序章 第5話 「冬の牙」
冬が来る前に、開墾地は忙しくなった。
朝の空気は白く、吐く息はすぐに薄い霧になった。
畑の土は冷たく締まり、草の先には細かな霜が降りるようになっていた。
夏の間はあれほど騒がしかった虫の声も、いつの間にか聞こえなくなっている。
昼になっても風は冷たく、夕方になると、小屋の影はあっという間に長く伸びた。
開墾地の者たちは、誰に言われるでもなく冬支度を始めていた。
収穫した芋は土を落として分けられ、傷の少ないものから貯蔵穴へ入れられた。
豆は干され、薪は積まれ、小屋の隙間には藁や土が詰められた。
水路の脇には石が積み直され、風の強い場所には粗末な柵が足された。
十分とは言えない。
けれど、足りないとも言い切れなかった。
最初の冬を越すだけの蓄えは、どうにか作れた。
それだけで、開墾地の者たちは胸を撫で下ろした。
「これで春までは持つ」
誰かがそう言うと、周りの大人たちは黙って頷いた。
春。
その言葉には、少しだけ不思議な響きがあった。
この土地で春を迎える。
その頃には、ここはもう仮の寝床ではなく、本当の暮らしの場所になっているのかもしれない。
クロは、そんな大人たちの声を聞きながら、薪を小屋の壁際へ運んでいた。
両腕に抱えた薪は重い。
けれど半年前よりは、少しだけ上手に運べるようになっていた。
「クロ、そこまででいいわ」
母が言う。
「まだ持てる」
「持てるのと、持たなくていいのは違うの」
クロは不満そうに口を尖らせた。
「むずかしい」
母は笑った。
「そうね。むずかしいわね」
クロは薪を置き、赤くなった手に息を吹きかけた。
指先が少し痛い。
土の冷たさも、風の冷たさも、夏とはまったく違っていた。
ふと、クロは畑の端を見た。
石がいくつか積まれている場所。
夏の間、よく蜥蜴が出てきた場所だった。
「……いない」
クロは小さく呟いた。
いつもなら、日が差す頃には誰かしら出てきていた。
尾の先が欠けたかけしっぽ。
背中の模様が濃い子。
人の足音を聞くとすぐ逃げる子。
けれど、ここしばらくは誰も見ていない。
石の上も、草の根元も、畑の隅の日向も空っぽだった。
クロはしゃがみ込み、石の隙間を覗いた。
「クロ?」
母が声をかける。
「かけしっぽ、いない」
「寒いから、どこかに隠れているのかもしれないわね」
「どこ?」
「土の中とか、石の奥とか。冬の間はじっとしているのかも」
「冬眠?」
クロは、少し前に村の大人たちが話していた言葉を思い出した。
寒くなると、蛇や蛙や蜥蜴のような小さな生き物は、土の中や石の隙間に隠れて、眠るように春を待つのだという。
母は少し驚いたように目を細めた。
「そうね。冬眠しているのかもしれないわ」
クロはもう一度、石の隙間を見た。
そこにかけしっぽがいるところを想像する。
小さな体を丸めて、冷たい風の届かないところで、じっと春を待っている。
そう思うと、なんだか少し嬉しくなった。
「私たちも、冬眠?」
「え?」
「小屋に入ってる。壁のすきま埋めて、薪ためて、食べものしまって」
母はきょとんとした後、吹き出すように笑った。
「そうね。少し似ているかもしれないわね」
クロは小屋を見た。
藁を詰めた壁。
積まれた薪。
貯蔵穴にしまわれた芋。
火の匂い。
夕方になると、みんなが早めに戸を閉めること。
かけしっぽも、自分たちも、冬を越すために隠れる場所を作っている。
そう思うと、クロはひとりでに笑った。
「ふふっ」
小さな笑い声だった。
寒い風の中で、白い息と一緒にこぼれたその声は、本人にも少し意外だった。
「なに、嬉しそうね」
母が言う。
「うん」
「どうして?」
「かけしっぽと同じだから」
母はしばらくクロを見て、それから優しく頭を撫でた。
「そう」
クロは少しだけ目を細めた。
冬は寒い。
土は硬い。
蜥蜴たちは姿を消した。
けれど、春になればまた出てくるかもしれない。
なら、待てばいい。
クロはそう思った。
その日も、昼過ぎに王都の方角から鐘の音が聞こえた。
クロは反射的に空を見た。
冬の空は高く澄んでいる。
夏よりもずっと遠くまで見える気がした。
やがて、青い空の下に竜影が上がる。
竜騎士団だった。
そして、その先頭には白い竜がいた。
白い鱗は冬の光の中で、夏よりもさらに冷たく、鋭く見えた。
隊列の一番前で翼を広げ、後ろに続く竜たちを率いている。
「今日も先頭」
クロは呟いた。
白い竜は、変わらずそこにいた。
季節が変わっても、空気が冷たくなっても、あの白は王都から飛び立ち、誰よりも前を飛んでいく。
クロは寒さで赤くなった手を握りしめた。
あの竜は、冬でも飛ぶ。
寒くないのだろうか。
翼は冷たくならないのだろうか。
あんな高いところで、風は痛くないのだろうか。
考えても、答えは分からない。
だから、見た。
白い竜が高度を上げる。
後ろの竜たちがそれに合わせる。
隊列が少しだけ横へ広がり、またひとつにまとまる。
クロはその動きを目で追った。
分からないことは、まだたくさんある。
でも、見ていれば少しだけ分かる気がした。
白い竜はやがて遠ざかり、冬の空へ溶けていった。
クロは見えなくなるまで、それを見送った。
その夜、森の方から遠吠えが聞こえた。
最初は、ただの獣の声だと思った。
小屋の中では火が小さく燃えている。
鍋の中では芋と豆が煮えていて、湯気が屋根裏へ上っていた。
外では風が鳴り、戸板がかたかたと揺れている。
遠吠えは、その風の向こうから届いた。
長く、細く、腹の底を撫でるような声だった。
クロは顔を上げた。
「狼?」
母が手を止める。
父も戸の方を見た。
少しして、もう一度声がした。
今度は別の方角からだった。
父の表情が硬くなる。
「近いな」
「普通の狼?」
母が小さく訊く。
父はすぐには答えなかった。
外で、見張りの兵が何かを叫ぶ声がした。
別の兵が返事をする。
火の番をする足音が増えた。
父は立ち上がり、戸の隙間から外を覗いた。
「小屋から出るな」
いつもより低い声だった。
クロは黙って頷いた。
その夜は、なかなか眠れなかった。
遠吠えは何度か聞こえた。
近くなったようにも、遠くなったようにも聞こえた。
クロは藁の寝床の中で、母の気配と父の息遣いを感じながら、目を開けていた。
かけしっぽたちは、土の中にいる。
自分たちは、小屋の中にいる。
外には、何かがいる。
そう思うと、小屋の壁が急に薄く感じられた。
次の日から、開墾地の空気は少し変わった。
王国軍の兵たちは、昼の巡回を増やした。
見張り台には弓を持った兵が立ち、夜の火はいつもより大きく焚かれた。
大人たちは森へ近づかなくなった。
薪拾いは兵が同行する時だけになり、子供たちは日が傾く前に小屋へ戻される。
「今日は外へ行きすぎちゃだめよ」
母が言う。
「かけしっぽの石だけ」
「だめ」
「見るだけ」
「冬眠してるんでしょう?」
クロは少し黙った。
「……うん」
「なら、春まで待ってあげなさい」
それは少しずるい言い方だった。
クロは納得しきれない顔をしたが、言い返せなかった。
その夜も、遠吠えが聞こえた。
その次の夜も。
最初は一つだった声が、少しずつ増えているようだった。
森の奥から、丘の向こうから、水路の先から、いくつもの声が重なって響く。
開墾地の大人たちは、口数が少なくなった。
「魔狼かもしれん」
誰かがそう言った。
クロは聞き慣れない言葉に顔を上げた。
狼ではない。
ただの獣でもない。
冬の森で飢えた魔物の群れ。
そう聞かされても、クロにはまだはっきり想像できなかった。
ただ、王国軍の兵たちが笑わなくなったことで、それが悪いものなのだと分かった。
兵士たちは、柵を補強した。
尖らせた杭を打ち込み、火を焚く場所を増やし、畑の端に積んであった石を移した。
開墾民たちも手伝った。
男も女も、老人も、できる者は皆、手を動かした。
守らなければならないものがあった。
貯蔵穴の芋。
干した豆。
薪。
道具。
小屋。
子供たち。
半年かけて、ようやく作ったもの。
それを奪われれば、冬は越せない。
「また、なくなるの?」
クロは小さく訊いた。
母は答えられなかった。
父が、杭を運ぶ手を止めずに言った。
「なくさないために、今こうしている」
その声は静かだった。
けれど、硬かった。
クロは父の横顔を見た。
あの日、教会で震えていた手。
今、杭を握る手。
同じ手だった。
けれど、今は動いている。
クロは小さな杭を一本抱えた。
「これ、どこ?」
父は一瞬だけクロを見た。
「そこに置いてくれ」
「うん」
クロは頷き、言われた場所へ杭を運んだ。
怖くないわけではない。
でも、何もしないで待っている方が、もっと怖かった。
それから数日、遠吠えは途切れ途切れに続いた。
ある夜は近く。
ある夜は遠く。
一度、見張りの兵が森の縁に光る目を見たと言った。
小さな魔物が罠にかかった日もあった。
痩せて、毛並みが荒れ、口元に泡のような涎をつけていたという。
「飢えてるな」
兵の一人が言った。
「冬を越す餌が足りなかったんだろう」
「だからここを嗅ぎつけたか」
「蓄えがあるからな」
その言葉は、開墾地の者たちに重く落ちた。
蓄え。
それは、彼らが冬を越すために積み上げたものだった。
だが、飢えた魔物にとっては、ただの餌場に見えているのかもしれない。
冬の寒さは、人にも魔物にも同じように迫る。
けれど、人は自分たちの蓄えを差し出すわけにはいかなかった。
ある晩、風が止んだ。
不思議なほど静かな夜だった。
火の弾ける音だけが聞こえる。
小屋の中で、誰も大きな声を出さない。
クロは母の隣に座っていた。
膝の上には、繕い途中の布がある。
母が針を動かす音が、いつもより大きく聞こえた。
父は外にいた。
王国軍の兵と一緒に、柵の補強を見に行っている。
「お父さん、遅い」
クロが言う。
「すぐ戻るわ」
母はそう言ったが、声が少し硬かった。
その時、森の方で遠吠えが上がった。
近い。
クロは立ち上がりかけた。
母が腕を掴む。
「外へ出ちゃだめ」
「でも」
続けて、別の遠吠え。
右から。
左から。
背後の丘からも。
一つではない。
小屋の外で兵士が叫んだ。
「火を絶やすな!」
別の声が続く。
「西側に影! 三、いや、もっといる!」
クロの胸が冷たくなった。
外で足音が走る。
木の板が乱暴に閉められる。
誰かが子供を呼ぶ。
誰かが神の名を口にする。
「小屋に入れ! 全員、中へ!」
兵士の声だった。
遠吠えがまた響く。
今度は、返事のようにいくつもの声が重なった。
母がクロを抱き寄せる。
「お母さん」
「大丈夫」
「お父さんは?」
母は答えなかった。
答えるより早く、外で金属が鳴った。
剣を抜く音。
それから、低い唸り声。
狼の声だった。
ただし、クロが想像していた狼よりも低い。
喉の奥で石を擦るような音だった。
小屋の壁の向こうで、何かが柵にぶつかった。
鈍い音がする。
一度。
二度。
三度。
「来るぞ!」
兵士が叫ぶ。
誰かが悲鳴を上げた。
クロは母の腕の中で、目を見開いていた。
あの日の教会を思い出す。
砕けた壁。
粉塵。
オーガの影。
父の震える手。
違う。
ここは教会ではない。
ここは新しい土地だ。
半年かけて作った場所だ。
けれど、また奪われるのかもしれない。
小屋の外で、柵が大きく軋んだ。
兵士たちの怒号が響く。
「火を投げろ!」
「押し返せ!」
「西だけじゃない、北にもいる!」
遠吠えが、近い。
クロは空を見たかった。
けれど小屋の中からは、空が見えない。
白い竜は、今どこにいるのだろう。
冬の空のどこかを飛んでいるのだろうか。
誰かを助けに向かっているのだろうか。
それとも、ここには来ないのだろうか。
外で、何かが折れる音がした。
柵だった。
次の瞬間、開墾地の夜に悲鳴が上がった。
「破られた!」
母の腕が、クロを強く抱きしめる。
小屋の外で、複数の足音が土を蹴った。
獣の唸り。
人の叫び。
金属のぶつかる音。
クロは息を呑んだ。
誰かが、祈るように叫んだ。
「竜騎士様……!」
それは誰かが発した、あの日の奇跡に縋る悲痛な叫びだった。
しかしその叫びも、森の闇から響く遠吠えが呑み込んだ。




