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一章 第18話 「お前」

訓練は予定通りに終わった。


見習いたちは息を切らし、土のついた膝を払いながら訓練場を出ていく。誰かが肩を回し、誰かが靴の裏についた泥を落とし、誰かが低い声で今日の失敗をぼやいていた。


俺は記録板に短く印をつける。


いつも通りだった。


声も、手順も、足音も。


「明日も同じだ。足を固めるな。落ちるな。下りろ。以上」


見習いたちの返事が揃う。


その中に、少し遅れて混じる小さな声があった。


「はい」


クロ・レインフォート。


小柄な黒猫は、列の中で背筋を伸ばしていた。耳は少し伏せている。けれど、目は逸らしていない。


俺は記録板へ視線を戻す。


印を一つつける。


次の行へ移る。


そこで、指が止まった。


大事だったので。


ほんの少し前に聞いた声が、妙に残っている。


余計なことはよく覚えているな、と言った。


実際、そう思った。


だが、あれは本当に余計なことだったのかと問われると、答えはすぐに出ない。


変だと思ったら、また教えてくれ。


そう言ったのは、俺だ。


あの黒猫は、一度見ている。


桜色の竜の、小さな異変を。


大人が見落としかけたものを、子供の目が拾った。あの時、あの目はただ珍しいものを追っていたわけではなかった。竜の動き、息、首の角度、わずかな間。それらの中から、流してはいけないものを拾っていた。


だから、言った。


変だと思ったら、また教えてくれ、と。


その言葉を、黒猫は覚えていた。


俺は記録板を閉じた。


木と革の乾いた音が、手の中で短く鳴る。


訓練場には、見習いたちの足跡が残っていた。走った跡。着地した跡。膝をついた跡。土の上に、同じようで少しずつ違う乱れが残っている。


その中に、自分の足跡もあった。


硬い方の足が、土に残した跡。


今朝、一拍だけ浅くなった音。


黒猫はそれを見た。


そして、あいつも。




冬の村で、小さな黒猫はあいつを見上げていた。


魔狼の血の匂いがまだ残っていた。雪は踏み荒らされ、村の者たちは息を詰めていた。そんな中で、黒猫はあいつを見ていた。


怖がっていないわけではなかっただろう。


それでも、目を逸らしていなかった。


強いから。


そう言われたあいつは、あからさまに首を高くした。


面倒なやつだと思った。


ああいう褒められ方をすると、すぐ調子に乗る。鼻先が少し上がり、翼の付け根に余計な力が入る。こちらが手綱を軽く引いても、知らないふりをする。


だが、止める気にはならなかった。


あいつは、褒められるのが嫌いではなかった。


ただし、相手を選んだ。


媚びた声には尾の先も動かさない。分かったふりをした言葉には、目を細めるだけだった。けれど、あの黒猫の一言には、得意げになった。


強いから。


そう言われるだけのことを、あいつはしてきた。


速さで勝つ竜ではなかった。


正面から押す竜だった。


追い風でも嫌がらず、飛び出す前には首を低くする。着地の前には尾を一度沈める。鞍の締め方が雑だと、飛ぶ前から不機嫌になった。


面倒な竜だった。


だから、よく分かった。


機嫌のいい時も、腹を立てている時も、退屈している時も、飛びたがっている時も。




前任の竜騎士は、あいつをアラフェルと呼んでいた。


そう記録にも残っていた。引き継ぎの書類にも、竜舎番の台帳にも、その名があった。


俺も、最初だけはそう呼んだ。


呼んだ瞬間、あいつは本気で怒った。


尾が床を打ち、首を振るたびに金具が鳴った。鼻先にしわを寄せ、こちらを睨む。竜舎番が慌てて止めに入ろうとしたが、俺は手で制した。


名が嫌なのか。


そう聞いても、答えはない。


けれど、答えは分かった。


それ以来、その名は呼ばなかった。


あいつ。


こいつ。


お前。


それで十分だった。


黒い竜も、それで振り向いた。


記録上の名はある。呼び継がれた名もある。だが、嫌がる名をわざわざ呼ぶ理由はなかった。


あいつは面倒だった。


誇り高かった。


気に入らないことには、容赦なく怒った。


それでよかった。


俺は、その面倒さを嫌いではなかった。




ノクスヴァルトの森は、湿っていた。


土の匂いが濃く、葉の裏まで暗かった。


竜と呼ぶしかないものがいた。


少なくとも、俺の知る竜ではなかった。


黒い翼が視界を塞いだ。


土と血の匂い。


切れた手綱。


叫んだ声。


そこから先は、今も綺麗には並ばない。


覚えているものはある。覚えていないものもある。どちらなのか分からないものもある。


硬い衝撃。


熱。


すぐに冷えていく感覚。


あいつの喉の奥から漏れた、聞いたことのない音。


自分の足がどうなったのかを理解するより先に、あいつの目を見た気がする。


それが本当に見たものだったのか、後から作った記憶なのか、今でも分からない。


ただ、あの時から、あいつは飛ばなくなった。


誰も乗せなくなった。


俺も、乗れなくなった。




あいつが悪いわけではない。


あの森で、何が正しくて、何が間違っていたのか。今でも言葉にはできない。だが少なくとも、あいつだけを責める理由はどこにもなかった。


朝、台から下りた時、一拍だけ音が浅くなった。


それを黒猫が見た。


あいつも見た。


見られたことが痛いのではない。


見られたことで、あいつがまだそこに縛られていると分かったことが痛かった。


俺は記録板を脇に抱え、訓練場を出た。


理由ならあった。


床の損傷。


竜舎番への確認。


見習いたちの安全。


理由なら、あった。


石畳へ出ると、硬い方の足音が短く返ってくる。


その音を聞くたびに、黒い竜が竜舎の奥で沈んでいく。そんなことを思いたくはなかった。思いたくはないのに、今朝の低い唸りが耳に残っている。


あいつはまだ飛べる。


戻れないのは、俺の方だった。


その事実だけが、いつまでも石のように足元に残っている。


竜舎の扉が近づく。


湿った藁の匂い。


革油の匂い。


古い水の匂い。


竜の息。


どれも、昔から知っている匂いだった。




竜舎番は、俺を見ても何も言わなかった。


ただ、奥の通路へ視線を向ける。


その先に何があるのか、言われなくても分かっていた。


足を進める。


石床に、義足の音が落ちる。


一歩。


もう一歩。


竜たちの気配がある。寝ているもの、こちらを見るもの、翼を畳み直すもの。いつもの竜舎だった。


それでも、奥へ行くほど空気は重くなる。


白い線が見えた。


その向こうに、朝の爪痕が残っている。


深い跡だった。


鋭い鉤爪が、石を抉った跡。


あいつは伏せていた。


大きな身体を低く沈め、目を閉じている。


眠っているように見えた。


だが、眠っているはずがないことを、知っている。


足を止めた。


呼ぶ名はなかった。


アラフェルではない。


あいつ。


こいつ。


お前。


それで十分だった。


昔は、それで振り向いた。


今は、振り向かない。


白い線の手前に立つ。


線の向こうにいる黒い竜は、動かない。まぶたも上げない。喉も鳴らさない。


それでも、聞いている。


そういう竜だ。


気がつけば、アイツの前に立っていた。


声は、思ったより静かに出た。


「お前は悪くない」


黒い竜は動かない。


「もう、前を向いて飛べ」

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