一章 第27話 「残された部屋」
黒い竜が飛び立ったあとも、クレアはしばらく動けなかった。
竜舎の壊れた柱。引きちぎられた鎖。散った藁と石片。騒然と走り回る竜舎番と騎士たち。その向こうに、黒い竜の影はもうない。
クロも、いなかった。
「クロ!!!」
叫んだ声は、喉の奥にまだ残っていた。届かなかった声だ。空へ飛び去る黒い竜の背に、細い身体がしがみついていた。その光景ばかりが、目の奥に焼きついている。
立たなければと思うのに、膝がうまく動かない。
黒い竜の爪も、翼も、鎖を引きちぎった力も、まだ目の奥に残っている。
「クロ……」
声は震えていた。
その日の竜騎士団本部は、いつもの本部ではなくなった。
竜舎へ続く通路には騎士が立ち、見習いたちは全員、部屋へ戻るよう命じられた。理由を問うことは許されない。廊下には見慣れない軍服があり、王国軍部の者たちが低い声でやり取りをしている。
戒厳令、という言葉がクレアの頭をよぎった。
実際にそう告げられたわけではない。けれど、本部の空気はそれに近かった。扉は閉じられ、竜舎への出入りは止められ、見習いたちは部屋から出るなと厳しく言われた。
教官の姿も見えなかった。
当事者として、上層部と軍部の事情聴取に立ち会っているのだと、廊下の向こうで誰かが言っていた。聞こえたのは、それだけだった。
クレアは部屋へ戻された。
扉が閉まる。
部屋の中は、昨日までと同じ形をしていた。二段寝台。机。小さな棚。窓から差し込む夕方の光。何も壊れていない。竜舎のように柱が折れているわけでも、鎖が引きちぎられているわけでもない。
けれど、下段の寝台にはクロがいなかった。
それだけで、部屋の形が違って見えた。
クレアは上段へ登らなかった。
気づけば、下段の寝台の前に立っていた。そこはクロの場所だった。小柄な黒猫の少女が、いつも少し丸まるようにして眠っていた場所。
毛布は少し乱れている。
枕元には、クロの荷物が残っている。
竜舎の匂いが、まだ薄く残っていた。藁と革油と、何度洗っても落ちきらない水の匂い。それから、クロの気配のようなもの。
クレアは、そっと毛布に手を置いた。
自分の手袋が、少し汚れていることに気づく。竜舎の泥。石の粉。何かを掴み損ねたままの指。
クレアは手袋を外し、素手で毛布を掴んだ。
そのまま、クロの寝台に身体を伏せる。
「……何をしているの、私は」
誰に言うでもなく呟いた。
答える声はない。
クロなら、何か変な返事をしたかもしれない。ただこちらを見て、少しだけ耳を動かしたかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥が詰まった。
泣いてなどいない。
けれど、毛布を握る指に力が入る。布が皺になり、手の中で小さく潰れた。
クレアは顔を伏せたまま、息を殺した。
夜になっても、眠れなかった。
廊下の向こうでは、時折、鎧の音や走る足音が聞こえた。遠くで扉が開く。誰かが低く話す。すぐに閉じる。何度も同じような音がして、そのたびにクレアは顔を上げた。
けれど、クロは戻ってこない。
黒い竜の爪が石床を抉った音を思い出す。鎖が切れた時の音を思い出す。柱が砕け、黒い翼が竜舎の空気を押し潰した瞬間を思い出す。
そして、その首にしがみついたクロを思い出す。
暴れる黒い竜は恐怖そのものだった。
あの爪も、翼も、鎖を引きちぎった力も、思い出すだけで指先が冷える。
クロは無事だろうか。
あの竜に殺されていないだろうか。
そこまで考えて、クレアは強く首を振った。
違う。
「そうであってたまるものですか……」
声は毛布に吸われた。
クレアはクロの寝台に身体を埋めたまま、目を閉じる。けれど、目を閉じると黒い竜の影が浮かぶ。ならばと目を開ければ、空の寝台が見える。
どちらも嫌だった。
だから、眠れなかった。
夜が長い。
これほど夜が長いと思ったことはなかった。
何もできないまま待つことが、こんなにも息苦しいとは知らなかった。
父なら、何かを知っているだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、クレアの身体は小さく強張った。
オイゲン・フォン・レーヴェンハルト。
私の父。
レーヴェンハルト子爵家当主であり、竜騎士団大隊長。
クレアにとって、父は近くて遠い人だった。尊敬している。恐れてもいる。父の前では、背筋が勝手に伸びる。言葉を間違えてはならないと思う。失望されてはならないと思う。
その父のもとへ、自分から行く。
考えただけで、胸の奥が冷えた。
けれど、クロがいない。
その事実の方が、ずっと冷たかった。
クレアはほとんど眠れなかった。
窓の外が白み始め、鳥の声が遠くで聞こえる。竜騎士団本部の朝はいつも早い。けれど、その日の朝は、いつもの訓練前のざわめきとは違っていた。廊下にはまだ緊張が残り、誰も大きな声で笑わない。
クレアはクロの寝台から身体を起こした。
髪を整える。顔を洗う。制服の襟を正す。いつも通りにしようとすればするほど、指先がうまく動かない。
手袋をはめる。
一度、指先を整える。
二度。
三度目で、クレアは自分の指が震えていることに気づいた。
「……しっかりなさい」
小さく言って、息を吸う。
父に会いに行く。
そう決めただけで、背中が勝手に固くなった。けれど、扉へ向かう足は止めなかった。
廊下に出ると、空気は冷たかった。見習いたちの部屋が並ぶ区画は静かで、いつもの朝の気配は薄い。扉の向こうで誰かが起きている音はする。けれど、誰も出てこない。
クレアは一人で歩いた。
大隊長の執務室へ近づくにつれ、軍服の姿が増える。視線が一瞬こちらへ向く。レーヴェンハルトの娘だと気づいた者もいるだろう。それでも、クレアは足を止めなかった。
止まりそうになるたびに、クロの顔が浮かんだ。
竜舎で泥にまみれながら、平然と水桶を持っていた黒猫。
治った腕を見て、短く「もう大丈夫なんだね」と言った黒猫。
昨日、黒い竜の首にしがみついた黒猫。
クロは、怖いものの前で止まらなかった。
なら、自分も動かなければならない。
クレアは執務室の扉の前で立ち止まった。
手袋の中で、指先を握る。
それから、扉を叩いた。
「入れ」
低い声が返ってきた。
クレアは扉を開けた。
執務室の中には、父がいた。大きな机の向こうに立ち、数枚の書類に目を通している。夜通し対応に追われたのだろう。それでも姿勢は崩れていない。軍服に乱れはなく、表情にも疲労を出さない。
オイゲン・フォン・レーヴェンハルトは、書類から目を上げた。
「クレア」
ただ名前を呼ばれただけで、背筋がさらに伸びた。
「この時間に、何用だ」
声は平坦だった。
父としてではなく、大隊長としての声。
クレアは喉の奥が乾くのを感じた。言葉が一度、舌の上で止まる。けれど、ここで止まれば、何のために来たのか分からない。
クレアは深く息を吸った。
「クロ・レインフォートの捜索隊を出してください」
言った。
声は少し震えていた。
それでも、言った。
オイゲンの目がわずかに細くなる。
「見習いが口を出すことではない」
「承知しています」
即座に返した自分の声に、クレア自身が少し驚いた。
父の前で、こんなふうに言葉を重ねたことがあっただろうか。
ない。
少なくとも、クレアの記憶にはなかった。
「ですが、彼女は黒い竜に連れ去られました。負傷している可能性もあります。場所も分かりません。時間が経てば、状況は悪くなります」
「それを判断するのはお前ではない」
「分かっています」
手袋の指先を握る。
怖い。
父の目を見るのは怖い。間違えることも、叱責されることも、失望されることも怖い。
それでも、クロは戻っていない。
「それでも、お願いします」
オイゲンは黙っていた。
その沈黙が重い。クレアは自分の心臓の音まで聞こえる気がした。
「なぜそこまで言う」
父の声は冷たいままだった。
クレアは唇を結んだ。
なぜ。
その答えなら、夜の間ずっと胸の中にあった。
「クロ・レインフォートは、私の……」
一度、言葉が詰まる。
友人。
その言葉を、父の前で言う。
言ってしまえば、もう戻せない。礼を言うことさえ難しかった相手を、自分の口で友人だと認めることになる。
クレアは手袋の指先をさらに強く握った。
「大切な友人なのです……」
声が震えた。
けれど、クレアは下がらなかった。
「彼女が居なければ、私は今ここには居ません」
言い切った。
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
オイゲンは、しばらく娘を見ていた。
クレア自身も、こんなに父の前で言葉を出した自分を知らなかった。
けれど、オイゲンの表情は変わらない。
「レーヴェンハルトの娘が、私情で動くなどあってはならない」
冷たい声だった。
その言葉に、クレアの喉がきゅっと狭くなる。
分かっている。
そう言われることは、分かっていた。
それでも痛かった。
クレアは奥歯を噛む。
次の言葉を探そうとした、その時だった。
「捜索隊は既に出してある。部屋に戻れ」
クレアは息を止めた。
父は机上の書類へ視線を落としている。その手元には、封蝋の押された命令書があった。既に処理された書類。既に動いている命令。
私情ではない。
父はそう言った。
けれど、必要な手は、もう打たれていた。
クレアは唇を結んだ。
言いたいことは、まだある。聞きたいこともある。どこへ向かったのか。何人出たのか。クロを見つけられるのか。
けれど、父は既に捜索隊を出している。
ならば、これ以上ここに立ち続けることは、願いではなく我が儘になる。
クレアは深く頭を下げた。
「……失礼いたします」
声はまだ少し震えていた。
それでも、最後まで崩さなかった。
オイゲンはそれ以上、何も言わなかった。
クレアは踵を返し、扉へ向かう。背中に父の視線を感じた気がしたが、振り返らなかった。
扉を開けた瞬間、廊下の空気が変わった。
兵が走る音。
誰かの声。
「大隊長!」
クレアの後ろで、椅子が引かれる音がした。
「北東より竜影!」
その報告に、クレアの足が止まる。
「黒い竜です!」
黒。
手袋の中で、指先が冷えた。
けれど、続いた声が廊下を裂いた。
「背に、人影あり!」
その言葉を聞いて、クレアは走りだした。




