表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/80

一章 第24話 「聲」

前を向いて飛べ。


その声が、胸の奥で弾けた。


違う。


そうではない。


行けと言うな。


飛べと言うな。




その先に、あの男がいないなら、私は――




声にならないものが、黒く、熱く、喉の奥から噴き上がる。


クロは、息を詰めて目を覚ました。


頬が濡れていた。


最初、それが涙だと分からなかった。冷たい石の匂いがする。乾いた血の匂いもあった。喉はひどく渇き、腕はまだ痛む。


けれど、痛みより先に、胸の奥に残っていた。


前を向いて飛べ。


その言葉に、壊れそうなほど激しく揺れたもの。


それは、クロのものではなかった。




教会の中は、まだ暗かった。


夜は終わりかけている。けれど朝の光は弱く、崩れた屋根の隙間から、青白く差し込んでいるだけだった。


石床は冷たい。


血の匂いがする。


そして、すぐ近くで、黒い竜の低い息が聞こえていた。


クロはゆっくり顔を上げた。


大穴は見えなかった。


そこに、黒い竜がいた。


大きな身体を低く伏せ、穴を塞いだまま動かない。黒い鱗には乾きかけた血がこびりつき、畳まれた翼は重たげに石床へ落ちている。引きずられた鎖が、床に斜めの跡を残していた。


黒い竜は、目を開けていた。


琥珀色の目が、クロを見ている。


いつから見ていたのかは、分からない。


クロは息を止めた。


怖い。


まだ、怖かった。


昨日、教会の穴から入ってきた黒い竜を見て、死ぬと思った。血の匂いも、重い足音も、自分の前で止まった黒い爪も、はっきり覚えている。


それでも、穴の向こうはもう見えなかった。


外の夜も、魔物の目も、あの大きな影も見えない。


黒い竜が、そこにいた。


大きな身体で穴を塞ぎ、低い息だけを、冷えた石床へ落としている。


クロは膝を抱えたまま、その黒を見上げた。


怖さは、まだ胸の奥に残っている。


けれど、その黒の向こうから、もう何も入ってこなかった。


それを守ると言っていいのか、クロには分からなかった。


けれど、穴は塞がっていた。


「……守ってくれたの?」


声は、思ったより小さく出た。


黒い竜は答えなかった。


ただ、琥珀色の目でクロを見ていた。


その目に何があるのか、クロには分からなかった。怒っているのか、疲れているのか、何も見ていないのか。それとも、ただこちらを見ているだけなのか。


しばらくして、黒い竜はゆっくりと瞼を閉じた。


それが答えなのかは、分からなかった。


でも、拒まれた感じはしなかった。


クロは、少しだけ息を吐いた。




しばらく、何も言えなかった。


外では、朝になりかけた風が草を揺らしている。けれど穴は黒い竜の身体に塞がれていて、教会の中へ入ってくる風は弱かった。


クロは膝の上で指を開いた。


まだ震えている。


腕も痛い。


触れていいのか、分からなかった。


けれど、触れてはいけないと決まっているわけでもない気がした。


昨日、黒い竜はクロの前で止まった。穴を塞いだ。けれど、それだけで何もかもが大丈夫になるわけではない。


黒い竜は怖い。


大きい。


強い。


たぶん、クロなど簡単に壊せる。


それでも、黒い竜は瞼を閉じたまま、低く息を落としている。


クロは、ゆっくり手を伸ばした。


途中で、止めた。


指先が震える。


黒い竜の喉だけが、かすかに上下している。


クロはもう一度、少しだけ手を伸ばした。


指先が、黒い竜の顔の横に触れた。


硬い鱗だった。


乾いた血が、指に少し引っかかる。


その奥に、熱があった。


生きている熱だった。


触れた瞬間、胸の奥に、夢の残りが戻ってきた。


背にある重さ。


手綱の張り。


空へ出る前の呼吸。


お前。


そう呼ばれただけで、翼が軽くなった。


クロの身体に翼はない。


それなのに、胸の奥のどこかで、飛び出す前の風を知っている気がした。地面を蹴る一瞬の重さ。空へ身体がほどける、その前の静けさ。背にあるものを誇りに思う、強くてまっすぐな熱。


それは痛みではなかった。


後悔でもなかった。




――誇らしい。




その言葉が、ゆっくり浮かんだ。


失ったものよりも先に。


許せないものよりも奥に。


たしかに、そこにあったもの。


クロは黒い竜の顔に触れたまま、ぽつりと言った。


「誇らしかったんだね……」


黒い竜の息が、一度だけ止まった。


爪の先が、石床を少し掻く。


低い音が、喉の奥で震えた。


クロは手を離さなかった。


強く押さえることもしなかった。


ただ、触れていた。


黒い竜の鱗は硬い。乾いた血はざらついている。けれど、その下にある熱は、さっきよりも近く感じた。


その時、何かが届いた。


声ではなかった。


けれど、ただ流れてくるものでもなかった。


低く、遠く、奥の方で震えているもの。


言葉になる前のものが、少しだけ形を持っている。


誇らしかった。


失った。


飛べる翼がある。


けれど、戻れない背中がある。


許せない。


自分を、許せない。


それは全部、はっきりした言葉ではなかった。


クロに分かったわけではない。


分かったと言ってしまえば、きっと違う。


ただ、黒い竜の奥で、それらが重なって震えている気がした。


冷たい石床の上に伏せているのに、その奥にはまだ熱があった。消えたのではない。冷え切ったのでもない。血と泥と痛みの下で、それでも消えずに残っている火のようなものだった。


クロは息を吸った。


黒い竜を呼びたいと思った。


でも、呼べなかった。


ずっとそうだった。


竜舎でも。


廃墟の町でも。


この教会でも。


大きくて、黒くて、傷ついていて、怖くて、それでも穴を塞いでいるこの竜を、クロはまだ呼べない。


「名前、知らない」


クロは掠れた声で言った。


黒い竜の瞼は閉じたままだった。


「呼びたいのに、呼べない」


それは頼みごとではなかった。


責める言葉でもなかった。


ただ、クロの中にあった困ったことが、声になっただけだった。


黒い竜の喉の奥が、ほんの少し震えた。


クロの指先に、その震えが伝わる。


低く。


遠く。


深く。


その奥に、短い音があった。


最初は、音だと分からなかった。


黒い。


重い。


けれど、冷たくはない。


誰かがつけた名ではない。


そう感じた。


もっと奥にあるもの。


人が書いたものでも、人が呼び継いだものでもない。


黒い竜が、黒い竜としてそこにいるための音。


ずっと前から、そこにあったような音。


クロの胸の奥に、それが落ちた。


短い音だった。


呼べば、きっと届く。


でも、呼ぶことが怖かった。


それは、ただ名前を呼ぶことではない気がした。


黒い竜の奥へ、もう一歩踏み込むことのような気がした。


クロは唇を開きかけて、止めた。


黒い竜は、静かに息をしている。


閉じた瞼。


血の残る鱗。


石床に落ちた重い翼。


穴を塞いでいる大きな身体。


怖さは、まだある。


それでも、クロは逃げなかった。


この竜は怖い。


血の匂いがする。


昨日、クロはこの竜を見て、死ぬと思った。


それでも、穴は塞がっている。


この竜の身体が、あの夜を塞いでいる。


クロは小さく息を吸った。




「……アテル」




黒い竜の息が、一度だけ止まった。


ゆっくりと、片目が開く。


琥珀色の目が、クロを映した。


クロは、その目から逃げなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ