一章 第22話 「穴」
教会の壁に、大きな穴が空いていた。
クロは、その穴を知っていた。
穴の縁に残った石は、夕方の光を受けて白く乾いている。そこから風が入り、伸びた草を揺らしていた。
クロは、少しだけ足を止めた。
息も止まった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
粉塵。
崩れた壁。
誰かの叫び声。
両親の手。
それらが、穴の奥から一度に戻ってきそうになった。
けれど、クロは瞬きをした。
今は、そこではない。
黒い竜がいない。
さっきまで首にしがみついていた竜が、いない。
クロは乾いた血の残る鼻の下を袖で拭い、ゆっくりと顔を上げた。腕はまだ痛い。指先もうまく動かない。手のひらには、黒い鱗を掴んでいた感触が残っている。
それでも、立たなければならなかった。
探さなければならなかった。
クロは教会から目を離し、草に沈んだ道へ足を踏み出した。
町は、夕方の光の中に沈んでいた。
家々は崩れ、屋根は落ち、窓だった場所には蔦が絡んでいる。道には草が伸び、石畳はところどころ土に埋もれていた。
人の声はない。
煙の匂いもない。
戸を閉める音も、夕食を呼ぶ声もない。
ただ、風が朽ちた木材の隙間を抜けている。
クロは足元を確かめながら歩いた。何度かふらつき、そのたびに壊れた壁へ手をつく。腕に痛みが走り、顔をしかめた。
「……どこ」
声は、かすれていた。
返事はない。
クロはもう一度、周囲を見る。
黒い竜。
黒い竜はどこ。
鎖を引きずる音は、もう聞こえなかった。大きな翼の音もない。低い息遣いもない。
呼ぼうとして、口が止まる。
黒い竜。
それしか、呼び方がなかった。
名前を知らない。
あの竜を探しているのに、呼ぶための名前を知らなかった。
クロは少しだけ唇を噛んだ。
それでも、探すしかない。
井戸があった。
母と水を汲みに来た井戸だった。
縁には蔦が絡み、滑車は半分落ちている。桶はなく、井戸の中は暗かった。昔は、そこに水の匂いがあった気がする。
クロは足を止めかけて、すぐに顔を上げた。
井戸の裏。
崩れた家の影。
草の深いところ。
クロは順に目を走らせた。
あの黒い身体は、どこにも見えなかった。
クロは井戸から離れた。
広場には、ベンチが残っていた。
片方の脚が折れ、草に半分埋もれている。座る場所だった板は割れ、雨に濡れたまま乾いたような色をしていた。
誰かが座っていた場所。
誰かが話していた場所。
そこまで思いかけて、クロは首を振った。
思い出している場合ではなかった。
広場の向こうへ目を凝らす。
黒い竜はいない。
夕方の光が、家々の影を長く伸ばしていた。さっきまで石の色が見えていた場所が、少しずつ黒く沈んでいく。
クロは息を吸った。
胸が痛い。
鼻の奥に、乾いた血の匂いが残っている。
それでも歩いた。
黒い竜は、見つからなかった。
壊れた家の間を覗いた。
倒れた塀の向こうを見た。
広場の端まで歩いた。
足跡のようなものを見つけて追おうとしたけれど、途中で草に紛れて分からなくなった。
何度も立ち止まり、耳を澄ませた。
鎖の音は聞こえない。
竜の息も聞こえない。
聞こえるのは、風と、遠くで崩れた木片がきしむ音だけだった。
空の色が、さらに沈んでいく。
夕方は、思ったより早く終わろうとしていた。
クロは、広場の端で足を止めた。
このまま歩き回るのは、危ない。
そう思った。
でも、黒い竜を見つけていない。
離さなかったのに。
落ちても、探そうとしているのに。
まだ、見つけられない。
クロは指先を握ろうとして、うまく握れなかった。手が震えている。腕も重い。足も、さっきから何度も膝が抜けそうになっていた。
休める場所を探さなければならない。
夜になる前に。
クロはゆっくりと周囲を見回した。
崩れた家々は、壁が低く、屋根もない。戸は外れ、隙間だらけだった。身を隠すには弱すぎる。
そして、最後に教会の方を見た。
教会には、まだ壁があった。
穴もあった。
それでも、外にいるよりはましだった。
クロは少しだけ唇を引き結び、来た道を戻り始めた。
夕方の光は、もうほとんど残っていなかった。草に沈んだ道の色が分かりにくくなり、崩れた家々の隙間は、ひとつずつ黒く沈んでいく。
人が住んでいれば、灯りが点く時間だった。
誰かが戸を閉める音がして、煙の匂いがして、夕食を呼ぶ声がどこかから聞こえてくるはずだった。
けれど、この町には何もない。
風が吹く。
朽ちた木材が、小さく鳴る。
遠くで、何かが草を踏んだような音がした。
クロは足を止めた。
耳が、ぴくりと動く。
もう一度、音がした。
石の欠片が転がるような、小さな音。
クロは息を殺した。
黒い竜の音ではなかった。
鎖を引きずる重い音でも、翼が空気を押す音でもない。もっと低く、もっと小さく、地面に近い音だった。
胸の奥が冷える。
夜になる。
人がいなくなった町は、夜になれば人の場所ではなくなる。
クロは唇を結び、教会の方へ足を向けた。
教会の大穴の向こうは、もう暗かった。
崩れた石の縁だけが薄く白く見えている。
見ないようにしても、穴はそこにあった。
クロはゆっくりと身を屈め、大穴を潜った。
石の欠片が足元で小さく鳴る。踏まないようにしたつもりでも、身体がふらついてうまく避けられない。腕に力を入れると痛みが走り、クロは顔をしかめた。
教会の中は、外より少しだけ暗かった。
屋根の一部は落ち、長椅子だったものは割れ、床には枯れ草と土が入り込んでいる。壁の隅には蔦が這い、古い石の匂いと、湿った草の匂いが混じっていた。
クロは奥へ進み、崩れた柱の陰に身を寄せた。
膝を抱える。
腕が痛い。
指先が震えている。
鼻の下を袖で拭うと、乾いた血がまた少し手についた。
クロはそれを見て、袖でこすった。
こすっても、血の匂いが消えた気はしなかった。
顔を伏せる。
けれど、風が入ってくる。
大穴から。
顔を伏せても、そこから入る風だけは避けられなかった。
粉塵。
崩れる石の音。
両親の手。
誰かの叫び声。
クロは膝を抱えたまま、息を小さくした。
あの日も、ここにいた。
けれど、今は違う。
今は、お父さんもお母さんもいない。
ヨルもいない。
誰の手も、クロを抱えていない。
クロは自分の腕をぎゅっと握った。痛みが走る。それでも、握った。
外で、低い音がした。
クロは顔を上げる。
教会の外。
大穴の向こう。
夜の色の中で、二つの目が光った。
クロの喉が、細く鳴る。
その目を、知っていた。
忘れたことなんてなかった。
「……オーガ」
声は、ほとんど息だった。
大穴の向こうで、低い唸り声がした。
大きな影が、少しずつ近づいてくる。石を踏む音。重い呼吸。獣臭い匂い。その中に、血の匂いも混じっていた。
クロは動けなかった。
あの日は、壁があった。
今は、ない。
穴はもう、開いている。
オーガの爪が、大穴の縁にかかった。
石が削れ、砂が落ちる。
クロは後ろへ下がろうとした。けれど、背中はすぐに崩れた柱へ当たった。逃げる場所はなかった。
息が詰まる。
目の奥が熱くなる。
黒い竜を、見つけられなかった。
離さなかったのに。
独りにしたくなかったのに。
また、独りにしてしまった。
オーガの指が、穴の縁を掴む。
石が、ぎり、と鳴った。
胸の奥が、ぐっと潰れる。
竜騎士になれなかった。
まだ、何もできていない。
お父さん。
お母さん。
ヨル。
暗い教会の隅に、顔が浮かぶ。
送り出してくれた人たちのことも、ひとつずつ浮かんだ。
帰るって言った。
顔を見せるって言った。
オーガの顔が、大穴の向こうに近づく。
大きな口。
荒い息。
濁った目。
クロの頬に、涙が落ちた。
でも、ここで終わるのかもしれない。
オーガが、穴へもう片方の手をかけた。
その時、外で何かが潰れる音がした。
クロは息を止める。
オーガの動きも止まった。
大穴の向こうで、低い唸り声が別の音に変わる。短い悲鳴。草を踏み荒らす音。硬いものが折れる音。重いものが地面へ叩きつけられる音。
血の匂いが、濃くなった。
オーガが、ゆっくりと顔を横へ向ける。
その目に、クロは見覚えのない怯えを見た。
次の瞬間、穴の向こうの影が大きく揺れた。
オーガの腕が、大穴の縁から外れる。
低い悲鳴が、途中で切れた。
何かが石にぶつかる。
濡れた音がした。
クロは、動けなかった。
指先が冷たくなる。
喉が詰まる。
大穴の向こうから、鎖を引きずる音が近づいてきた。
ずるり。
石を擦る音。
重い息。
低い喉の音。
オーガの目は、もうなかった。
その代わりに、穴の向こうに黒い竜がいた。
夜の闇よりも黒かった。
けれど、闇に溶けてはいなかった。血を浴びた鱗が、暗がりの中で鈍く濡れている。爪には泥が絡み、尾の先にも赤黒いものがついていた。
黒い竜は、荒い息を吐いていた。
首が低い。
翼の片方が、少し下がっている。
引きずられた鎖が、石に当たって鳴った。
クロは助かったと思えなかった。
身体が、先に怯えた。
オーガよりも、もっと大きくて、もっと黒いものが、穴の向こうにいる。
黒い竜が、一歩、教会へ入った。
石床が低く鳴る。
血の匂いが近づく。
クロは膝を抱えたまま、動けなかった。
黒い竜は、前脚を置くたびにわずかに身体を揺らした。翼を畳みかけて、途中で一度止まり、またゆっくり畳む。喉の奥から、かすれた息が落ちた。
それでも、近づいてくる。
クロは目を逸らせなかった。
死ぬ。
そう思った。その瞬間ー
ぴたりと、黒い竜が、クロの前で止まった。
荒い息が降ってくる。
血の匂い。
泥の匂い。
熱い竜の息。
黒い爪が、クロのすぐ前の石床にあった。
クロは息を吸えなかった。
黒い竜は、しばらく動かなかった。
見ているのか。
見えていないのか。
琥珀色の目は開いているのに、クロには分からなかった。
ただ、低い息だけが、教会の中に落ちていた。
やがて、黒い竜がゆっくりと身体の向きを変えた。
クロの方へではなかった。
大穴の方へ。
鎖が石床を擦る。
黒い竜は大穴の前まで歩き、そこで身体を低くした。
翼を畳む。
血に濡れた首が沈む。
重い身体が、石床へ伏せる。
穴が、ふさがった。
外の夜が見えなくなる。
さっきまで光っていた目も、草の揺れも、暗がりも見えない。
あるのは、黒い竜の背と、低く聞こえる息だけだった。
クロはそれを見ていた。
怖かった。
まだ、怖かった。
けれど、大穴の向こうはもう見えなかった。
風も、少し弱くなった。
クロは膝を抱えたまま、目を瞬いた。
眠ってはいけない。
そう思った。
黒い竜がすぐそこにいる。
濃密な、死の匂いがする。
外には、まだ夜がある。
それでも、身体はもう動かなかった。
腕が痛い。
喉が乾いている。
頬の涙が冷たい。
黒い竜の息が、低く、近くで聞こえる。
クロは膝を抱えたまま、目を閉じた。
眠ってはいけないと思った。
けれど、もう起きていられなかった。
穴を塞ぐ黒い影のそばで、クロは眠った。
眠りの底で、声がした。
聞き慣れた低い声だった。
「お前」
そう呼ばれただけで、翼が軽くなった。
背にある重さ。
手綱の張り。
空へ出る前の呼吸。
それだけで、次の空が分かった。
風が来る。
翼を張る。
背の重さが、ほんの少しだけ変わる。
それだけでよかった。
けれど、もう一緒には飛べない。
戻れない。
守れなかった。
足。
血。
あの男の声。
守れなかった。
許せない。
自分を、許せない。
クロは目を閉じたまま、涙を流した。




