一章 第25話 「共有」
琥珀色の目は、しばらくクロを映していた。
クロも、目を逸らさなかった。
やがて、黒い竜の瞼がゆっくりと下りる。
朝の光が、崩れた床に薄く伸びていた。
喉の奥に残っていた息が、少しだけ下りる。
昨日、オーガの目があった場所には、黒い鱗がある。
そこでようやく、自分の息が少し深くなっていることに気づいた。
クロは、まだ痛む指を握り、身体を起こした。腕は重く、肩の奥がぎしりと鳴る。黒い竜の首にしがみついていた感覚が、手のひらに残っていた。鼻の下をこすると、乾いた血が指先に触れた。
黒い竜は動かない。
眠っているのか、起きているのかは分からなかった。
クロは立ち上がらず、膝をついたまま少しだけ移動した。顔の前には行かない。大きな頭を覗き込むこともしない。黒い竜の肩に近い場所まで行き、そこに座る。
正面から見るより、その方がいい気がした。
黒い竜は退かなかった。
クロは、黒い鱗で塞がれた穴を見る。
「塞いでくれたんだね」
声は、小さく落ちた。
黒い竜は答えない。
閉じていた瞼が、ほんの少しだけ動く。
返事ではない。頷いたわけでもない。
それでも、聞こえていないわけではなかった。
クロはそれ以上、言葉を足さなかった。
少し迷ってから、黒い竜の身体に背中を預ける。
硬い。
けれど、石の壁とは違う。奥に息がある。鱗の下に、大きな体温がある。
彼は退かない。
しばらく、クロは何も言わなかった。
朝の光が、崩れた床に少しずつ伸びていく。床に散らばった石片の影が短くなり、昨日の夜には見えなかった細かなひびを浮かび上がらせる。
壊れた教会は、壊れたままだ。
けれど、穴の向こうに昨日と同じ目はない。
クロは膝を抱えた。
「私ね」
自分の声が、思ったより小さく響く。
黒い竜は動かない。
クロは顔を上げず、膝の上で指を組んだ。
「ここで、初めて竜を見たんだ」
クロは、崩れた壁の方を見た。
昔は、あそこに白い竜がいた。
砕けた石と土埃の向こうで、朝の光を受けていた。怖くて、痛くて、もうだめだと思った場所に、その竜は来た。
クロは助かった。
けれど、助からなかった人もいた。
そのことを、忘れた日はない。
「私ね、間に合う人になりたいんだ」
言ってから、少しだけ息を吸う。
あの日、父と母に告げた言葉と、同じ場所から出てきたものだった。けれど、今は少し違う。背筋を伸ばして、見送ってくれる人たちへ差し出す言葉ではない。
壊れた教会の片隅で、黒い竜に背中を預けたまま置く言葉だった。
「誰かが、もうだめだって思いながら死んでいくのを、少しでも減らしたい」
石床に、かり、と短い音が立った。
黒い竜の爪が、ほんの少しだけ床を掻いていた。
それきりだった。
クロは振り返りかけて、やめる。
今は、顔を見なくてもいい。
「助けが来ないまま、怖いまま、痛いまま終わるのを……なくしたい」
背中越しに、黒い竜の息が少しだけ深くなる。
意味は、追わなかった。
「だから、竜騎士団に来たんだよ」
言い終えて、クロは口を閉じる。
黒い竜は答えない。
低く鳴くことも、首を動かすこともしなかった。
ただ、クロの背中に触れている鱗の奥で、呼吸が続いている。
それだけで、よかった。
風の音がした。
崩れた壁のどこかを抜けて、朝の空気が教会の中へ入ってくる。夜の湿った匂いとは少し違う。土の匂い。砕けた石の匂い。遠くの草の匂い。
クロは黒い竜に背中を預けたまま、天井の欠けたところを見上げる。
空が見えた。
昔、この教会で見た空とは違う。あの時は壁が砕け、白い竜が現れ、何が起きているのか分からないまま見上げた空だった。
今は、黒い竜が穴を塞いでいる。
白ではなく、黒。
けれど、息はできる。
クロはしばらく黙っていた。
黒い竜も、何も言わない。
同じ場所にいて、同じ朝の光の中にいた。
やがて、クロは小さく瞬きをした。
静かすぎる教会の中で、ふと別の場所のことが浮かんだ。
竜舎。
石の床。藁の匂い。水桶。鞍具。見習いたちの声。眠そうな目の教官。低い声で文句を言う金髪の少女。
クロは膝を抱え直した。
「教官、怒ってるかなぁ……」
黒い竜は答えない。
「きっと怒ってるよね……」
石床に、かり、と一度だけ音がした。
肯定なのか、否定なのかは分からない。
レイヴンのことになると、この竜の空気は少し変わる。クロはそれを見た。けれど、奥までは追わなかった。
「クレア、心配してるかなぁ……」
言ってから、クロの耳が少しだけ下がる。
クレアの顔が浮かんだ。
たぶん、怒っている。低い声で何か言う。冷たくて、少し刺さる言い方をする。
けれど、今のクロには、それだけではない気がした。
「……戻ったら、謝らないと」
そこまで言って、クロは瞬きをする。
「あれ」
膝を抱えたまま、もう一度、教会の中を見回した。
朝の光が、崩れた床に薄く伸びている。壊れた椅子。割れた石。壁に残った大穴。そこを塞ぐ黒い竜の身体。
ここは、竜騎士団の竜舎ではない。
王都でもない。
「私たち、帰れるのかな」
黒い竜の息が、少しだけ深くなる。
クロはそれ以上、考えなかった。
帰るという言葉に反応したのか。
レイヴンのところへ戻ることに反応したのか。
それとも、王都の方角を思い出したのか。
今は、どれでもよかった。
黒い竜が、ゆっくりと身体を起こした。
鎖が床の石に擦れる音がする。塞がれていた穴から、朝の光が一気に広がり、クロは思わず目を細めた。
大きな黒い身体が、壊れた壁の向こうへ出ていく。
教会の中に、外の空気が入ってきた。さっきまで黒い鱗で塞がれていた穴の向こうに、廃墟の町が見える。崩れた家並み。草の伸びた道。朝の光を受けても、人の気配はない。
黒い竜は、教会の外で翼を少しだけ広げた。
朝の光を受けても、その鱗は黒いままだ。
けれど、動きは重い。
昨日の夜、ここまで飛び、魔物達を惨殺し、穴を塞いで伏せていた身体には、まだ疲れが残っている。
前脚が、ほんの少し震えていた。
それでも彼は、もう一度身を低くした。
前脚を折り、長い首を下げる。
片目が、クロを見ている。
乗れ、と言われた気がした。
声は聞こえない。
あの名を、もう一度呼びそうになって、クロは胸の中にそっと置いた。
クロは立ち上がった。
足は少し震えていた。
けれど、彼は待っていた。




