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序章 第2話 「空の向こう」

砕けた教会の外、瓦礫と土煙の中に、オーガの巨体が横たわっている。


さっきまで世界のすべてを壊すように見えた腕も、今は地面に投げ出されたまま、ぴくりとも動かない。


クロは、まだ母の腕の中にいた。


息を吸う。


喉が痛い。


粉っぽい空気が胸の奥に引っかかる。


息を吐く。


まだ体が震えている。

けれど、自分は息をしている。

クロはそれを、ひとつずつ確かめた。


「……お母さん」


声は、思ったより小さく出た。


母は答えなかった。

ただ、クロを抱く腕に力を込める。

痛いくらいだった。


「お母さん、くるしい」


その言葉で、母はようやく我に返ったように腕を緩めた。


「クロ……クロ、怪我は? どこか痛い?」


母の声は震えていた。

クロの頬に触れ、肩に触れ、腕に触れ、血が出ていないか確かめる。


クロは首を振った。


「痛くない」


本当は、肩が少し痛かった。

引き倒された時に、床へぶつけたのだと思う。

けれど、それは言うほどの痛みではなかった。


「お父さんは?」


クロは母の腕の隙間から、父を探した。

父はすぐそこにいた。


クロと母の前に立ったまま、まだ崩れた壁の方を見ている。

手には、折れた椅子の脚を握っていた。

武器のつもりだったのだろう。

それが、ひどく小さく見えた。


「お父さん」


呼ぶと、父の肩がびくりと動いた。

ゆっくり振り返る。

顔は土埃で汚れていて、頬に細い傷があった。


「……クロ」


父はそう言ったきり、言葉を失った。


クロは父の手を見た。

まだ震えている。


「お父さん、手、痛いの?」


父は自分の手を見下ろした。

折れた椅子の脚を握りしめる指が、白くなっている。


「いや……痛くはない」

「ふるえてる」

「……そうだな」


父は、少しだけ笑おうとした。

けれど、うまく笑えていなかった。


「怖かったんだ」


その言葉に、クロはまばたきをした。


父が、怖かったと言った。

それは少し、不思議なことのように思えた。

父は大きくて、強くて、何でも持ち上げられて、夜の物音にも起きて外を見に行ける人だった。

その父が、怖かったと言った。


クロは崩れた壁の向こうを見た。


オーガは、もう動かない。

その前に、白い竜が立っている。


「……あの竜が、やったの?」


クロが呟く。


母が答えるより先に、白い竜が翼を少し畳んだ。

その動きだけで、粉塵がゆっくり流れる。


「竜騎士団だ」


父が言った。

声はまだ硬かった。

けれど、そこにはさっきまでとは違うものが混じっていた。

恐怖ではない。

安堵に近いもの。


「助かったんだ。クロ」


助かった。


その言葉を、クロは頭の中で繰り返した。

助かった。

自分は死んでいない。

母もいる。

父もいる。

オーガは動かない。

白い竜がいる。

クロはゆっくり体を起こした。


「クロ、動いちゃだめ」


まだ恐怖が抜けない母が止める。


「見るだけ」

「だめよ」

「見るだけだから」


クロは母の手を振りほどこうとはしなかった。

ただ、少しだけ身を乗り出して、瓦礫の向こうを見た。


白い竜は大きかった。

教会の壁が砕けて、空が見えるようになっていた。

夜明けの光が、その白い鱗の輪郭に沿って滲んでいる。

隣に立つ騎士は、周囲の者たちへ短く指示を飛ばしていた。


「負傷者を外へ。動かせない者はその場で手当てしろ」

「外周を警戒。群れの残りを入れるな」

「村民を壁際から離せ。崩れるぞ」


声は大きすぎない。

けれど、不思議とよく通った。

周りの騎士たちは迷わず動く。

瓦礫をどかす者。

血を流した村人を抱えて運ぶ者。

教会の外へ走る者。

剣を抜いたまま、崩れた壁の向こうを見張る者。


クロは、そのすべてを見ていた。


怖いものが来た後に、こんなふうに動ける人たちがいる。

泣いている人がいる。

うめいている人がいる。

誰かの名前を呼ぶ声がする。

それでも竜騎士団の人たちは、立って、歩いて、命令して、手を伸ばしている。

クロは唇を結んだ。


「お母さん」

「なに?」

「あの人、だれ?」


母はクロの視線を追った。

白い竜の背にいた騎士。

今は竜の傍らに立ち、騎士たちへ指示を出している。


「あの方が……団長様よ。竜騎士団の」

「だんちょうさま」


クロはその言葉を小さく繰り返した。


団長。

白い竜に乗っている人。

オーガを止めた人。

みんなに何をすればいいか言っている人。


「あの竜は?」


母は答えられなかった。


クロはもう一度、白い竜を見た。


「名前、あるのかな」


その問いは、誰に向けたものでもなかった。


白い竜は、こちらを見ていなかった。

教会の外、まだ危険が残っている方へ首を向けている。

その姿は、まだどこかに潜む脅威から、教会の中の者たちを守っているようにも見えた。


「……きれい」


母の腕が、また少し強くなる。


「クロ」

「こわくないよ」


母親に言い聞かせるようにクロは言った。

自分でも、少し驚くくらいはっきりした声だった。


「オーガは怖かった。でも、あの竜は怖くない」

「そうね……」


教会の中では、騎士たちの声が飛び交っている。

大人たちは怪我人を抱え、瓦礫をどかし、倒れた者の名を呼んでいる。


クロのすぐ近くでも、誰かが泣いていた。

クロはそちらを見た。


小さな男の子が、横たわったまま動かない女の人の袖を掴んでいる。

その女の人は目を閉じていて、顔に白い粉塵が積もっていた。


「……お母さん」


クロは小さく言った。


「うん」

「あの人、寝てるの?」


母の喉が鳴った。

すぐには答えが返ってこない。


クロはそれで、分かってしまった。


寝ているわけではない。

クロは唇を噛んだ。

涙は出なかった。

ただ、胸の奥がぎゅっと固くなる。

さっきまで息をしていることを確かめていた場所が、今度は重く沈む。


「助かったのに」


クロは呟いた。


「みんな、助かったんじゃないの?」


母はクロを抱き寄せた。


「クロ」

「白い竜、来たのに」


その声は責めているわけではなかった。

怒っているわけでもなかった。

ただ、分からなかった。

白い竜は来た。

オーガは倒れた。

自分は生きている。

母も父も生きている。

それなのに、どうしてまだ泣いている人がいるのか。

どうして動かない人がいるのか。

どうして、助かったのに全部が戻らないのか。

六歳のクロには、うまく分からなかった。

でも、目を逸らすこともできなかった。


白い竜を見る。

倒れた人を見る。

瓦礫を見る。

父の震える手を見る。

母の腕を見る。


「……お母さん」

「なあに」

「助けるって、間に合わないと、だめなんだね」


母が息を呑んだ。

父も、クロを見た。


クロは二人の顔を見ていなかった。


ただ、白い竜の方を見ていた。


「もっと早く来ないと、だめなんだ」


それは、幼い子供の言葉だった。


けれどその言葉は、教会の粉塵の中で、ひどく静かに落ちた。


母はクロを強く抱きしめた。

クロはただ、白い竜を見ていた。


竜の傍らで、団長が振り返る。


一瞬だけ、クロの方を見た気がした。

白い竜もまた、ほんのわずかに首を傾ける。

その瞳が、砕けた教会の中を通り、クロの上を過ぎた。


本当に目が合ったのかは分からない。


けれどクロは、息を止めた。


「……ありがとう」


声は小さかった。


母にも、父にも、騎士にも届かなかったかもしれない。


けれどクロは、言った。


「助けてくれて、ありがとう」


白い竜は何も答えない。

ただ、翼を少しだけ動かした。


風が入ってくる。

冷たくて、乾いていて、けれど少しだけ朝の匂いがした。


クロはその風を吸い込んだ。


まだ、胸は重かった。

怖さも消えていなかった。

分からないことばかりだった。

それでも、自分は息をしている。

母がいる。

父がいる。

白い竜がいる。


クロはもう一度、心の中で確かめた。


まだ、生きている。


外で、竜騎士団の笛が鳴った。


団長が短く指示を出す。

白い竜が首を上げる。

朝の光の中で、その翼が大きく広がった。


クロは思わず身を乗り出した。


「行っちゃうの?」


誰も答えない。


白い竜は、空を見た。

その先に、まだ戦いがあるのかもしれない。

まだ助けを待っている人がいるのかもしれない。


クロには分からなかった。


でも、白い竜がここに留まらないことだけは分かった。


「待って」


口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

白い竜には届かない。


それでもクロは、もう一度言った。


「待って」


母の腕がクロを離さない。


白い竜は一度、大きく翼を打った。

粉塵が舞い上がる。

朝の光が割れる。

竜の巨体が、瓦礫の向こうでふわりと浮いた。

空へ戻っていく。


クロは目を逸らさなかった。


白い翼が、壊れた教会の穴から見える空へ上がっていく。

その背に、騎士団長がいる。

外套が風に翻る。

白が、朝の薄い青へ溶けていく。


クロはそれを、ずっと見ていた。


見えなくなってからも、まだ見ていた。


母が何か言った。

父がクロの肩に手を置いた。

周りでは、まだ泣き声と怒号と足音が続いていた。


けれどクロの中には、さっきの白い翼だけが残っていた。


「……お母さん」

「うん」

「あの竜、また来る?」


母は答えられなかった。


クロは、空を見上げたまま言った。


「私、もう一回見たい」


それが、願いになった。

まだ意味も形も持たない、ただの小さな願い。

けれどその日から、クロは空を見るようになった。

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