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一章 第20話 「咆哮」

「もう、前を向いて飛べ」


レイヴンの言葉が竜舎に落ちる。




しばらくの静寂の後、事態は動き出した。




最初は、爪の音だった。


黒い竜の鉤爪が、石床を押す。


ぎり、と硬い音が鳴った。


レイヴンは、白い線の手前に立ったままだった。


黒い竜は動かない。


目も開けない。


喉も鳴らさない。


けれど、その爪だけが、石に食い込んでいた。


「お前」


レイヴンが低く呼んだ。


次の瞬間、石が割れた。




黒い竜が、跳ねるように身を起こした。


鉤爪が石床を深く抉る。砕けた石が飛び、白い線の上を跳ねた。


尾が囲いを薙いだ。


太い木材が弾け、金具が外れ、竜舎の奥で乾いた破裂音が響く。近くの区画にいた竜が一斉に身を引き、翼を畳み直した。竜舎番の怒鳴り声が飛ぶ。


「下がれ!」


レイヴンは前に出た。


硬い方の足音が、石床に落ちる。


「お前、やめろ!」


しかし、黒い竜は聞いていなかった。


目は開いていた。


けれど、レイヴンを見てはいなかった。


ギラギラと光る琥珀色の瞳が、何も見ていないまま燃えている。喉の奥から低い音が漏れ、翼の付け根が大きく震えた。


もう一度、尾が振られる。


囲いの残りがまとめて砕けた。


鎖が張った。


黒い竜の首元で、太い鉄が軋む。


竜を繋ぎ止めるための鎖だった。人の腕ほどの太さがあり、竜舎番が何人もかかって扱うものだ。普通の竜なら、暴れてもそれ以上は進めない。そう作られている。


それが、黒い竜の身体を止めた。


一瞬だけ。


本当に、一瞬だけだった。


黒い竜が身を沈める。


爪が石に食い込む。


翼が梁を叩き、古い埃が落ちる。


肩の筋が隆起する。


鎖が鳴った。


一度。


二度。


鉄が、悲鳴のような音を立てた。


「やめろ!」


レイヴンの声が飛ぶ。


けれど届かない。


黒い竜が、吼えた。


その声に押されるように、竜舎の空気が震えた。




ーー次の瞬間、鎖が切れた。




太い鉄が跳ね、石床を打つ。火花が散り、竜舎番の一人が慌てて身を投げ出した。


黒い竜は止まらないまま外へ向かう。


通路は狭すぎた。


翼が壁を擦り、尾が水桶を弾き飛ばす。桶が転がり、水が石床に広がった。逃げ遅れた見習いが竜舎番に襟首を掴まれ、横へ引き倒される。


大木から削り出された太い柱に、黒い竜の肩が当たった。


柱が軋む。


次の瞬間、折れた。


いとも簡単に。


竜舎全体が揺れ、梁から藁くずと埃が降る。外の光が、折れた柱の向こうから斜めに差し込んだ。


レイヴンは、そこから先へ踏み込めなかった。


伸ばした手が、宙で止まっている。


レイヴンは、あの竜を知っていた。


飛ぶ前に首を低くすることも、着地の前に尾を沈めることも、怒った時の目も、退屈している時の喉の音も。


けれど、こんな黒い竜は知らなかった。


自分の声を聞かず、鎖を引きちぎり、柱を折り、何も見ずに外へ出ていく竜を。


レイヴンの硬い足音が、一歩だけ鳴った。


それだけだった。




クロは、それを見ていた。


黒い竜の首。


引きずられる鎖。


折れた柱。


開きかけた翼。


伸ばされたまま止まったレイヴンの手。


全部が、一瞬で繋がった。


自分が見た。


伝えた。


レイヴンが、あの竜の前に立った。


そして今、黒い竜は壊れている。


胸が冷たくなる。


けれど、立ち止まっている時間はなかった。


黒い竜は外へ出る。


翼を広げる。


このまま、独りで行ってしまう。


そう思った瞬間、クロの足が動いた。




クレアは床に尻餅をついていた。


立たなければと思った。


けれど、膝が動かなかった。


黒い竜が暴れている。


尾が囲いを薙ぎ、鎖が弾け、太い柱が折れる。音が大きすぎて、どこから何が壊れているのか分からない。


怖い。


息が浅くなる。


指先が震える。


黒い竜は、恐怖そのものだった。


竜の力。


竜の怒り。


人間など、触れただけで壊れてしまうものだと突きつけてくる大きさ。


クレアは、動けなかった。


その時、クロが走った。


逃げる方ではない。


黒い竜の方へ。


クレアの喉が、勝手に動いた。


「クロ!!! あぶない!!!」




クロは止まらなかった。


クレアの声は聞こえた。


レイヴンの声も聞こえた。


竜舎番の怒鳴り声も、他の見習いたちの悲鳴も、折れた木材の音も、鎖が石床を打つ音も、全部聞こえていた。


けれど、足は止まらなかった。


考える時間はなかった。


どうすれば止められるのか。


何を言えば届くのか。


そんなことは分からない。


ただ、独りにさせたくなかった。


だから、走った。


黒い竜が外へ抜ける。


折れた柱の影が落ちる。


跳ねた鎖が、石床を打つ。


クロはそれを見た。


次に鎖がどちらへ跳ねるか。


黒い竜の首がどこを通るか。


翼が開ききる前の一瞬。


まだ届く。


届かなければならない。


クロは折れた柱の端を蹴った。


足裏に硬い木の感触。


身体が浮く。


跳ねた鎖が足元をかすめる。


クロは避けなかった。


踏んだ。


冷たい鉄が足裏に当たり、鎖が沈む。その反動で、身体が前へ飛んだ。


黒い竜の首が、目の前を通る。


黒い鱗。


熱い息。


揺れる鎖。


鞍はない。


手綱もない。


掴める場所なんて、ほとんどなかった。


それでも、クロは両腕を伸ばした。


黒い竜の首に、しがみつく。


腕が滑る。


鱗が硬い。


爪先が空を掻く。


それでも、離さない。


クロは歯を食いしばり、両腕に力を込めた。黒い鱗に爪を立てるようにして、必死に首へしがみつく。


黒い竜の身体が大きく揺れた。


クロの肩が引き剥がされそうになる。


息が止まる。


それでも、クロは離さなかった。




触れた瞬間、流れ込んできた。


声ではなかった。


言葉でもなかった。


怒りも、哀しみも、後悔も、拒絶も、もう分けられなかった。


壊れたものが、ぐちゃぐちゃのまま、クロの胸と喉と頭の奥へ押し込まれる。


熱い。


重い。


痛い。


苦しい。


耳の奥で、竜の咆哮とは別の音が鳴る。


喉が詰まる。


目の奥が焼ける。


胸が、内側から押し潰されそうになる。


クロは声を出せなかった。


名前も呼べない。


止まって、とも言えない。


ただ、離せなかった。


ぽたり、と何かが落ちた。


涙だと思った。


違った。


鼻血だった。


赤い雫が、黒い鱗の上に落ちる。


すぐに風で伸び、細く流れた。


クロは、それを見ている余裕もなかった。


腕が痛い。


指が痺れる。


黒い竜の首が大きく振られるたび、身体が剥がされそうになる。


それでも、離さなかった。


独りにさせたくなかった。


それだけだった。




黒い竜が、翼を広げた。


折れた柱の向こうから差し込む光が、黒い翼の縁を照らす。


竜舎の外の空気が、一気に流れ込んだ。


藁が舞う。


埃が巻き上がる。


水桶が転がる。


クレアの金色の髪が、吹き返した風で乱れた。


黒い竜は、首にしがみついたクロを振り落とさないまま、前脚で地面を掻いた。


石が砕ける。


翼が下りる。


風が、竜舎の中を叩いた。


クロの腕がきしむ。


鼻血が、また一滴落ちる。


それでも、クロは離さなかった。


黒い竜が、咆哮した。


竜舎が震えた。


レイヴンの声も、竜舎番の声も、見習いたちの悲鳴も、その咆哮に飲まれて消えた。


次の瞬間、黒い竜は飛び立った。


折れた柱の向こうへ。


竜舎の外へ。


空へ。


クレアは床に座り込んだまま、動けなかった。


さっきまでクロがいた場所には、もう誰もいない。


黒い竜の翼が、空を打つ。


その首に、小さな黒い影がしがみついている。


声は、もう出なかった。


クレアは、ただ見上げていた。









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