一章 第24話 「聲」
前を向いて飛べ。
その声が、胸の奥で弾けた。
違う。
そうではない。
行けと言うな。
飛べと言うな。
その先に、あの男がいないなら、私は――
声にならないものが、黒く、熱く、喉の奥から噴き上がる。
クロは、息を詰めて目を覚ました。
頬が濡れていた。
最初、それが涙だと分からなかった。冷たい石の匂いがする。乾いた血の匂いもあった。喉はひどく渇き、腕はまだ痛む。
けれど、痛みより先に、胸の奥に残っていた。
前を向いて飛べ。
その言葉に、壊れそうなほど激しく揺れたもの。
それは、クロのものではなかった。
教会の中は、まだ暗かった。
夜は終わりかけている。けれど朝の光は弱く、崩れた屋根の隙間から、青白く差し込んでいるだけだった。
石床は冷たい。
血の匂いがする。
そして、すぐ近くで、黒い竜の低い息が聞こえていた。
クロはゆっくり顔を上げた。
大穴は見えなかった。
そこに、黒い竜がいた。
大きな身体を低く伏せ、穴を塞いだまま動かない。黒い鱗には乾きかけた血がこびりつき、畳まれた翼は重たげに石床へ落ちている。引きずられた鎖が、床に斜めの跡を残していた。
黒い竜は、目を開けていた。
琥珀色の目が、クロを見ている。
いつから見ていたのかは、分からない。
クロは息を止めた。
怖い。
まだ、怖かった。
昨日、教会の穴から入ってきた黒い竜を見て、死ぬと思った。血の匂いも、重い足音も、自分の前で止まった黒い爪も、はっきり覚えている。
それでも、穴の向こうはもう見えなかった。
外の夜も、魔物の目も、あの大きな影も見えない。
黒い竜が、そこにいた。
大きな身体で穴を塞ぎ、低い息だけを、冷えた石床へ落としている。
クロは膝を抱えたまま、その黒を見上げた。
怖さは、まだ胸の奥に残っている。
けれど、その黒の向こうから、もう何も入ってこなかった。
それを守ると言っていいのか、クロには分からなかった。
けれど、穴は塞がっていた。
「……守ってくれたの?」
声は、思ったより小さく出た。
黒い竜は答えなかった。
ただ、琥珀色の目でクロを見ていた。
その目に何があるのか、クロには分からなかった。怒っているのか、疲れているのか、何も見ていないのか。それとも、ただこちらを見ているだけなのか。
しばらくして、黒い竜はゆっくりと瞼を閉じた。
それが答えなのかは、分からなかった。
でも、拒まれた感じはしなかった。
クロは、少しだけ息を吐いた。
しばらく、何も言えなかった。
外では、朝になりかけた風が草を揺らしている。けれど穴は黒い竜の身体に塞がれていて、教会の中へ入ってくる風は弱かった。
クロは膝の上で指を開いた。
まだ震えている。
腕も痛い。
触れていいのか、分からなかった。
けれど、触れてはいけないと決まっているわけでもない気がした。
昨日、黒い竜はクロの前で止まった。穴を塞いだ。けれど、それだけで何もかもが大丈夫になるわけではない。
黒い竜は怖い。
大きい。
強い。
たぶん、クロなど簡単に壊せる。
それでも、黒い竜は瞼を閉じたまま、低く息を落としている。
クロは、ゆっくり手を伸ばした。
途中で、止めた。
指先が震える。
黒い竜の喉だけが、かすかに上下している。
クロはもう一度、少しだけ手を伸ばした。
指先が、黒い竜の顔の横に触れた。
硬い鱗だった。
乾いた血が、指に少し引っかかる。
その奥に、熱があった。
生きている熱だった。
触れた瞬間、胸の奥に、夢の残りが戻ってきた。
背にある重さ。
手綱の張り。
空へ出る前の呼吸。
お前。
そう呼ばれただけで、翼が軽くなった。
クロの身体に翼はない。
それなのに、胸の奥のどこかで、飛び出す前の風を知っている気がした。地面を蹴る一瞬の重さ。空へ身体がほどける、その前の静けさ。背にあるものを誇りに思う、強くてまっすぐな熱。
それは痛みではなかった。
後悔でもなかった。
――誇らしい。
その言葉が、ゆっくり浮かんだ。
失ったものよりも先に。
許せないものよりも奥に。
たしかに、そこにあったもの。
クロは黒い竜の顔に触れたまま、ぽつりと言った。
「誇らしかったんだね……」
黒い竜の息が、一度だけ止まった。
爪の先が、石床を少し掻く。
低い音が、喉の奥で震えた。
クロは手を離さなかった。
強く押さえることもしなかった。
ただ、触れていた。
黒い竜の鱗は硬い。乾いた血はざらついている。けれど、その下にある熱は、さっきよりも近く感じた。
その時、何かが届いた。
声ではなかった。
けれど、ただ流れてくるものでもなかった。
低く、遠く、奥の方で震えているもの。
言葉になる前のものが、少しだけ形を持っている。
誇らしかった。
失った。
飛べる翼がある。
けれど、戻れない背中がある。
許せない。
自分を、許せない。
それは全部、はっきりした言葉ではなかった。
クロに分かったわけではない。
分かったと言ってしまえば、きっと違う。
ただ、黒い竜の奥で、それらが重なって震えている気がした。
冷たい石床の上に伏せているのに、その奥にはまだ熱があった。消えたのではない。冷え切ったのでもない。血と泥と痛みの下で、それでも消えずに残っている火のようなものだった。
クロは息を吸った。
黒い竜を呼びたいと思った。
でも、呼べなかった。
ずっとそうだった。
竜舎でも。
廃墟の町でも。
この教会でも。
大きくて、黒くて、傷ついていて、怖くて、それでも穴を塞いでいるこの竜を、クロはまだ呼べない。
「名前、知らない」
クロは掠れた声で言った。
黒い竜の瞼は閉じたままだった。
「呼びたいのに、呼べない」
それは頼みごとではなかった。
責める言葉でもなかった。
ただ、クロの中にあった困ったことが、声になっただけだった。
黒い竜の喉の奥が、ほんの少し震えた。
クロの指先に、その震えが伝わる。
低く。
遠く。
深く。
その奥に、短い音があった。
最初は、音だと分からなかった。
黒い。
重い。
けれど、冷たくはない。
誰かがつけた名ではない。
そう感じた。
もっと奥にあるもの。
人が書いたものでも、人が呼び継いだものでもない。
黒い竜が、黒い竜としてそこにいるための音。
ずっと前から、そこにあったような音。
クロの胸の奥に、それが落ちた。
短い音だった。
呼べば、きっと届く。
でも、呼ぶことが怖かった。
それは、ただ名前を呼ぶことではない気がした。
黒い竜の奥へ、もう一歩踏み込むことのような気がした。
クロは唇を開きかけて、止めた。
黒い竜は、静かに息をしている。
閉じた瞼。
血の残る鱗。
石床に落ちた重い翼。
穴を塞いでいる大きな身体。
怖さは、まだある。
それでも、クロは逃げなかった。
この竜は怖い。
血の匂いがする。
昨日、クロはこの竜を見て、死ぬと思った。
それでも、穴は塞がっている。
この竜の身体が、あの夜を塞いでいる。
クロは小さく息を吸った。
「……アテル」
黒い竜の息が、一度だけ止まった。
ゆっくりと、片目が開く。
琥珀色の目が、クロを映した。
クロは、その目から逃げなかった。




