりと顔を上げた。そして、すぐ近くにいる黒い竜を見る。


黒い鱗。


大きな爪。


琥珀色の目。


昨日、鎖を引きちぎり、柱を砕き、竜舎から飛び出した竜。


クレアの顔から、血の気が引いた。


「……」


声にならなかった。


次の瞬間、クレアの身体から力が抜ける。


「クレア?」


クロは反射的に抱きとめた。


小柄な黒猫の腕の中に、金髪の令嬢がすっぽり収まる。クロはそのまま、クレアを抱え直した。いわゆる、お姫様抱っこになっている。


周囲の兵士たちが一瞬、何とも言えない顔をした。


クロも少しだけ困った。


「えっと」


黒い竜が、もう一度だけ低く喉を鳴らした。


今度は少しだけ満足そうに聞こえた。


気のせいかもしれない。


騎士の一人が駆け寄ってくる。


「レインフォート、こちらへ。医務と事情聴取が先だ」


「はい」


クロはクレアを抱えたまま頷いた。


歩き出す前に、一度だけ振り返る。


黒い竜は、訓練場の中央に伏せていた。


竜舎番と騎士たちが慎重に近づく。新しい鎖が運ばれてくる。周囲の空気はまだ張り詰めていたが、黒い竜は暴れなかった。


クロを見る。


ゆっくりと、一度だけ瞬きをした。


それから、差し出された鎖に逆らわなかった。


重い金具の音が、訓練場に落ちる。


黒い竜は、おとなしく繋がれた。




取り調べは、思っていたより長かった。


クロは部屋の椅子に座らされ、何度も同じことを聞かれた。王都から飛び出した時のこと。飛んでいる間のこと。落ちた場所。廃墟の町。教会。魔物。黒い竜が穴を塞いだこと。朝になって、黒い竜の背に乗って戻ったこと。


覚えている範囲で答えた。


覚えていないことは、覚えていないと言った。


クレアも隣にいた。


一度気を失ったあと、医務室で目を覚まし、顔色の悪いままクロの隣に座っていた。怒っているのは分かった。心配しているのも分かった。時々こちらを見る目が、いつもよりずっと鋭い。


けれど、離れようとはしなかった。


「つまり、黒い竜は自分から戻ったのだな」


軍部の者が確認する。


クロは少し考えてから頷いた。


「はい。たぶん」


「たぶん、では困る」


「でも、私が命令したわけではありません」


そう言うと、隣でクレアがほんの少しだけ息を吐いた。


怒られたのか、助けられたのか、クロには分からない。


質問は続いた。


どこで魔物と遭遇したか。黒い竜は魔物をどうしたか。クロに負傷はないか。




やがて、一通りの説明が終わった頃、部屋の扉が開いた。


レイヴンが入ってきた。


片方だけ違う足音が、床に短く響く。


部屋の中が静かになった。


クロは背筋を伸ばした。


レイヴンは、いつもの眠そうな顔ではなかった。険しさを含んだ硬い表情でクロの前まで来て足を止める。


クロは言葉を探した。


謝らなければいけない気がした。勝手に飛びついたこと。黒い竜を追いかけたこと。竜騎士団を大騒ぎにしたこと。


「あの……」


言いかけた瞬間、レイヴンが口を開いた。


「すまなかった」


クロは、きょとんとした。


「え」


レイヴンは目を逸らさなかった。


「俺は、あいつに届かなかった」


短い言葉だった。


けれど、それだけで、部屋の空気が重くなる。


クロは何も言えなかった。


黒い竜の背中の硬さを思い出す。空へ飛ぶ前、手のひらの下でこわばった大きな身体。レイヴンではない重さを背に受けた時の、あの深い硬さ。


レイヴンはそれ以上を語らなかった。


「沙汰は明日下る。それまで身体を休めろ」


そう言って、踵を返す。


クロは何かを言おうとした。


でも、言葉は出てこなかった。


レイヴンの硬い方の足音が、部屋の外へ遠ざかっていく。


扉が閉まる。


その音がしてからも、クロはしばらく動けなかった。




その夜、クロとクレアはようやく部屋に戻された。


身体を洗い、泥や血の匂いを落とし、簡単な食事を取らされた頃には、外はすっかり暗くなっていた。竜騎士団本部の中はまだ落ち着いていない。廊下には兵が残り、遠くで何度か扉の開閉する音がした。


それでも、二人の部屋だけは静かだった。


クロは下段の寝台に入り、毛布を引き上げる。


その時、いつもと少し違う匂いに気づいた。


竜舎の匂い。洗ったばかりの布の匂い。それから、クレアの髪に使っている香油のような、淡い匂い。


クロは瞬きをした。


自分の寝台なのに、少しだけクレアがいたような気がする。


上段では、布の擦れる音がした。クレアも寝台に入っている。部屋の明かりは落とされ、窓から入る夜の光だけが薄く床を照らしていた。


クロは少し迷ってから、上を見上げた。


「クレア」


少し間があった。


「なんですの」


返ってきた声は、ぶっきらぼうだった。


クロは毛布の端を握る。


「怒ってる?」


「怒っています」


即答だった。


クロは耳を少し伏せた。


「ごめんね、クレア」


上段から、すぐには返事がなかった。


沈黙のあと、クレアの低い声が落ちてくる。


「もう二度と、同じような真似はしないで」


その声は怒っていた。


けれど、いつもの冷たい嫌味とは違った。


クロは小さく頷いた。


「うん……」


部屋が静かになる。


しばらく、二人とも何も言わなかった。廊下の遠くで誰かの足音がする。すぐに消える。窓の外では、夜風がかすかに鳴っていた。


やがて、上段で布が動いた。


梯子に足をかける音がする。


クロは顔を上げた。


クレアが下へ降りてきていた。


髪はほどかれていて、寝間着姿だった。いつものように背筋は伸びている。けれど、顔は少し疲れて見えた。


「どうしたの?」


クロが聞く。


クレアはしばらく黙っていた。


それから、目を逸らしたまま言う。


「少しスペースを空けてくださる?」


クロはきょとんとした。


「ここ?」


「他にどこがありますの」


いつもの声だった。


少しだけ低くて、少しだけ刺さる。


クロは言われた通り、寝台の奥へ身体を寄せた。下段の寝台は二人で使うには狭い。けれど、クロは小柄だし、クレアも無理やり入れば入れないことはなかった。


クレアは何も言わず、クロの隣に横になる。


肩と肩が、ほんの少し触れた。


クロは横を向いた。


「クレア?」


「黙りなさい」


低い声だった。


でも、クレアは離れなかった。


クロはそれ以上、何も言わなかった。


狭い寝台の中で、クレアの呼吸が近くにある。


クロは目を閉じた。


帰ってきたのだと、少しだけ思った。

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