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0話「竜舎の黒猫」

竜舎の朝は、まだ王都が目を覚ますより少し早い。


高い天窓から差し込む光は薄く、石造りの壁には夜の冷たさが残っていた。湿った藁の匂い。革具に染みた油の匂い。昨日の飛行訓練で持ち込まれた、乾いた土と風の匂い。




その奥で、黒猫の少女クロは、桶の水に浸した布をぎゅっと絞った。


「アテル。起きてるんでしょ」


返事はない。


太い柱の向こうで、(おお)きな竜が横たわっている。長い首を畳み、翼を体に沿わせ、目を閉じたまま、眠っているように見せていた。


竜舎の薄明かりの中で、その鱗は黒く沈んでいる。


ただ黒いのではない。


黒よりも黒い竜だった。


光を受けても浅く光らず、鱗の奥へ沈み込んでいくような黒。夜の色よりも深く、影よりも濃く、けれど決して濁ってはいない。じっと見ていると、その黒の中からこちらを見返す何かがあるように思える。




けれど今は、その(おお)きな竜が、寝たふりをしている。


クロは半眼になった。


「寝たふりしないの。昨日、右の首筋かゆがってたでしょ。放っておくと、また鱗の下が荒れるよ」


竜の片目が、うっすら開いた。


琥珀色の瞳がクロを見る。


その目には、獣の鈍さも、軍用竜らしい荒々しさもない。ただ、面倒くさそうで、少しだけ拗ねたような光があった。


クロは桶を片手に近づき、アテルの鼻先を指で軽く押した。


「はい、頭下げて」


アテルは低く唸った。


竜舎の梁がかすかに震える。普通の者なら、それだけで足が止まる音だった。


けれどクロは眉ひとつ動かさない。


「文句言わない。暴れたら、今日は耳の裏まで念入りに擦るからね」


アテルの喉の奥で、ごろり、と音が鳴った。


怒りではない。


不満。


それから、ほんの少しの甘え。


声ではない。言葉でもない。けれどクロには、そう届いた。


「はいはい。嫌なのは分かったから」


クロは濡れ布をアテルの頬に当てた。


硬い鱗の隙間に沿って、ゆっくりと汚れを拭っていく。乾いた土。藁のくず。薄くこびりついた汗と砂。布がざらりと音を立てるたび、アテルの瞼が少しだけ下がった。


黒い鱗は、濡れ布を通すとさらに深く見えた。


表面の土が落ちても、その黒は明るくならない。むしろ余計なものが拭われるたび、奥にある静かな強さだけが浮かび上がってくる。


光を受けても、浅く光らない。


黒よりも黒い。


クロはその色を見るたび、胸の奥が少しだけ静かになる。


理由は、まだうまく言えない。


ただ、この黒は普通の黒ではない。


そう思う。




「そこ、痛い?」


尾の先が藁を一度叩いた。


「痛くはない。でも嫌なんだね?」


今度は翼膜が小さく震えた。


「ほんと、分かりやすいね。アテルは」


クロは手の力を少し緩める。


鱗を逆立てないように、布の角度を変えた。




竜舎の外では、人の声が増え始めている。水桶を運ぶ音。革帯を締める音。遠くで別の竜が餌を催促する声。朝の竜騎士団は慌ただしい。


それでも、この一角だけは静かだった。


巨きな黒い竜と、小柄な黒猫の少女。


そのふたつの呼吸だけが、朝の冷えた空気の中にあった。


挿絵(By みてみん)


少し寝癖の残った黒いピクシーカット。その頂点で主張する、ぴょこんと跳ねた毛束が、アテルの鼻息に合わせて揺れている。猫獣人特有の細いスリットが入った金色の大きな瞳には、少しの呆れと、親愛のこもった表情が宿っていた。




竜の顔の大きさに比べれば、クロの手など小枝のようなものだ。


それでも、その手つきに迷いはない。


「今日は飛ぶんだって」


首筋を拭きながら、クロが言う。


アテルの瞳がわずかに細くなった。


「知ってる。さっきから風の匂いばっかり嗅いでたもんね。東風。少し湿ってる。雲は出るけど、雨まではいかないと思う」


アテルが鼻から息を吐いた。


温かい風がクロの前髪を揺らす。


「なに、その顔。私だって、それくらいは分かるよ」


クロは少しだけむっとした。


けれど、その口元には小さな笑みがあった。


「そりゃあ……アテルたちほどじゃないけどさ」


アテルはゆっくり瞬きをした。


一度、深く。


ーー当然。


声になれば、きっとそんな響きだった。


クロはその反応を見て、少しだけ口を尖らせた。


「そこは否定してくれてもいいのに」


アテルは答えない。ただ、喉の奥で低く鳴った。


クロには、それが笑っているように届いた。


「……まあ、いいけど」


クロはそう呟いて、アテルの鼻先に額を軽く寄せた。


硬い鱗の冷たさ。


その奥にある、確かな熱。


アテルはしばらく動かなかった。


やがて、(おお)きな頭がほんの少し傾き、クロの肩に重みを預ける。普通なら押し倒されてもおかしくない仕草だった。けれどクロは慣れたように片足を踏ん張り、空いた手でアテルの頬を撫でた。


「重い」


喉の奥で、また低い音が返ってくる。


クロは目を細めた。


「笑ったでしょ、今」


アテルは目を閉じた。


知らんふりだった。


クロは小さく息を吐き、それから少しだけ笑った。


竜舎の薄明かりの中で、その笑みはまだ幼く見えた。けれど同時に、ひどく長い道のりを歩いてきた者のようにも見えた。


クロは十四歳だ。


この国では、成人と見なされる年齢である。


だが、竜の隣に立つにはまだ小さく、騎士と呼ばれるにはまだ細く、誰かを率いるには声も静かすぎる。


それでも、アテルは彼女の名を知っている。


クロもまた、アテルの名を知っている。


それだけで、この朝の竜舎には、他の誰にも踏み込めない場所ができていた。




「ねえ、アテル」


クロは布を桶に戻し、もう一度絞った。


「私、ちゃんと近づけてるかな」


アテルの瞳が開く。


琥珀色の瞳が、黒い鱗の奥で静かに光る。


その目に見つめられるたび、クロは今でも思う。


この竜は、ただ強いだけではない。


ただ賢いだけでもない。


もっと古く、もっと深いものが、その黒の奥にある。


けれど、それを何と呼べばいいのか、クロにはまだ分からなかった。


クロは少しだけ視線を落とした。


「……あの日の、白い竜に」


その言葉を口にした瞬間、竜舎の空気がほんの少しだけ変わった。




遠い空。


砕ける石壁。


舞い上がる粉塵。


悲鳴。


巨大なオーガの影。


そして、そのすべてを吹き飛ばした純白の翼。


クロの指先が、濡れ布を握ったまま止まる。


アテルは何も言わなかった。


ただ、静かにクロを見ていた。


その沈黙は、答えのようでもあり、問いのようでもあった。


クロは小さく息を吸う。


それから、いつもの調子に戻すように、わざと軽く言った。


「……まだまだって顔してる」


アテルが喉を鳴らした。


今度は、少しだけ優しい音だった。


クロにはそれが、否定ではなく、励ましのように届いた。


「分かってるよ」


クロはもう一度、アテルの首筋を拭き始める。




竜舎の外で、朝の鐘が鳴った。


王都が目を覚ます。


竜騎士団の一日が始まる。


どこかの竜が翼を広げ、どこかの騎士が空へ向かう支度を始める。


クロもまた、竜の傍らで一日を始める。


けれど、彼女が最初からここにいたわけではない。


竜の名を呼び、その巨大な鼻先に触れて笑えるようになるまでには、長い時間が必要だった。


かつて、クロにとって竜は空の向こう側にいる存在だった。


手を伸ばしても届かないもの。


見上げることしかできないもの。


そして、死を覚悟した幼い少女の前に、奇跡のように舞い降りたもの。


それは、クロが六歳の時のことだった。

皆様はじめまして。ぱんつおいてけと申します。


この度は「黒猫竜騎士物語」を読んでいただき、誠に感謝申し上げます。


主人公クロとワイバーンのアテルの成長を暖かく見守っていただけたら幸いです。


更新は不定期になりますが、よろしくお願い致します。

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