序章 第4話 「道の向こうから」
土は、少しずつ人の手を覚え始めていた。
王都近郊の未開墾地に移されてから、半年ほどが過ぎていた。
最初は森と石と根ばかりだった土地にも、今では細い水路が通り、踏み固められた道ができ、粗末ながらも雨風をしのげる小屋がいくつも並んでいる。
畑と呼ぶにはまだ頼りない。
村と呼ぶにも、まだ少し寂しい。
それでも、そこには人の暮らしがあった。
朝になれば煙が上がる。
昼になれば鍬の音が響く。
夕方になれば、疲れた大人たちの声と、子供たちの足音が小屋の間を行き交う。
畑の外れには、王国軍の兵が建てた小さな見張り台があった。
昼は周辺を巡り、夜は火を焚いて番をする。
森から迷い出る小型の魔物を追い払い、荷車が通る道を確かめ、開墾地の者たちが夜を越えられるように目を配っていた。
彼らは竜騎士団のように空を駆ける者たちではない。
大きな竜に乗るわけでも、白い翼を従えるわけでもない。
けれど、彼らがいたから、村人たちは夜に眠ることができた。
竜騎士団が空から救いに来る者たちなら、王国軍の兵たちは地面に残って暮らしを守る者たちだった。
クロは、そのことをまだ言葉では分かっていなかった。
けれど、夜の見張り火のそばに立つ兵士を見ると、少し安心した。
母が水を汲みに行く時、道の端に兵がいると、怖くなかった。
父が遠くの木を切りに行く日も、巡回の兵が同行すると聞けば、無事に帰ってくる気がした。
白い竜ほど眩しくはない。
でも、そこにいるだけで、人を眠らせてくれる人たちがいる。
それも、クロは少しずつ知っていった。
失ったものが戻ったわけではない。
けれど、生き残った者たちは、少しずつ新しい土地に根を下ろし始めていた。
「クロ、その芋、こっちの籠だ」
父に言われて、クロは土の中から掘り出した小さな芋を両手で持ち上げた。
ころんとした形の、まだ頼りない芋だった。
大きさもまちまちで、皮には土がこびりついている。
けれど、それは確かにこの土地から採れたものだった。
「これ、食べられる?」
クロが訊くと、父は額の汗を拭いながら笑った。
「食べられる。たぶんな」
「たぶん?」
「初めてだからな。うまいかどうかは、食べてみないと分からん」
クロは芋をじっと見た。
半年前、ここには何もなかった。
石と根と、草ばかりだった。
そこから、食べられるものが出てきた。
それが少し不思議だった。
「土って、すごいね」
クロが言うと、父は少し目を丸くした。
それから、ゆっくり頷く。
「そうだな。すごいな」
その声は、ただ子供の言葉に合わせたものではなかった。
父もまた、本当にそう思っているようだった。
畑の端では、大人たちが芋や豆を分けている。
収穫と呼ぶには、まだささやかな量だった。
王都の市場に並ぶような立派なものではない。
それでも、開墾地の者たちは皆、どこか誇らしそうだった。
土を起こした。
石を拾った。
根を抜いた。
水を引いた。
獣を追い払い、雨の後には崩れた畝を直した。
そうして初めて、土が返してくれたものだった。
「今年はこれだけでも十分だ」
近くの男が、籠の中を覗き込みながら言った。
「来年はもっと増やせる」
「水路がもう少し安定すればな」
「石はまだ多いが、壁にも道にも使える」
そんな声が畑のあちこちから聞こえてくる。
前の村のことを誰も忘れてはいない。
戻れるものなら戻りたかった者もいただろう。
けれど、今ここで採れた小さな芋を前にして、誰もそれを嘆くだけではいなかった。
食べるものがある。
働いた分だけ、少しでも返ってくる土地がある。
それだけで、人は前を向けることがある。
「クロ、手が止まってる」
母の声に、クロは顔を上げた。
「止まってない」
「止まってたわ」
「考えてただけ」
「考えている間に芋は籠へ入らないの」
クロは口を尖らせて、手元の芋を籠に入れた。
土がぱらぱらと落ちる。
その近くで、草むらがかすかに揺れた。
クロはすぐにそちらを見た。
「……かけしっぽ」
小さな声で呟く。
草の陰に、尾の先が少し欠けた蜥蜴がいた。
半年の間に、クロは何匹かの蜥蜴を見分けるようになっていた。
尾の先が欠けているもの。
背中の模様が濃いもの。
人の足音にすぐ逃げるもの。
日向に長くいるもの。
名前をつけたわけではない。
いや、つけたのかもしれない。
少なくともクロの中では、それぞれ別の子だった。
「また見てるの?」
母が少し呆れたように言う。
「うん」
「芋は?」
「見るだけ」
「この前もそう言って、しばらく戻ってこなかったでしょう」
クロは返事をしなかった。
蜥蜴は石のそばで体を低くしている。
すぐに逃げる姿勢ではない。
けれど安心しているわけでもない。
目が動く。
右。
それから少し上。
クロは視線を追った。
そこに、小さな虫がいた。
「虫、見てる」
「え?」
「逃げたいんじゃなくて、食べたいんだと思う」
母はクロの隣にしゃがみ、草の隙間を覗き込んだ。
「……分かるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「目が、逃げる時と違う」
クロはそう言って、かけしっぽを見続けた。
蜥蜴はしばらく動かなかった。
次の瞬間、ぱっと体を伸ばし、小さな虫をくわえた。
そしてすぐに石の陰へ滑り込む。
クロは目を丸くした。
「食べた」
母も少し驚いたように笑った。
「本当ね」
クロは嬉しそうにするでもなく、勝ち誇るでもなく、ただ真剣に頷いた。
「逃げる時は、もっと先に体が低くなる」
「そうなの?」
「うん。食べる時は、目が止まる」
それが正しいのか、母には分からない。
けれど、クロがじっと見続けてきたものを、母は知っていた。
石の下の蜥蜴。
日向の蜥蜴。
畑の端を走る細い尾。
子供の気まぐれだと思っていたそれは、どうやらクロの中で少しずつ形を持ち始めているらしい。
「クロは、よく見てるのね」
母が言うと、クロは首をかしげた。
「見ないと分からないよ」
当たり前のように言った。
母はそれ以上、何も言わなかった。
その時、畑の向こうから鐘の音が聞こえた。
王都の方角だった。
クロは反射的に空を見る。
青く晴れた空の下に、いくつもの影が上がっていた。
鳥ではない。
雲でもない。
竜だった。
王都から、竜騎士団が飛び立っていく。
「白い竜?」
母が先に言った。
クロは答えなかった。
目はもう、空に釘付けになっている。
隊列の先頭に、白があった。
あの日、砕けた教会の向こうに立っていた白。
今も、誰より前を飛ぶ白。
「今日も先頭」
クロが小さく言った。
白い竜は、竜騎士団を率いて空を進んでいた。
後ろの竜たちは一定の間隔を保ち、その翼の動きに合わせるように続いていく。
半年前は、その白を見つけるだけで胸がいっぱいになった。
今も胸は熱くなる。
けれど、クロの目は少しずつ別のものも追うようになっていた。
白い竜は、一度大きく翼を打って高度を変えた。
すると後ろの竜たちも、それに合わせて隊列を少し広げる。
なぜ、あの形で飛ぶのだろう。
どうして先頭なのだろう。
どうして後ろの竜たちは、白い竜と同じ場所ではなく、少しずつずれて飛ぶのだろう。
クロにはまだ分からない。
けれど、分からないから、見ていた。
「また誰かを助けに行くのかな」
クロが呟く。
母は空を見上げたまま、静かに言った。
「そうかもしれないわね」
白い竜は遠ざかっていく。
やがて、小さな点になり、空の薄い光に溶けていった。
クロはしばらくその方向を見ていた。
足元では、かけしっぽが石の陰から顔を出している。
空の向こうには、もう白い竜の姿はない。
それでもクロの中には、白い翼の軌跡が残っていた。
午後になって、開墾地の道が少し騒がしくなった。
最初に聞こえたのは、鈴の音だった。
次に、車輪が土を噛む音。
馬の鼻息。
人の声。
革鎧の擦れる音。
クロは顔を上げた。
荷車の音は、これまでにも何度か聞いたことがある。
開墾が始まってからしばらくの間、外から来る荷車は王国軍のものだけだった。
食糧、鍬、斧、釘、布、薬。
それらは配られるものであって、選ぶものではない。
けれど、今日の音は少し違った。
車輪の音に混じって、鈴の音がする。
兵士の号令ではなく、知らない男たちの声がする。
荷馬車の周りには、槍や短剣を持った護衛が歩いている。
見張りに立っていた王国軍の兵が、道の方へ歩いていく。
「止まれ。所属と用件を」
低い声がした。
開墾地の者たちが手を止めて、道の先を見る。
そこにいたのは、数台の荷馬車と、それを囲む護衛たちだった。
馬車には布で覆われた荷が積まれている。
荷台の側面には、王都で商いをする店の印が小さく焼きつけられていた。
護衛たちは槍や短剣を持ち、革の胸当てを着けている。
王国軍の兵ではない。
けれど、道を渡る危険に慣れている者たちの顔だった。
「王都の南通りで店をやってる者です。王国から、こちらへ荷を運ぶよう頼まれましてね」
商人らしい男が、愛想よく笑いながら札を差し出した。
兵は笑わなかった。
札を受け取り、荷馬車と護衛の数を順に確かめる。
「護衛は六人か」
「ええ。道中で二人雇い足しました。森沿いに小型の魔物の足跡がありましたので」
「荷を検める」
「もちろんです。ご苦労さまです」
そのやり取りを、クロはじっと見ていた。
商隊。
大人たちが何度か話していた言葉だった。
いつか来る。
道が通れば来る。
開墾地が落ち着けば来る。
そう言っていたものが、本当に道の向こうから来た。
これまで開墾地に届く物資は、王国軍の荷車が運んでくるものだった。
必要なものを、必要なだけ。
足りない時もあったが、それでも暮らすためのものだった。
けれど、商隊は違った。
布がある。
塩がある。
針がある。
鍋がある。
紐や油や薬草がある。
干した果物の甘い匂いもした。
選べるものが、そこにはあった。
子供たちは目を輝かせ、大人たちは交換できるものを確認しに走る。
初めての収穫物。
薪。
乾かした薬草。
狩りで得た皮。
壊れた道具を直してもらうための金具。
開墾地が、にわかに賑やかになった。
クロは母の後ろから、商隊の荷を覗き込む。
見たことのない色の布。
小さな瓶。
古びた鍋。
細い針。
金属の留め具。
どれも気になった。
けれど、クロの目は別のものに止まった。
荷台の隅に、数冊の古い本が縛られていた。
本というより、紙束に革の表紙をつけただけのようなものもある。
角は擦り切れ、紐は色あせていた。
その中の一冊の表紙に、翼のある生き物の絵が描かれていた。
竜。
クロは息を止めた。
近づこうとした時、商人の男が気づいて笑った。
「お嬢ちゃん、本が気になるのかい?」
クロは少しだけ身を固くした。
「……それ、竜?」
「ああ。たぶんな。古い写本だよ。竜種の分布だとか、騎士団の古い記録だとか、そういうものが混じってる」
「りゅうしゅ」
クロは聞き慣れない言葉を繰り返した。
商人は何気なく頷く。
「竜にも色々いるってことさ。大きいのも、小さいのも。翼のあるのも、ないのも」
クロは本から目を離せなかった。
大きいのも、小さいのも。
翼のあるのも、ないのも。
白い竜。
土の上の蜥蜴。
その二つが、クロの頭の中で遠く繋がりかけた。
「買うかい?」
商人が言う。
母が少し慌てたようにクロの肩へ手を置いた。
「すみません。この子、見るだけで」
商人は気を悪くした様子もなく笑った。
「構わないよ。けれど、本は高い。紙は安くないからね」
高い。
クロはその言葉を、静かに受け取った。
今のクロには、お金がない。
商隊の本を買うようなものなど、何も持っていない。
だから、見るだけだった。
けれど、見た。
竜の絵が描かれた古い表紙。
擦り切れた革。
紐で縛られた紙の束。
この中に、白い竜に近づくための何かがあるのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がまた熱くなった。
「その本、また持ってくる?」
クロが訊く。
商人は少し意外そうな顔をした。
「売れなければね」
「売れたら?」
「別の本を持ってくるさ。王都には本も紙も、いくらでもある。高いがね」
王都。
その言葉が、クロの中でゆっくり響いた。
白い竜が飛び立つ場所。
竜騎士団がいる場所。
そして、本がある場所。
クロは初めて、王都をただ遠くにある城壁としてではなく、何かが集まる場所として考えた。
その日、商隊は夕方まで開墾地にいた。
塩が売れた。
針が売れた。
鍋が一つ、共同で買われた。
干し果物をひとかけもらった子供が、嬉しそうに走っていた。
王国軍の兵は最後まで道の端に立ち、荷の出入りを見ていた。
商隊の護衛たちは馬に水を飲ませ、次の道の話をしていた。
空には、もう竜騎士団の影はなかった。
土の上には、夕方の冷えが降り始めている。
商隊が去る時、クロは道の端に立って見送った。
車輪が回る。
鈴が鳴る。
荷馬車がゆっくりと遠ざかる。
道の向こうへ、商隊は帰っていく。
クロはその背を見ていた。
「また来るかしらね」
母が隣で言った。
「来るよ」
クロは言った。
「どうして分かるの?」
「道があるから」
母は少しだけ笑った。
「そうね。道があるものね」
クロは道の先を見た。
空の向こうには、白い竜がいる。
土の上には、小さな蜥蜴がいる。
そして道の向こうからは、知らない人と、知らない物と、知らない話がやって来る。
クロの世界は、少しずつ広がっていた。
けれど、その広がりの中心にはいつも、あの白い竜がいた。
手の届かない空の先頭を飛ぶ白。
いつか、もう少し近くで見たい。
クロはそう思いながら、夕暮れの道をいつまでも見ていた。




