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序章 第1話 「白き竜」

石壁が砕けた。


胸の奥を押し潰すような衝撃が、空気を介して伝わる。


教会の外壁が内側へ膨らみ、ひびが走り、次の瞬間、積み上げられた石がまとめて吹き飛んだ。

白い粉塵が爆ぜる。


悲鳴が上がる。


誰かがクロの肩を掴み、床へ引き倒すように抱き寄せた。


「伏せて!」


母の声だった。

けれど、六歳のクロには、何が起きたのか分からなかった。

ただ、さっきまで壁だった場所に、大きな穴が空いていた。

夜明け前の薄明かりがそこから差し込み、粉塵を鈍く照らしている。


その光の中に、黒い影が立っていた。


人ではない。

教会の扉よりも大きい。

歪に生えた禍々しい角。

太い腕。

曲がった背。

爛々と輝く獰猛な瞳。

石を握り潰せそうな指。


腐った獣のような臭いが、冷たい空気と一緒に流れ込んできた。


誰かが叫んだ。


「オーガだ!」


その声が、教会の中を走った。

祈っていた老婆が息を呑む。

泣いていた子供が声を失う。


扉を押さえていた男たちの一部は、飛び散る瓦礫に巻き込まれ、肉塊へ姿を変えた者もいた。


無事だった者たちは鍬などを手にし、姿を現したオーガを、恐怖に染まった顔で睨みつける。


けれど、誰も前へ出られなかった。


(無理だ……)


クロにも、それだけは分かった。


村の大人たちは強いと思っていた。

父は重い薪束を軽々と担げたし、隣の家の猟師は森の狼を追い払ったことがある。

教会の壁は厚く、神さまの家だから、ここにいれば助かるのだと誰かが言っていた。


でも、その壁は砕けた。

大人たちは動けない。

神さまの家に、穴が空いた。


オーガが、一歩踏み込んだ。


地面から振動が伝わる。

崩れた石が転がる。

粉塵の向こうで、爛々と光る獰猛な瞳が教会の中をなぞった。


クロは母の腕の中で身を縮める。

隣に父が立っていた。

父はクロと母を庇うように前へ出ていたが、握った手が震えていた。

父の手が震えている。

そのことが、何より怖かった。

オーガが腕を上げる。


それはとてもゆっくりに見えた。

実際には一瞬だったのかもしれない。

けれどクロには、ひどく長く感じられた。


巨木のように太い腕が、絶望を纏い持ち上がる。


爪の間に土が詰まっている。

腕の毛に血のようなものがこびりついている。


あれが振り下ろされたら、終わる。


クロはそう思った。

声も出なかった。

泣くこともできなかった。


ただ金色の目を大きく開いたまま、崩れた壁の向こうの怪物を見ていた。


(もう駄目だ……)


その時だった。


空気が、爆ぜた。


いや、違う。


とてつもない質量を持った何かが、凄まじい速さで視界に介入してきた。

風が鳴る。


次の瞬間、オーガの巨体が横へ吹き飛んだ。

耳をつんざく轟音。


教会の中の誰もが、何が起きたのか分からなかった。


オーガは悲鳴を上げる暇もなく、砕けた壁の外へ弾き出され、地面に叩きつけられた。

土煙が上がる。

壊れた石片が床を転がる。


クロの耳には、しばらく何も聞こえなかった。

ただ、風だけが入ってきた。


冷たくて、乾いていて、土と血と煙の臭いを押し流す風。


クロは母の腕の中から、ゆっくり顔を上げた。

砕けた壁の向こうに、白があった。


巨大な、純白の竜。


地平線に姿を現した朝日を背に受け、逆光の中で翼を広げている。

その輪郭は眩しく、粉塵の中で光って見えた。


長い首。


鋭い角。


しなやかな尾。


風をとらえて力強く震える翼膜。


白い鱗は朝日に照らされ、まるで空そのものが形を持って降りてきたようだった。


その背に、一人の騎士がいた。


黒鉄色の甲冑。


風に揺れる外套。


腰に佩いた剣。


竜の背に跨がりながらも、少しも揺らがない姿勢。


誰かが息を呑む。


「竜騎士団……」


その言葉が、教会の中に静かに響き渡る。

白い竜は、ゆっくりと首をめぐらせた。

琥珀とも金ともつかない瞳が、砕けた教会の中を見た。


クロは、その目と合った気がした。

本当にそうだったのかは分からない。

けれど六歳のクロには、そう思えた。

怖くなかった。


さっきまで怪物を見ていた時とは違う。

体は震えていた。

涙も出そうだった。

でも、怖くはなかった。


白い竜の背で、騎士が短く何かを告げた。

その声は低く、よく通った。


「生存者を守れ。教会内に負傷者あり」


その言葉に応えるように、空の向こうからいくつもの翼音が近づいてくる。


一頭ではない。


何頭もの竜が、空から飛来していた。


白き竜は、再び外へ視線を向けた。

吹き飛ばされたオーガが、瓦礫の中で起き上がろうとしている。

だが、その動きは鈍かった。


騎士が手綱を引いたのか。

あるいは、竜が自らそうしたのか。

白い竜は前へ出た。


一歩。


たったそれだけで、壊れた教会の中にいた村人たちは理解した。


もう、あの怪物はこちらへ来られない。

白い翼が、朝日の中で大きく広がった。


クロはそれを見上げた。

壁は砕けていた。

村は燃えていた。

誰かが泣いていた。

誰かが神の名を呼んでいた。

父の手はまだ震えていて、母の腕は痛いほどクロを抱きしめていた。


けれどクロは、そのすべての向こうにある白い竜だけを、真剣な眼差しで見ていた。


まるでその光景を、心の奥に焼き付けようとしているかのように。


挿絵(By みてみん)


白い竜の圧倒的な力でねじ伏せられたオーガは、すでにぴくりとも動かない。


空から来た。

本当に、空から来たのだ。


もう駄目だと思った場所へ。


誰もが生を諦めていた場所へ。


白い竜は、来た。


その日、クロの村は壊れた。

家も、畑も、納屋も、井戸も、村の中心にあった教会でさえ、元の姿をとどめてはいなかった。

生き残った者たちはいた。

けれど、生き残っただけでは暮らしは戻らない。


クロは、まだそれを知らなかった。

この白い竜を、これから何年も空に探し続けることも。


その背にいた騎士団長の姿を、何度も思い返すことも。


やがて自分もまた、誰かの絶望へ飛び込む側になりたいと願うことも。


何も知らなかった。


ただこの時のクロは、母の腕に抱かれたまま、瓦礫の向こうの白い翼を見ていた。


涙で滲んだ金色の瞳に、その姿を焼きつけるように。

竜とは、遠い物語の中にいるものではなかった。

竜とは、空の向こうから来るものだった。

そして時に、死を覚悟した小さな子供の前に、奇跡のように舞い降りるものだった。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
クロが竜騎士を目指す理由の発端ですね 幼いクロがどうやって竜騎士を目指すのか? アテルとの出会いは? とても気になり続きが楽しみです!
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