序章 第3話 「土の上から」
家を失った。
村を失った。
それでも、土は残った。
クロたち生き残った村人が王都近郊の未開墾地へ移されたのは、あの襲撃からいくらも経たない頃だった。
与えられたのは、家ではない。
森と石と根に覆われた、まだ畑とも呼べない土地だった。
けれど、大人たちは誰もそれを恨まなかった。
鍬を持てる者は鍬を持ち、斧を振るえる者は木を倒し、子供たちは拾えるだけの石を拾った。
生き残った者に必要だったのは、過去を嘆く場所ではなく、明日を作る場所だった。
国は彼らを見捨てなかった。
食糧と道具を与え、ひとまず雨風をしのげる小屋を建てさせ、新しい土地を割り当てた。
もちろん、それはただの施しではない。
拓いた土地からいずれ収穫が上がれば、そこから税を納めることになる。
だが、それを不満に思う者はいなかった。
働けば食べられる。
耕せば暮らせる。
子供たちに、次の朝を与えられる。
それだけで、十分だった。
「クロ、その石はこっちだ」
父の声に、クロは顔を上げた。
両腕で抱えていた小石を、言われた場所へ運ぶ。
六歳のクロには、大人たちのように鍬を振ることはできない。
根の深い木を引き抜くことも、倒した幹を運ぶこともできない。
それでも、できることはあった。
掘り返された土から石を拾う。
水を運ぶ。
小さな根を抜く。
大人たちが休む時、使った道具を並べておく。
小さな手はすぐに泥で黒くなった。
爪の間にも土が入り、膝には何度も擦り傷ができた。
それでもクロは、文句を言わなかった。
「重くない?」
母が腰をかがめて、クロの籠を覗き込む。
「重い」
クロは素直に答えた。
母が笑いかけるより先に、クロは籠を抱え直した。
「でも、持てる」
その言い方があまりに真剣だったので、母は何も言わなかった。
ただ、汚れた頬についた土を指で拭ってやる。
「無理はしないのよ」
「してない」
「してる顔」
「してない顔」
クロがむっとして言い返すと、近くで聞いていた父が小さく笑った。
その笑いは、前の村で聞いていたものより少しだけ硬かった。
けれど、笑い声ではあった。
クロはそれを聞いて、少しだけ安心した。
この土地には、まだ何もなかった。
村の井戸もない。
教会の鐘もない。
見慣れた道も、隣家の垣根も、夕方になると煙を上げるかまどもない。
あるのは、切り株と石と、風に揺れる背の低い草ばかりだった。
それでも、大人たちは毎朝起きて働いた。
誰かが火を起こし、誰かが水を汲み、誰かが道具を手入れする。
まだ村とは呼べない場所に、人の声が増えていく。
「この辺りは水はけが悪いな」
「先に溝を掘った方がいい」
「石が多い分、壁には困らんな」
「壁より畑が先だろう」
そんなやり取りが、風の中に混じっていた。
声には疲れがあった。
それでも、どこかに熱があった。
生き残った者たちは、失ったものを忘れたわけではない。
ただ、失ったものだけを見ていれば、今日の飯も明日の寝床も作れないことを知っていた。
クロは大人たちの間をちょこちょこと歩き回りながら、石を拾い続けた。
その時だった。
持ち上げた平たい石の下で、小さなものが動いた。
クロは手を止める。
薄茶色の蜥蜴だった。
土と同じ色をした体。
細い足。
小さな爪。
目だけが、きょろりとクロの方を見ている。
「……いた」
クロが呟く。
蜥蜴は逃げなかった。
ただ体を低くして、じっとしている。
クロも動かなかった。
少しでも手を伸ばせば逃げる。
でも、今すぐ走るつもりではない。
そんな気がした。
「クロ? どうした」
父の声がした。
「蜥蜴」
「逃がしてやれ。そいつも家を掘り返されて驚いてるんだろう」
家。
クロはその言葉を聞いて、もう一度蜥蜴を見た。
石の下。
乾いた土。
細い草の根。
ここが、この小さな生き物の隠れ場所だったのかもしれない。
「この子も、家なくなったの?」
父は少しだけ言葉に詰まった。
「……そうかもしれないな」
クロはしばらく蜥蜴を見ていた。
蜥蜴の尾が、ほんの少し震える。
目が右に動く。
逃げるなら、そちらだ。
クロは手に持っていた石を、元の場所から少し離れたところへ置いた。
そこには日が当たっていて、近くに草もある。
「こっち」
蜥蜴が分かるはずもない。
それでもクロは、小さな声で言った。
「そっちの方が、逃げやすいよ」
蜥蜴はしばらく動かなかった。
やがて、弾けるように走り出し、草の陰へ消えた。
クロはその方向をじっと見ていた。
「行った」
父が言う。
「うん」
「怖がってたな」
「うん。でも、どこに逃げるか決めてから走った」
父はクロを見た。
「そんなことまで分かるのか?」
クロは少し考えた。
分かる、というほどではなかった。
でも、そんな気がした。
「目が先に動いた」
「目?」
「うん。体より先に、目が行く方を見た」
父は首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
クロはもう一度、蜥蜴の消えた草むらを見た。
小さな体。
細い足。
すばやい尾。
あれは竜ではない。
けれど、少しだけ似ている気がした。
どこが、と聞かれても答えられない。
白い竜とは大きさも色も形も違う。
あの白い竜は空を飛び、この蜥蜴は土の上を走る。
それでも、目の動きや、身を低くする仕草や、逃げる前に一瞬だけ息を詰める感じが、どこか記憶の中の白い竜の静けさと繋がった。
クロは自分でもよく分からないまま、小さな蜥蜴の消えた場所を見続けた。
「クロ、石」
母に呼ばれて、クロは我に返る。
「うん」
また石を拾い始めた。
昼が近づく頃、王都の方角から鐘の音が聞こえた。
この開墾地から王都そのものは遠い。
城壁も塔も、天気の良い日にうっすらと見える程度だった。
それでも、空だけは遮られていない。
最初に気づいたのは、クロだった。
風が変わった気がした。
空を見上げる。
雲の下に、小さな影がいくつも浮かんでいた。
鳥ではない。
もっと大きい。
もっと速い。
そして、翼の動きが違う。
「竜だ」
誰かが言った。
作業の手が、あちこちで止まった。
大人たちが顔を上げる。
子供たちが声を上げる。
斧を持った男が、額の汗を腕で拭いながら空を見た。
王都の方角から、竜騎士団が飛び立っていた。
数頭の竜が隊列を組み、朝の光を受けながら空を渡っていく。
その姿は遠く、地上から見れば小さな影に過ぎない。
けれど、空を進むその速さだけで、ただの鳥ではないと分かる。
そして、その先頭に白があった。
クロは息を止めた。
白い竜。
あの日、砕けた教会の壁の向こうに立っていた竜。
その白が、隊列の一番前を飛んでいる。
「いた」
クロの手から、小石が落ちた。
「クロ?」
母が呼ぶ。
クロは答えなかった。
泥のついた手を握ったまま、空を見上げている。
白い竜は遠い。
声など届くはずもない。
こちらを見ているはずもない。
それでも、見間違えようがなかった。
あの白だ。
あの日、朝日の中に立っていた白。
オーガを吹き飛ばした白。
怖くなかった白。
「お母さん」
「うん」
「あの竜」
母も空を見た。
「あの日の?」
クロは小さく頷いた。
「うん」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
白い竜は先頭で竜騎士団を率いていた。
後ろに続く竜たちは、その翼の動きに合わせるように空を進んでいる。
どこへ行くのだろう。
また誰かを助けに行くのだろうか。
また、誰かがもう駄目だと思っている場所へ飛んでいくのだろうか。
クロには分からない。
ただ、白い竜は空の向こうへ向かっていた。
「すごいな」
父が言った。
その声には、恐れも、感謝も、少しの遠さも混じっていた。
「王都から出る竜騎士団を、ここから見られるんだな」
村にいた頃には、そんなものを日常として見ることはなかった。
竜騎士団は噂や物語の中にいる存在で、空の上を渡る影ではなかった。
だが今は違う。
クロたちは村を失い、王都近くの土の上に立っている。
その代わりに、空を飛ぶ竜たちを見上げられる場所に来た。
白い竜は、隊列の先頭を飛び続けていた。
やがてその姿は遠ざかり、雲の縁へ溶けていく。
白が小さくなって、朝の光に紛れて、見えなくなる。
クロはまだ見ていた。
見えなくなってからも、しばらく空を見ていた。
「クロ」
母がそっと呼ぶ。
「石、拾わないと」
「……うん」
クロはようやく足元へ目を戻した。
土。
石。
泥で汚れた自分の手。
さっきまで空にいた白い竜とは、何もかも違う場所だった。
クロはしゃがみ込み、落とした小石を拾う。
手のひらに乗せると、石は冷たかった。
クロの足は土の上にあった。
手も、膝も、服も、泥で汚れていた。
けれど目だけは、何度も空の向こうへ戻っていった。
その日から、クロの日常には二つのものが増えた。
土を拾うこと。
そして、空を探すこと。
王都から竜騎士団が飛び立つたび、クロは手を止めて空を見上げた。
その先頭に白い竜がいるかを探した。
白い竜は、いつも先頭にいた。
誰よりも早く空へ出て、誰よりも前を飛び、後ろに続く竜たちを率いていた。
クロはそれを見るたび、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
けれど、その熱にまだ名前はなかった。
憧れとも、願いとも、決意とも呼べない。
ただ、白い竜をもう一度見たい。
その白が空の向こうへ消えていくまで、目で追っていたい。
今のクロに分かるのは、それだけだった。
だから彼女は、土を拾った。
石を運び、根を抜き、水を運び、泥にまみれた手で新しい土地を作る手伝いをした。
そして時々、蜥蜴を見た。
石の下に隠れる小さな生き物。
日向で体を温める細い背中。
近づくと逃げる、その一瞬前の目の動き。
クロはそれを、飽きずに見た。
空には、まだ手の届かない白い竜がいた。
土の上には、手を伸ばせば触れられそうな小さな蜥蜴がいた。
遠いものを見上げること。
近いものをじっと見ること。
その二つが、クロの新しい日常になっていった。




