一章 第26話 「飛ぶという事」
黒い竜は、身を低くしたまま待っていた。
前脚を折り、長い首を下げ、片目でクロを見ている。朝の光を受けても、その鱗は黒いままだった。教会の外へ出たことで、彼の身体の大きさが改めて分かる。壊れた壁よりも高く、崩れた屋根よりも大きく、翼を少し広げただけで周りの空気が動いた。
クロは、すぐには近づけなかった。
足が震えている。昨日、王都から飛び出した時のことを身体が覚えていた。黒い竜の首にしがみついて、風に叩かれて、何も考えられないまま空へ連れていかれた。あれは乗ったのではない。離さなかっただけだ。
今は違う。
この竜は、身を低くしている。
乗れ、と言われた気がした。
クロは一歩、近づいた。
黒い竜は動かなかった。ただ、鼻先から漏れる息が、少しだけ低くなる。クロはその音を聞きながら、鱗の近くまで行った。手を伸ばせば届く距離で、少しだけ止まる。
「乗っても、いい?」
声は小さかった。
黒い竜は答えない。
けれど、退かなかった。
クロは息を吸って、黒い鱗に手を置いた。硬い。冷たい石のようで、それでも奥には熱がある。手のひらの下で、大きな身体がわずかに強張った。
クロはすぐに登らなかった。
手を置いたまま待つ。
黒い竜の背は、しばらく硬かった。翼の端が一度だけ震え、長い尾の先が草を押す。けれど、彼はクロを振り払わなかった。身を起こすこともしなかった。
クロはもう一度、小さく頷く。
「……乗るね」
鞍も手綱もない。足をかける場所も分からない。クロは黒い竜の肩に近い鱗を掴み、痛む腕に力を入れて、ゆっくりとよじ登った。
暴走した時のように、必死に首へしがみつくのとは違う。今は、自分で乗ろうとしている。だからこそ、怖かった。
背中に上がった瞬間、黒い竜の身体がさらに硬くなった。
クロは息を止めた。
自分は軽いはずだ。見習いたちの中でも小さい。竜にとっては、きっと大した重さではない。
それでも、その背中は、クロの下で深くこわばっていた。
レイヴンではない重さ。
その言葉が、ふと胸の奥に落ちた。
クロは黒い鱗に指をかけたまま、しばらく動かなかった。何か言ったら近づきすぎる気がした。何も言わないまま、ただ背の上で息を整える。
やがて、黒い竜の首が少しだけ前を向いた。
クロは鱗を掴み直す。
「……お願い」
ぎこちない声だった。
黒い竜は答えない。
けれど、ゆっくりと身体を起こした。
黒い竜が地面を蹴った瞬間、クロは思わず鱗にしがみついた。
また、あの時のように空へ投げ出されるのだと思った。身体が勝手に縮こまり、耳が伏せる。風が来る。強く、荒く、何もかもを置き去りにする風が来る。
けれど、違った。
黒い竜は、荒く跳ね上がらなかった。
大きな翼が、一度、ゆっくりと風を受ける。次に、もう一度。翼の膜が朝の光を遮り、地面に大きな影が落ちた。黒い身体は、廃墟の町の上へ静かに持ち上がっていく。
王都を飛び出した時のような、怒りに裂かれる飛び方ではなかった。
傷も疲れも残っている。背中の硬さも消えていない。けれど、黒い竜は風を叩きつけるのではなく、確かめるように受けていた。
翼が風を掴むたび、身体が少しずつ高くなる。
速くはない。
けれど、大きかった。
空そのものを押し分けるような飛び方だった。
クロは最初、目を開けることもできなかった。鱗に頬を寄せ、指が痛くなるほどしがみつく。下を見れば落ちる気がした。風が耳の横を抜け、髪をさらい、尻尾が背中に張りつく。
それでも、黒い竜は揺らさなかった。
少なくとも、クロにはそう感じた。
黒い竜の背は硬いままだ。けれど、さっきより少しだけ、呼吸が深くなっている。クロはその息に合わせるように、自分の呼吸も少しずつ戻していった。
恐る恐る、顔を上げる。
壊れた教会が下にあった。
壁に大きな穴が空き、屋根の一部が落ち、朝の光の中で静かに崩れている。昨日の夜は、あの穴が世界の終わりみたいに見えた。今は、黒い竜の背から見下ろしている。
クロは息を飲んだ。
教会だけではなかった。
町が見えた。
崩れた家々。草に覆われた道。石畳の割れ目から伸びた細い緑。もう誰も座っていない広場のベンチ。倒れた看板。半分埋もれた桶。
その中に、見覚えのある井戸があった。
母と水を汲みに来た井戸だ。
クロはそこを見た。
小さい頃、桶を持ち上げようとして、重くてうまくいかなかった。母が笑って、片方を持ってくれた。井戸の石は夏でも少し冷たくて、手を置くと気持ちよかった。
広場のベンチも見えた。
父を待った場所。近所の人が芋を分けてくれた場所。走って転んで、膝を擦りむいた道。
それから、屋根の落ちた家。
クロが住んでいた家だった。
もう家の形はほとんど残っていない。壁の一部と、崩れた入口と、庭だった場所に伸びた草だけ。それでも、クロには分かった。
あそこに、いた。
怖いだけの町ではなかった。
壊れた教会だけの場所でもなかった。
ここには、井戸があって、家があって、母の声があった。父の手があった。小さなクロが走った道があった。
クロは、黒い竜の背にしがみついたまま、唇を噛んだ。
たぶん、もう戻ることはない。
そう思った。
この町へは、もう二度と帰ってくることはない。教会の穴を見に戻ることも、井戸の石に触れに来ることも、壊れた家の前に立つことも、きっとない。
それは少し怖くて、少し寂しかった。
帰りたいわけではない。
けれど、何もなかったことにはできない。
黒い竜は、すぐに王都の方へ向かわなかった。
一度だけ、町の上を大きく回る。
ゆっくりと。
クロが見失わない速さで。
翼が風を受け、黒い身体が廃墟の上を回る。教会、井戸、広場、家。町の形が、もう一度クロの目の中を通っていく。
クロは何も言えなかった。
言葉にすると、何かが崩れそうだった。
だから、最後に一つだけ言う。
「ありがとう……アテル」
黒い竜は答えない。
けれど、翼が一度、深く風を掴んだ。
黒い竜は、町から離れるように高度を上げた。
地面が遠くなる。
教会も、井戸も、家も、小さくなっていく。草に覆われた道が細い線になり、廃墟の町全体が、朝の光の中に沈んでいった。
クロは、まだ鱗を強く掴んでいた。
怖い。
怖いのに、目を閉じたくなかった。
黒い竜の翼が、大きく羽ばたく。風が身体の下を抜ける。さっきまで頬を打っていた風が、少しずつ流れに変わっていく。黒い竜の背が、風の上に乗る。
その瞬間、クロの身体がふっと軽くなった。
胸の奥が、驚くほど広がる。
目の前に、世界があった。
地平線。
遠くで青く霞む山脈。
深く広がる森。
朝の光を受けて細く光る川。
まだ遠い王都の方角には、薄く煙のようなものが立っている。雲が、思っていたより近い。空は上にあるだけではなく、横にも、前にも、ずっと広がっていた。
世界は、こんな形をしていた。
クロは息を忘れた。
自分の足では、絶対にここへ来られない。
どれだけ走っても、どれだけ木に登っても、この高さには届かない。畑も森も川も、いつもは横から見るものだった。けれど今は、全部が下にある。
森が流れていく。
川が光っている。
風が、黒い竜の翼を押している。
その時、胸の奥で、レイナの声が蘇った。
ーーでも、飛ぶのは好き。
竜が地面を蹴るでしょ。
そのあと、翼が風を掴むの。体が、ふっと軽くなる。地面が遠くなって、森も畑も川も、全部下へ流れていく。
自分の体だけじゃ絶対に行けない場所へ、この子となら、一緒に行けるーー
クロは、黒い鱗に指をかけたまま、風の中で目を開けていた。
レイナの言葉は、もう遠くの憧れではなかった。
風と、背中の硬さと、指先の震えが、それを教えていた。
怖い。
でも、きれいだった。
痛みも、怖さも、背中の硬さも、全部消えたわけではない。黒い竜の息はまだ重く、クロの指も震えている。けれど、それでも空は広かった。
白い竜に救われた時、クロは地上から空を見上げていた。
今は、黒い竜の背で、その空の中にいる。
クロは小さく息を吸った。
「この景色を、忘れない」




