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一章 第21話 「離さなかった」

飛んでいる。


けれど、クロには空も、大地も、見る余裕などない。


見えているのは、黒い鱗だった。


風に揺れる鎖。


自分の腕。


それだけだった。


黒い竜の首にしがみついたまま、クロは歯を食いしばった。風が顔を叩き、耳を押し潰し、鼻血を横へ流していく。息を吸おうとしても、うまく吸えない。


腕が痛い。


肩が痛い。


指先の感覚が、少しずつ薄くなっていく。


黒い竜の翼が大きく動くたび、首の筋肉が盛り上がり、クロの身体は引き剥がされそうになった。鱗は硬く、滑る。掴める場所なんて、ほとんどない。


それでも、腕はほどけなかった。


「っ……」


声にならない息が漏れる。


風で目を開けていられない。


頬が鱗に擦れる。


血の味がした。


触れている場所から、まだ流れ込んでくる。


ぐちゃぐちゃだった。


熱くて、重くて、痛くて、苦しい。


黒い鱗の下で暴れているものが、腕を伝って胸へ入ってくる。


息が苦しい。


自分の胸が詰まっているのか、黒い鱗の下から入ってくるものに喉を塞がれているのか、分からなくなる。


黒い竜の喉が鳴る。


その音が、腕から胸へ響いた。


クロは息を吸おうとした。


吸えなかった。


腕が、また滑る。


落ちる。


そう思った。


けれど、指は離れなかった。


クロは残った力で、黒い竜の首へ身体を押しつける。痛みで目の奥が熱くなる。鼻血がまた流れた。耳の中で、風とも咆哮とも違う音が鳴っている。


黒い竜の身体が大きく傾いた。


クロの足が空を蹴る。


腕に、力が入らない。


それでも、手だけは黒い鱗を掴んでいた。


やがて、音が遠くなっていく。


風の音も。


翼の音も。


黒い竜の喉の奥から漏れる低い音も。


少しずつ、意識の向こうへ沈んでいく。


目を開けていられない。


息をしているのかも、よく分からない。


それでも、離さなかった。


クロの意識が、ふっと落ちた。


けれど手だけは、黒い竜の首を掴んだままだった。




黒い竜は、飛び続けた。


王都の屋根は、すでに後ろへ遠ざかっている。石造りの街並みは小さくなり、やがて畑と道の色が地上に広がった。


意識を失ったまま、クロは黒い鱗に頬を寄せ、両腕だけで首を掴んでいる。鼻血は風に乾き、黒い鱗の上に細い跡を残していた。


黒い竜は振り返らない。


翼は止まらない。


その黒い影が、ジェミノ村の近くを通った。




ジェミノ村では、ヨルが庭にしゃがんでいた。


石の上で、かけしっぽが腹を温めている。欠けた尾の先だけが、時々ぴくりと動いた。


ヨルはそれをじっと見ていた。


クロに少し似た金色の目で。


「……しっぽ」


かけしっぽが、ふいに顔を上げた。


ヨルも顔を上げる。


空の向こうから、大きな風の音が近づいていた。


黒い竜が、村の上を横切っていく。


大きな翼。


長い尾。


引きずるように揺れる鎖。


その首に、小さな黒い影がしがみついていた。


ヨルの目が、大きく開く。


「くろ!」


家の中から、母が顔を出した。


「どうしたの、ヨル」


ヨルは空を指差した。


「くろ!」


父も戸口に出てきて、目を細める。


黒い竜は、もう遠ざかっていた。


「そうだね、黒い竜だね」


「くろ!」


けれど黒い影は、もう村の向こうへ消えていた。


ヨルは小さな手を空へ伸ばす。


かけしっぽだけが、石の上でじっと空を見ていた。




黒い竜は、ジェミノ村を越えてさらに飛び続けた。


畑が途切れ、道が細くなる。


人の手が入った土地が少しずつ遠ざかり、森の影が濃くなっていく。黒い竜は高くも低くもない場所を飛び、翼を大きく動かし続けた。


クロはまだ動かない。


手だけが、黒い竜の首に残っている。


やがて、地上に古い石の道が見えた。


草に沈んだ道だった。


その先に、家々の残骸がある。


屋根は落ち、壁は崩れ、井戸には蔦が絡んでいた。人の声はない。風が、朽ちた木材の隙間を通っていく。


町だったもの。


その奥に、教会が残っていた。


黒い竜は、そこへ降りた。


着地は荒かった。


前脚が地面を抉り、土が跳ねる。翼が風を叩き、草が大きく倒れた。引きずっていた鎖が石に当たり、鈍い音を立てる。


その衝撃で、クロの腕が外れた。


小さな身体が、黒い竜の首から滑り落ちる。


草を潰し、土を擦り、肩から転がった。


ようやく止まっても、指だけはしばらく何かを掴む形のままだった。


黒い竜は振り返らなかった。


低い息を吐き、壊れた家々の影へ歩いていく。


鎖を引きずる音が、廃墟の町に響いた。


その音は、少しずつ遠ざかっていった。




クロは、冷たい土の匂いで目を覚ました。


最初に感じたのは、腕の痛みだった。


次に、喉の乾き。


頬にこびりついた血の感触。


「……っ」


息を吸うと、胸が痛んだ。


クロは身体を起こそうとして、失敗した。腕に力が入らない。指が震えている。手のひらには、黒い鱗を掴んでいた感触が残っていた。


黒い鱗。


黒い竜。


竜舎。


鎖。


咆哮。


クレアの声。


クロは目を開けた。


石床ではなかった。


藁の匂いもない。


水桶もない。


竜舎番の声もない。


あるのは、草に沈んだ道。


崩れた家。


朽ちた木材。


傾いた井戸。


「……どこ」


声がかすれた。


クロは顔を上げる。


黒い竜がいない。


さっきまで首にしがみついていた竜が、いない。


「どこ」


今度は、少し強く言った。


腕が痛い。


足も震えている。


それでも立とうとした。


黒い竜を探さなければならない。


離さなかったのに。


離さないつもりだったのに。


見失った。


クロは膝をつきながら、どうにか身体を起こした。鼻の下を拭うと、乾いた血が手についた。指先はまだうまく動かない。


それでも、周囲を見る。


黒い竜。


黒い竜はどこ。


壊れた壁の向こうか。


倒れた家の影か。


教会の裏か。


クロは一歩踏み出そうとして、止まった。


教会。


古い石造りの建物が、そこにあった。


屋根は崩れ、窓には蔦が絡み、扉は半分朽ちている。


そして。


壁に、大きな穴が空いていた。


クロの呼吸が止まる。


風が、草を揺らした。


穴の縁に残った石は、白く乾いている。


そこから差し込んだ光を、クロは覚えていた。


粉塵。


崩れた壁。


誰かの叫び声。


両親の手。


クロは、動けなかった。


教会の壁に、大きな穴が空いていた。


クロは、その穴を知っていた。

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