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一章 第17話 「流れてきたもの」

竜舎には、外の訓練場の音が届いていた。


湿った藁を掃く音に混じって、遠くから土を蹴る足音が聞こえる。長く続く足音だった。誰かが荒く息を吐き、木の台が軋み、そのあとに着地の鈍い音が落ちる。


クロは黒い竜の区画に近い通路で、箒を動かしていた。


白い線は、すぐそこにある。


線の向こうで、黒い竜は伏せていた。大きな身体を低く沈め、目を閉じている。眠っているようにも見える。けれど、外の音が響くたび、竜舎の奥の空気がほんの少しだけ重くなる気がした。


クロは箒を動かす。


藁が、石床を擦る。


「膝を固めるな。落ちるんじゃない。下りろ」


外から、レイヴンの声が届いた。


低くて、眠そうで、それでもよく通る声だった。


木の台が軋む。


誰かが飛び降りる。


着地の音。


また走る足音。


今日は、クロたちとは別の組が先に基礎訓練を受けているらしい。長く走った後に、高い場所から安全に飛び降りる訓練なのだと、音だけでも何となく分かった。


竜の背に乗るなら、高い場所に慣れなければならない。


落ちた時に壊れない動きも、覚えなければならない。


クロは箒を持ち替えた。


外の音を聞きながら、白い線の手前に散った藁を集める。


クレアは少し離れた場所で、水桶の周りを拭いていた。黒い竜の区画に近いせいか、いつもより背筋が硬い。それでも、手は止めていない。


また、木の台が鳴った。


今度は見習いの着地ではなかった。


竜舎の入口の向こうに、レイヴンの姿が少しだけ見えた。横顔と肩、それから足元。記録板を片手に持ち、低い訓練台へ上がる。


「見ろ。膝で受けるな。足だけで止めるな」


レイヴンは台の端に立った。


それから、軽く降りる。


膝を抜き、肩を逃がし、足裏で衝撃を殺す。


動きは滑らかだった。


けれど最後に、硬い方の足音が一拍だけ浅くなった。


本当に、ほんの少しだった。


レイヴンは倒れていない。


膝をついたわけでもない。


顔色を変えたわけでもない。


ただ、記録板を持つ指に、わずかに力が入った。


それだけだった。




その一拍が、竜舎の奥へ届いた。




そう思った瞬間、クロの胸に何かが流れ込んできた。


息が、うまく吸えない。


外の足音が遠くなる。


竜舎番の声も、藁を掃く音も、水桶の揺れる音も、少し遅れて聞こえた。


熱い。


重い。


それなのに、冷たい。


喉の奥が狭くなり、耳の奥まで熱が広がる。箒を握る指に力が入り、細い柄が小さく軋んだ。


怒り。


後悔。


哀しみ。


もっと重い、何か。


名前をつけるなら、たぶんそういうものだった。


けれど、一つずつではなかった。


ほどけないまま絡まり合い、胸の奥でぶつかっている。


声ではない。


言葉でもない。


まだ、形になっていない。


それなのに、痛みだけは確かに届いた。




低い唸りが、竜舎の奥から落ちた。




黒い竜の鋭い鉤爪が、石床を抉る。


藁が跳ねた。


乾いた音が、梁の下で短く響く。


近くの区画で翼を畳んでいた竜が、動きを止めた。竜舎番の声も、一瞬だけ途切れる。


黒い竜は立ち上がっていない。


伏せたままだ。


けれど、首だけをわずかに上げていた。喉の奥を低く鳴らし、閉じていたはずの目を開いている。


琥珀色の瞳が、竜舎の入口の向こうを見ていた。


レイヴンのいる方を。


クロは白い線の手前で動けなかった。


足は出していない。


声もかけていない。


何にも触れていない。


それでも、胸の奥で暴れているものは消えなかった。


かけしっぽを見ていた時にも、似たものを感じたことがある。


けれど、これは違う。


小さな影の震えではなかった。


竜の奥から来る、大きすぎるものだった。




「クロ」


クレアの声がした。


いつもより低い声だった。


クロは返事をしようとした。けれど、喉がうまく動かなかった。


クレアが近づく気配がする。


黒い竜の鉤爪が抉った石床を見て、クレアの足は一度止まった。


それでも、もう一歩近づく。


クレアの指先が、クロの頬にそっと触れた。


「……あなた、泣いていますわ」


クロは瞬きをした。


「泣いて……?」


そこで初めて、自分の頬が濡れていることに気づいた。


泣いているつもりはなかった。


悲しいと思ったわけでもない。


ただ、胸の奥で暴れているものが、喉を詰まらせ、目の奥まで押し上げていた。


涙だけが、先に落ちていた。


クレアの手は優しかった。


でも、震えていた。


クロはその震えを見た。


怖いのだと思った。


黒い竜が怖い。


抉られた石床も、低い唸りの名残も、怖い。


それでも、クレアは手を引かなかった。


クロは自分の頬に触れている指先を見たまま、もう一度、黒い竜の方へ視線を戻す。


黒い竜はまだ入口の向こうを見ていた。


レイヴンの声が、外からまた聞こえる。


「次。足を止めるな」


いつもの声だった。


何もなかったような声だった。


けれど、クロの胸の奥には、まだ熱くて重いものが残っていた。




そのあとの仕事を、クロはあまりよく覚えていなかった。


手は動かした。


藁を集め、水桶をどけ、濡れた床を拭いた。


けれど、指先の奥にまだ震えが残っていた。自分の震えなのか、黒い竜のものなのか、分からなかった。


涙は止まっていた。


頬も乾いている。


けれど、クレアが触れた場所だけが、少しだけはっきり残っていた。


クレアは何度かクロを見た。


何か言いたそうにして、そのたびに口を閉じる。布巾を絞る手が少し強くなり、水桶を置く音が、いつもより小さかった。


黒い竜は、それから動かなかった。


目を閉じ、伏せている。


ただ、石床には鉤爪の跡が残っていた。


白い線の向こう。


深く抉られた跡。


クロはそれを見た。


見なかったことには、できなかった。




午後、クロたちの組も訓練場に呼ばれた。


朝、竜舎の中から聞いていたのと同じ台が、広場の端に置かれている。土には、午前の組が残した着地の跡がいくつもあった。


走り終えた見習いたちの息が乱れる。誰かが膝に手をつき、誰かが肩で息をしている。レイヴンは記録板を片手に、その横に立っていた。


硬い方の足音が、土の上で短く沈む。


クロは、その音を聞いた。


胸の奥に、朝の熱が戻る。


怒り。


後悔。


哀しみ。


もっと重い、何か。


声にならなかったもの。


涙になって落ちたもの。


クロは唇を結んだ。


今は触るな。


レイヴンの声が、胸の中で低く響く。


お前も、変だと思ったらまた教えてくれ。


冬のジェミノ村で聞いた声も、同じ人のものだった。


どちらも、間違っていない。


だから、足が重くなる。


レイヴンは見習いたちに短く指示を出していた。午前と同じ訓練だ。走った後、台から下りる。落ちるのではなく、下りる。身体を固めず、衝撃を逃がす。


説明は耳に入っている。


けれど、クロの目は、レイヴンの足元へ行きそうになる。


見てはいけない。


訓練中に、そこばかり見ていてはいけない。


そう分かっているのに、朝の一拍だけ浅い足音が、耳の奥に残っていた。


隣で、クレアが何も言わずに立っている。


少しだけ近い。


近すぎない。


けれど、ひとりにはしない距離だった。


クロは一度、息を吸った。


それでも、すぐには声が出なかった。


クレアが横目でクロを見る。


何かを促すわけではない。


止めるわけでもない。


ただ、そこにいた。


クロは指先を握った。


「教官」


レイヴンがこちらを見る。


「何だ」


声はいつも通りだった。


クロは一瞬、喉につかえたものを飲み込む。


「今朝、黒い竜が……変でした」


空気が、少しだけ硬くなる。


レイヴンの目が細くなった。


「何がだ」


クロは記録板ではなく、レイヴンの顔を見るようにした。


「外の訓練で、教官が着地した時です」


レイヴンは何も言わない。


クロは続けた。


「少しだけ、足が……いつもと違いました」


「気のせいだ」


返事は早かった。


硬く、短い。


クロの耳が少し伏せる。


けれど、朝の熱はまだ胸に残っていた。


「気のせいじゃ、ないと思います」


レイヴンの指が、記録板の端を押さえる。


「今は触るなと言ったはずだ」


「はい。覚えています」


クロは頷いた。


怖いとは思わなかった。


けれど、胸の奥がまた狭くなる。


「でも、前に教官に言われました」


レイヴンの目が止まる。


クロは言葉を探した。


完璧な言い方は、見つからなかった。


それでも、言った。


「変だと思ったら、また教えてくれって」


訓練場の音が少し遠くなった。


誰かが息を整える音。


土の上を風が撫でる音。


レイヴンはすぐには返さなかった。


記録板を押さえる指が、少しだけ白くなる。


「……覚えていたのか」


「はい」


「余計なことは、よく覚えているな」


「大事だったので」


レイヴンの顔は変わらなかった。


眠そうな目も、口元も、いつもとほとんど同じだった。


けれど、硬い方の足が、土の上でほんの少しだけ沈んだ。


「それでも、今は触るな」


「はい」


クロはもう一度、頷いた。


レイヴンは視線を外しかけて、止める。


それから、低く言った。


「……だが、聞いた」


クロは息を止めた。


短い言葉だった。


許されたわけではない。


近づいていいと言われたわけでもない。


それでも、聞かなかったことにはされなかった。


「はい」


クロは小さく返事をした。


レイヴンは記録板へ視線を戻す。


「列に戻れ。次、レインフォート」


「はい」


クロは列へ戻った。


クレアが、ほんの少しだけこちらを見た。


何も言わない。


けれど、その指先は、自分の手袋ではなく、袖の端を軽く押さえていた。


訓練場の向こうに、竜舎の屋根が見える。


その奥に、黒い竜がいる。


クロはまだ、朝に流れ込んできたものに名前をつけられなかった。


けれど、なかったことにはできなかった。


胸の奥には、まだ熱が残っていた。

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