一章 第19話 「私は誇らしかった」
私は誇らしかった。
背に、あの男の重さがあることが。
鞍が沈む。革が鳴る。手綱が張る。膝の力が、ほんの少しだけ変わる。
それだけで、次にどちらへ飛べばいいのか分かった。
強く引かれる必要はなかった。
叫ばれる必要もなかった。
あの男は、余計に手綱を引かない男だった。
私が首を低くする前に、膝の力を少し入れる。私が尾を沈める前に、身体の重さをこちらへ預ける。追い風の日は、飛び出す前にほんの少しだけ呼吸を遅らせる。
そのわずかな重さで、私は次の空を知った。
私は速い竜ではなかった。
速さだけなら、私より速い竜はいくらでもいた。
けれど、私は押し返せた。
向かってくる風も、身体を流そうとする雨も、横から叩く突風も、首を低くして、翼を張って、尾で均衡を取りながら押し返せた。
あの男は、それを知っていた。
だから、私は誇らしかった。
強い竜であることが。
あの男を背に乗せて飛ぶことが。
空の中で、あの男が私を分かっていることが。
前の乗り手が私をどう呼んでいたのかは、覚えている。
アラフェル。
私は、その名が嫌いだった。
その音が私の耳に触れるたび、鱗の下がざらついた。呼ばれているのに、呼ばれていない。こちらを向けと言われているのに、私ではないものを見られている気がした。
あの男も、最初だけはそう呼んだ。
私は怒った。
尾で床を打ち、首を振り、鼻先にしわを寄せて睨んだ。金具が鳴った。竜舎番が慌てた。あの男は、慌てなかった。
ただ、こちらを見ていた。
次から、あの男はその名を呼ばなくなった。
あいつ。
こいつ。
お前。
それだけだった。
それで十分だった。
私は振り向いた。
その呼び方には、記録の匂いがしなかった。人間が勝手に決めた枠の匂いがしなかった。
あの男の声だった。
それだけでよかった。
冬の村で、小さな黒猫が私を見上げていた。
血の匂いがあった。雪の上に踏み荒らされた跡があった。魔狼の死骸があり、人間たちの息が細く震えていた。
その中で、小さな黒猫は私を見ていた。
怖がっていなかったわけではない。
だが、目を逸らさなかった。
強いから。
そう言った。
私は首を上げた。
当然だと思った。
私は強い。
そう言われるだけのことをしてきた。
けれど、悪い気はしなかった。
あの男は、少し面倒そうに手綱を引いた。強くは引かなかった。だから私は、少しだけ余計に首を高くした。
あの黒猫の目を、私は覚えている。
私を見ていた。
ただ大きな竜を見ていたのではない。
鱗の奥、翼の張り、爪の置き方、喉の奥の音。
そういうものを、じっと見ていた。
変な子供だった。
だが、不快ではなかった。
私は誇らしかった。
強いと言われることが。
あの男と飛ぶことが。
人間たちの上を越え、森を越え、雨を抜け、誰かの悲鳴が届く前にそこへ行けることが。
間に合えることが。
私は、そういう竜だった。
森では、風が重かった。
木々の上へ出ればいい。
そう思った。
いつものように押し返せると思った。
だが、あれは私の知る空ではなかった。
私の知る森でもなかった。
私の知る竜でもなかった。
湿った葉の匂い。
沈む土。
背にあるあの男の重さ。
手綱の張り。
そのすべてが、いつもと違っていた。
何かが来た。
私は翼を返そうとした。
首を下げた。
尾を沈めた。
あの男の重さがずれた。
手綱が切れた。
私は振り返ろうとした。
牙を向けようとした。
爪を伸ばそうとした。
翼を折ってでも、あの男の前に出ようとした。
間に合わなかった。
血の匂いがした。
土の匂いがした。
あの男の声がした。
私は強かった。
そう言われるだけのことをしてきた。
それなのに、守れなかった。
あの男の足を。
あの男の空を。
私の背にあった重さを。
守れなかった。
あの男は、私を責めなかった。
それが分かったから、余計に苦しかった。
責めればよかった。
牙を剥いても、爪を立てても、喉を鳴らしても、あの男が私を責めるなら、私はそれを受け入れればよかった。
だが、あの男は責めなかった。
その目で私を見なかった。
そして私は竜舎の奥へ沈んだ。
目を閉じた。
尾を動かし、爪を鳴らし、近づく者を遠ざけた。
危険な竜でいればよかった。
誰も近づかなければよかった。
誰も私の背を見なければよかった。
誰も、私に飛べと言わなければよかった。
飛べないなら、まだよかった。
翼が折れていれば。
爪が砕けていれば。
尾が動かなければ。
誰も、私を空へ戻そうとはしなかった。
けれど、私はまだ飛べた。
翼は残っていた。
爪も、尾も、首も、あの日より重くはなったが、失われてはいなかった。
飛ぼうと思えば、飛べる。
それが嫌だった。
私が飛べるということは、誰かが私に乗れるということだ。
誰かが私に乗れるということは、あの男ではない誰かを背に乗せる日が来るということだ。
それを認めたくなかった。
だから、遠ざけた。
牙を見せた。
唸った。
床を抉った。
誰も乗せなければ、まだ終わっていないと思えた。
誰も私の背に手をかけなければ、あの男の重さだけを覚えていられた。
私は、そうして竜舎の奥にいた。
石床に、硬い音が落ちた。
一歩。
もう一歩。
私は目を開けなかった。
開けなくても分かる。
あの男だった。
昔とは違う音だった。
片方だけ、少し硬い。
石に当たるたび、短く響く。
それでも、あの男だった。
革の匂い。
土の匂い。
呼吸。
近い。
久しぶりに、近かった。
背にはいない。
鞍の上にはいない。
手綱の先にもいない。
それでも、近かった。
私は目を閉じたまま、息を殺した。
あの男は、私の前で止まった。
いつからか引かれた、白い線の向こう。
石床の爪痕の向こう。
近くて、遠い場所。
声がした。
思っていたより、静かな声だった。
「お前は悪くない」
やめろ。
それ以上は、聞きたくない。
やめろ。
悪くないと言うな。
私は守れなかった。
私は間に合わなかった。
お前の足を。
お前の空を。
私の背から失わせたものを。
悪くないと言うな。
その事実まで、私から奪うな。
私は目を開けなかった。
開ければ、あの男がいる。
見れば、分かってしまう。
もう、あの男は私の背に戻らない。
分かっていた。
ずっと前から分かっていた。
だから、見なかった。
だから、遠ざけた。
だから、眠ったふりをした。
だから、誰も近づけなかった。
「もう、前を向いて飛べ」
その言葉だけは、聞きたくなかった。
私が避けていた言葉だった。
目を閉じて、牙を見せて、竜舎の奥へ沈めてきたものだった。
前を向け。
飛べ。
その言葉の先に、あの男はいなかった。
あの男の重さはなかった。
膝の力も、手綱の張りも、飛び出す前の呼吸もなかった。
私の背にあるはずのものが、どこにもなかった。
その言葉で、私の中の何かが壊れた。




