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二章 第19話「砂漠」

まだ日が昇りきらない薄明かりの中、見習いたちは井戸の周りに集まっていた。


顔を洗い、眠気を覚まし、出立の準備を整える。井戸水は冷たかったが、空気の奥にはもう、乾いた熱の気配があった。


クロとクレアも顔を洗い、野営具を片付けていた。


クロは濡れた頬を袖で拭き、耳を軽く振った。


「耳から水が飛びましたわ」


「ごめん」


「謝るなら、次は飛ばさない努力をなさい」


「努力はする」


クレアがため息をついた時だった。


「おねぇちゃん!」


聞き覚えのある声が、朝の空気を抜けてきた。


クロの耳が立つ。


駐屯所の入口近くに、エマがいた。隣には、昨夜の炊き出しにいた母親が立っている。


「朝からすみません」


母親が頭を下げた。


クレアは少し驚いたあと、すぐに姿勢を整えた。


「エマちゃん。お母様も……おはようございます」


「おはよう!」


エマは元気よく返事をして、両手を前へ突き出した。


「これ! あげる!」


小さな手の中に、布で作られた小袋が二つあった。


「これは……?」


クレアが少し困惑しながら受け取る。


「ポプリです。この子が、どうしてもお二人に渡したいと。昨晩、二人で作りました。中にはルイン特産の香草が入っています」


「いいにおいがするの! これがあると、ぐっすりねられるの!」


エマは誇らしげに腰へ手を当てた。


クロは小袋を鼻先へ近づける。


布越しに、乾いた草と、少し甘い花の匂いがした。強くない。けれど、革や水袋の匂いの中でも、ふわりと分かる。


「ふぁ……いい匂い」


クレアも袋を鼻元へ近づけ、目を少し細めた。


「本当に、落ち着く香りですわ」


「あとね、おまもりなの、これ」


エマの声が、少し小さくなった。


「おねぇちゃんたちが、ぶじにかえれますようにって。だから……」


エマは俯いた。


母親が、そっとその背に手を添える。


エマはもう一度顔を上げた。泣きそうな目で、それでも二人を見ていた。


「だから、おねぇちゃんたち、ぶじにルインにもどってきてね……また、ごはんつくるから……」


クロはクレアを見た。


クレアも、クロを見ていた。


二人はエマの前にしゃがみ、エマをそっと抱きしめた。


「エマ……ありがとう」


喉を詰まらせるように、クロが言う。


「大事にする。また、ルインに寄るからね」


クレアの声も、いつもより柔らかかった。


「必ず、大切に持っていきますわ」


エマは小さく鼻をすすった。


「ほんと?」


「うん」


「ごはん、またつくる!」


「楽しみにしていますわ」


エマは少しだけ笑った。


朝日が、駐屯所の壁の向こうから差し始めていた。


薄い光が、三人の肩を照らす。クロの手の中のポプリから、やさしい匂いがした。


やがて、ルーカスの声が広場に響いた。


クロとクレアはエマから腕を離す。


エマはまだ名残惜しそうにしていたが、母親の手を握り直した。


「がんばってね!」


「うん! 行ってきます!」


クレアは丁寧に頭を下げた。


「行ってまいりますわ」


クロはポプリを胸元の内側へしまった。布と服の間に入れると、香りが少し近くなった。


クレアも、小袋をすぐ取り出せる場所へ入れる。


号令がかかり、見習いたちはルインの町を後にした。


エマは、その姿を手を振りながら見つめていた。


見えなくなるまで。




グロムの上で、クロは白い布の端を指で押さえた。


頭から首まで覆う布は、風が吹くたび頬に貼りつく。耳の根元がむずむずして、こもった熱が息と一緒に鼻先へ戻ってきた。


「ずれる?」


横からクレアが言った。


クレアも同じように白い布で髪と首元を覆っている。金の髪はほとんど見えず、布の下から覗く目だけが、いつもより少し細い。


「ちょっとだけ」


「耳を出しすぎですわ。日を受けます」


「耳、しまうと音が変になる」


「日で焦げるよりましです」


「耳は焦げないと思う」


「試さなくて結構ですわ」


クロは布の下で小さく笑った。


その間にも、景色は少しずつ変わっていた。


はじめはまだ、町の周りに低い草があった。道の脇には乾いた土が続き、ところどころに細い木が立っていた。


けれど、進むほど土の色が薄くなる。


草は短く、まばらになった。風が運ぶ匂いから湿った土の重さが消え、かわりに、粉のような乾きが鼻の奥へ入ってくる。地竜の足音も変わった。踏み固められた土を叩く音ではなく、何かを擦るような、軽く崩れるような音が混じる。


クロは舌で上顎を触った。


さっき水を飲んだばかりなのに、口の中が少し乾いている。


グロムの首が、わずかに下がった。


足が砂を踏んだ瞬間、胸の奥へ届くものが変わる。


――踏める。


短く、強い意味だった。


クロは首元に手を置いた。


「うん。踏めるね」


グロムの足が、次の砂を捉える。


近くにいる二足型地竜の爪も砂を掴んだ。沈むのではなく、押し込み、引っかけ、蹴り返す。尾が低く揺れ、身体の重さを後ろへ逃がす。砂は柔らかいはずなのに、グロムの足の下では、ただ崩れるものではなかった。


前方の四足型地竜たちも、思ったほど足取りを鈍らせていない。


広い足裏が砂を受け、押し返す。姿勢を低くし、砂を腹の下へ逃がすように進む。荷を積んだ背は重い。水袋も、木箱も、薬箱もある。それでも、四足型地竜たちは足場に困っているようには見えなかった。


クロは目を瞬かせる。


遅くなると思っていた。


水は重い。砂は柔らかい。日は強い。だから、隊はもっとゆっくりになると思っていた。


けれど、違う。


隊列の間隔が、少しずつ広がり始めていた。


「……速くなってる?」


クロが呟くと、クレアが後方から答えた。


「なっていますわ」


声は落ち着いていた。


けれど、クレアの指は手綱を強く握りすぎないよう、何度も力を抜いている。速度が上がるたび、乗っている地竜の背の揺れも変わる。怖さを抑えるために手綱を引けば、竜の首を固める。首を固めれば、足の動きまでぎこちなくなる。


クレアは、それを分かっていた。


だから、引かない。


引かないかわりに、見ていた。


やたらと跳ねるようになった荷を。


クロは前を見た。


グロムの胸の奥から、また意味が届く。


――軽い。


「グロムには、軽いんだ」


――掴める。


「うん。でも、水を積んでる子たちもいる。合わせなきゃ」


グロムが不満げに喉を鳴らした。


砂を踏む足が、少しだけ前へ出ようとする。クロは手綱を引かなかった。首元に触れ、膝を地竜の体側へ添える。


「ここ」


グロムの首が、ほんの少しだけ戻る。


前方で、ルーカスの声が飛んだ。


「間隔、広げすぎない。中央荷列、歩調そのまま」


隊列が調整される。


その時だった。


クレアの視線が、後方荷列の一つで止まった。


四足型地竜の背に積まれた水袋が、一際大きく跳ねた。


水袋はまだ落ちない。


けれど、今の跳ね方は大きすぎた。


クレアは唇を結び、次の数歩を見る。


また、跳ねた。


水袋の革腹が揺れ、吊り紐がぎしりと鳴る。四足型地竜の足取りは乱れていない。荷だけが、砂の上の速さに遅れている。


クレアは息を吸った。


「小隊長」


声が砂の上を通った。


ルーカスが振り返る。


「停止を進言します。後方荷列だけではありません。全体的に、水袋の吊り紐の長さが合っていません。このまま進めば落ちます」


ルーカスはクレアを見ず、まず荷列を見た。


水袋が、もう一度大きく跳ねる。


「全隊、停止!」


号令が落ちる。


四足型地竜たちが足を止めた。荷は一拍遅れて揺れ、水袋の中の水が革の腹を内側から押した。砂が足元で崩れ、二足型地竜たちは尾で均衡を取り直す。


グロムが低く喉を鳴らした。


クロはグロムの首筋を撫でて言った。


「今は止まるの」


グロムの鼻息が、乾いた砂を薄く散らした。


即座に荷の確認が始まる。


クレアの指摘した水袋は、まだ落ちてはいない。


けれど、さっきは揺れるたびに大きく跳ねていた。


吊り紐は切れていない。結び目もほどけていない。


ただ、砂の上で隊の速度が上がったせいで、水袋の揺れが大きくなっていた。


このまま進めば、いずれ紐が耐えられなくなる。


ルーカスはその紐を見てから、見習いたちを呼んだ。


「吊り紐を直します。水袋の固定紐を短くしてください。片方だけ見ないこと」


見習いたちが手を動かす。


砂の上に膝をつくと、熱が布越しに上がってきた。紐を解けば、革の跡が指に残る。水袋を押さえる者、結び直す者。隊の足は止まっているのに、手だけが忙しく動いた。


それらを眺めながら、ルーカスは短く言った。


「地竜は、もともと砂漠地帯にも棲む竜です。ここは、彼らにとって不利な場所ではありません。むしろ、庭に近い」


見習いたちの手が、一瞬だけ鈍った。


ルーカスは続ける。


「だから行進の速度は上がる。速度が上がれば、荷の揺れ方も変わる」


風が白布を揺らした。


「土の道で合っていた吊り方が、砂地でも合うとは限りません」


ルーカスの視線がクレアへ向く。


「よく見ました、レーヴェンハルト」


クレアは背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


声は澄ましていた。


けれど、手袋の中で指先が少しだけ丸まる。口元が緩みそうになり、すぐに結ばれる。ほんの一瞬、視線だけがクロの方へ流れた。


クロはまっすぐ見ていた。


「クレア、すごい」


「……見えただけですわ」


「見えて、言えたからすごい」


クレアの耳元の布が、風で少し揺れた。


「あなたは、時々まっすぐすぎますわ」


「曲げた方がいい?」


「今は、そのままで結構です」


クレアはそう言って、すぐに荷へ視線を戻した。




吊り紐の調整には時間がかかる。


土の道で整えてきた荷を、砂地の速度に合わせて直す。水袋の位置をわずかに上げ、木箱の逃げを作り、左右だけでなく前後の揺れも見直す。


その間、二足型地竜たちには周囲の短距離哨戒が命じられた。


ルーカスはクロたちを集める。


「砂丘二つ分まで。見えなくなる前に戻ること」


グロムの首が上がった。


胸の奥へ、強い意味が飛び込んでくる。


――行ける。


「知ってる」


――もっと先。


「砂丘二つまで」


――軽い。踏める。先がある。


クロはグロムの首元に触れた。


「遠くまで行けるのと、戻って知らせられるのは、別だよ」


グロムが足先で砂を押した。


砂は崩れたが、その下を爪が掴む。行ける。そう言いたげな足だった。


クロは手綱を握り直す。


「見つけて終わりじゃない。戻って、ルーカス小隊長に言って、隊が動けるようにする。そこまでが、グロムの足」


グロムは不満を返した。


言葉にはならない。けれど、意味は分かる。


遠くまで行ける足がある。見に行ける。踏める。砂は軽い。なぜそこで止まる。


クロは息を吐く。


「遠くまで行けるのは、すごい。でも、遠くで一頭だけ知ってても、隊は助からない」


グロムの目が細くなる。


「持って帰る足、使おう」


返事はなかった。


ただ、グロムの首が少しだけ下がる。


進むためではなく、砂を見るために。


哨戒に出た二足型地竜たちは、砂の上を静かに進んだ。爪が沈み、掴み、抜ける。そのたび、さらさらと細かい音が流れた。


砂丘の一つ目を越えると、隊の姿は低くなった。白い布で覆われた見習いたち、同行する小隊員、荷を積んだ四足型地竜が、小さな点のように見える。


グロムは前を見た。


クロはその首の動きより先に、膝で伝える。


「まだ」


グロムが鼻を鳴らす。


二つ目の砂丘へ向かう途中で、グロムの足が止まった。


砂を踏み、次の一歩を置く前に、首だけが低くなる。目が地表の一点へ向いた。


クロはその視線を追う。


砂の上に、細く、浅い跡。


風で半分消えている。地竜の足跡ではない。鳥でもない。細いものが、規則的に砂を突いたような、爪跡。


クロは身を乗り出しすぎないようにして見る。


「……何か、いた?」


グロムの胸の奥に、短い警戒が触れた。


――近い。


――ひとつじゃない。


――砂の下。


クロは唇を結んだ。


「戻る」


グロムがすぐには動かない。


まだ見られる。先へ行ける。跡は続いている。そういう熱が来る。


クロは首元を叩かず、押さえた。


「戻って知らせる」


今度はグロムが、砂を強く踏んだ。


不服はある。


けれど、身体は向きを変える。


隊の場所へ戻ると、クロはルーカスに報告した。


「砂丘二つ目の手前に、細くて浅い爪跡がありました。風の跡じゃないと思います。グロムも気にしました」


ルーカスはすぐに隊員を一人連れて確認へ向かわせた。


戻ってきた隊員は、短く言った。


「砂蠍の可能性があります。おそらく、まだ新しい」


見習いたちの間に、薄い緊張が走った。


ルーカスは声を荒げない。


「姿を見ていない以上、数も位置も断定しません。夜営時、荷の下と水袋の周囲を確認。地竜の反応を見落とさないこと」


ルーカスの声は短かった。


それでも、見習いたちの視線は荷の下へ、砂の上へ、地竜たちの耳の動きへと移っていった。


砂漠は、見えている表面だけの場所ではない。




調整を終えた隊は、夕方前に夜営地を取った。


砂地に杭を打つには、土の時と感触が違った。深く入れても、少し横に力がかかると砂が崩れる。野営布の張り方も変わる。荷はいつもより高く置かれ、下に布が敷かれた。水袋は中央へ寄せられる。


火は小さく。


ルーカスはそう指示した。


「明るさを広げすぎない。見張りは荷の周囲を一人増やします。地竜が反応したら、先に声を出すこと」


夜になると、砂は昼間と違う顔をした。


熱が引き、白い布の内側の蒸れも少し軽くなる。けれど、安心は来なかった。風が表面を撫でるたび、砂は低く流れる。音は小さいのに、やけに近く聞こえる。


四足型地竜が低く息を吐いた。


別の二足型地竜が耳を動かす。


何も見えない。


砂の表面は静かだった。


それでも、竜たちは時々、同じ方向を気にした。


グロムは首を低くし、砂へ意識を向けている。クロの胸に、言葉にならない警戒が触れた。走りたい熱ではない。踏めるという高揚でもない。


下。


ただ、それだけに近い。


クレアは荷の近くに立っていた。手には灯りを持っているが、砂へ近づけすぎない。光の端で、水袋の影が揺れていた。


「見えないね」


クロが言うと、クレアは頷いた。


「ええ。見えないものは、厄介ですわ」


「でも、地竜たちは見てる」


「なら、私たちは地竜を見るしかありませんわね」


クレアの声は小さかった。


怖い、と言わなかった。


言わなくても、手袋の指が少しだけ固いのを、クロは見た。


クロは自分の喉にも触れる。


乾いていない。


足も、重すぎない。


今は大丈夫。


クレアが横目で見る。


「申告は?」


「大丈夫。今のは、本当に大丈夫」


「なら結構ですわ」


その夜、襲撃は起きなかった。


見張りの声も、竜の警戒も、何度か低く動いただけで終わった。砂の表面は風にならされ、火は小さいまま揺れ続けた。


クロとクレアは、エマのポプリを胸に抱きながら眠りに就いた。




朝。


空が白くなり始めた頃、クレアは荷の確認に回っていた。


水袋。吊り紐。木箱。薬箱。布の下。荷の影。


その足が止まる。


荷の近くに、砂の盛り上がりがあった。


風でできたにしては、形が丸い。昨日、荷を置いた時にはなかった場所だった。


「小隊長」


クレアの声に、ルーカスが来る。


クロも近づいた。グロムがその後ろで首を低くする。


ルーカスは短い棒で砂を払った。


中から、薄い殻が出てきた。


軽い。


中身はない。


けれど、それはクロが思っていたより、ずっと大きかった。


折り畳まれた脚だけで、クロの腕ほどある。大きな鋏。節の残った尾。透明に近い外殻が、朝の光を受けて鈍く光った。


誰もすぐには声を出さなかった。


ルーカスが静かに言う。


「抜け殻です」


クロは砂を見る。


そこにはもう、本体はいない。


いた。


近くにいた。


けれど、どこへ行ったのかは分からない。


風が吹いた。


さっきまであった小さな盛り上がりの縁が、少しずつ崩れていく。砂は何もなかったように表面をならし、薄い跡さえ隠していく。


クロは、グロムの首元に触れた。


胸の奥には、まだ低い警戒が残っている。


砂の下に、何かがいた。

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