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一章 第16話 「空の見え方」

翌朝、竜舎へ向かう途中で、クロは空を見上げた。


王都の朝はまだ少し冷たく、石畳には夜の湿り気が残っている。通りの端を荷車がゆっくり進み、竜舎の方からは低い竜の声と、水桶を運ぶ音がかすかに届いていた。


その空を、一騎の竜が渡っていく。


翼が大きく傾き、朝の光を受けて腹側が一瞬だけ明るくなった。騎手の影は小さい。けれど、竜と人が同じ向きへ進んでいることだけは、遠くからでも分かった。


クロは歩きながら、それを目で追った。


「……聞いていますの?」


隣から声がした。


クロは少し遅れて、クレアを見る。


「聞いてる」


「返事が遅いですわ」


「竜が飛んでた」


「それは見れば分かります」


クレアはそう言ってから、クロの横顔を見た。


それから、ほんの少しだけ歩幅を落とす。


クロはもう一度、空を見た。


飛んでいた竜は、建物の向こうへ消えている。けれど目の奥には、まだ翼の形が残っていた。




空を飛ぶ竜を見ると、今でも最初に思い出すものがある。


白い翼。


砕けた石壁の向こうから差し込んだ光。


粉塵の中で、大きな影が動いたこと。


あの時のクロは、憧れたのかどうかも分からなかった。怖くなかったわけではない。何が起きたのか、全部分かっていたわけでもない。


ただ、目を離せなかった。


白い竜が動くたび、クロの目はそれを追った。


崩れた壁の向こうで翼が広がり、白い光が粉の中を押し分ける。その姿を見ている間だけ、壊れた音も、人の叫びも、少し遠くなった気がした。


それが何なのか、当時のクロには名前をつけられなかった。


けれど、見ていた。


ずっと、見ていた。




竜舎に着くと、朝の仕事はもう始まっていた。


竜舎番が見習いたちに指示を飛ばし、通路には水桶や布巾が並んでいる。今日のクロとクレアの仕事は、飛行後に戻された鞍具の確認と、奥の通路の掃除だった。


鞍具置き場には、昨日より少し湿った革油の匂いが強く残っていた。夜のうちに戻された鞍の一部は、まだ乾ききっていない。革帯の端には泥がつき、金具の隙間には細かな砂が入り込んでいる。


クロは布で金具の周りを拭きながら、鞍の内側を見た。


竜の背に乗せるもの。


人が空へ行くためのもの。


けれど、人だけのものではない。合わなければ竜の背を痛める。ずれれば、人も竜も危ない。


布を動かす手が、少しだけ遅くなる。


竜舎の高い窓の向こうに、細く空が見えていた。


「空を見上げる仕事は、今日の割り当てにありましたか」


クレアの声がした。


クロは手元へ視線を戻す。


「ない」


「では、手を動かしてくださいませ」


「うん」


クロは金具を拭き直した。


クレアは自分の鞍具へ視線を戻す。けれどその指は、布巾の端を一度だけ強く押さえていた。




開墾村で初めての冬を迎えた時、クロは桜色の竜を見た。


朝の光を受けて、鱗の縁に濃い赤が浮かぶ竜だった。ただ淡いだけではない。花びらのような柔らかさの奥に、血の通った赤みがある。光が当たるたび、薄紅よりも濃い色が、鱗の端にふっと見えた。


レイナが手を伸ばすより先に、ロザの方が少し顔を寄せていた。


命令でも、合図でもなかった。


ただ、そうなるのが当たり前みたいな近さだった。


クロはその時も見ていた。


白い竜を追った時とは違う。


怖さの中ではなく、朝の明るさの中で。


それでも、目は自然に追っていた。


今も、あの桜色の竜と飛んでいるのだろうか。


クロは布を動かす手を止めた。


「クレア」


「何ですの」


「レイナさんとロザは、今も飛んでるのかな」


クレアの手が止まった。


唇が少し開く。


けれど、出てきた声は思ったより低かった。


「……レイナ様とロザ様、ですわ」


クロは瞬きをする。


「レイナ様とロザ様」


「はい。そこは間違えないでくださいませ」


「うん」


クレアは布巾の端を折った。


「今も飛んでいらっしゃいます。もちろんですわ」


そう言ってから、少しだけ咳払いをする。


「少なくとも、わたくしが聞いている限りでは」


クロは頷いた。


「そっか」


「……どうして、急に」


「近かったから」


クレアの指が、布巾の端をもう一度折る。


「レイナ様と、ロザ様が?」


「うん」


クロは鞍具の金具を見たまま言った。


「手を伸ばす前に、ロザが顔を寄せてた」


「……そう、ですか」


クレアはそれだけ言って、しばらく手元の布巾を見ていた。


布巾の端が、小さく折れている。


「それは、きっと……とても、自然なことだったのでしょうね」


クロは頷いた。


「うん。自然だった」




その近さを思い出した時、クロの中にもう一つ、別の記憶が浮かんだ。


冬のジェミノ村。


魔狼の前に立っていた黒い竜。


その背にいた、眠そうな目の小隊長。


クロが「強いから」と言った時、黒い竜は少し得意げに首を上げた。大きな身体をわずかに高くして、当然だと言いたそうにしていた。


小隊長は面倒くさそうな顔をしていた。


けれど、止める気はなさそうだった。少しだけ肩を落として、困ったようにしていて、それでもほんの少し楽しそうにも見えた。


あの時、黒い竜と小隊長は近かった。


今の竜舎の奥にある距離とは、違っていた。


胸の奥が、ちくりとした。


クロは布巾を握ったまま、動きを止める。


「クロ」


クレアの声がした。


クロは瞬きをする。


「うん」


「うん、ではありませんわ。手が止まっています」


「止まってた」


「見れば分かります」


クレアは少し眉を寄せた。


怒っている顔ではなかった。


「……今日は、ずいぶん遠くを見ていますわね」


「空?」


「空だけではありません」


クロは返事を探した。


けれど、すぐには出てこなかった。


クレアは水桶のひとつを持ち上げ、クロの足元より少し手前へ置いた。


「これ、次に使うそうです」


「ありがとう」


「礼を言うほどのことではありません」


そう言って、クレアは自分の鞍具へ戻った。


でも、その立ち位置は、さっきより少しだけクロに近かった。




奥の通路の掃除に移る頃には、竜舎の中は少しずつ騒がしくなっていた。


竜が起き、翼を畳み直し、爪で石床を掻く音がする。竜舎番の声が飛び、見習いたちが水桶を運ぶ。湿った藁は箒に絡み、床に残った水の跡は白く乾き始めていた。


クロとクレアは、白い線の見える通路へ向かった。


黒い竜は、今日も奥に伏せていた。


大きな身体を低くして、目を閉じている。昨日と同じように見える。けれど、同じではないことを、クロは知っている。


言葉はまだない。


言えそうなものはある。


けれど、どれも違う。


クロは箒を握り直した。


お前も、変だと思ったらまた教えてくれ。


昔、小隊長はそう言った。


クロは、その言葉を覚えている。


見たことを言ってよかった日がある。


言ったことで、ロザは助かった。


けれど今は、違う。


今は触るな。


同じ人が、そう言った。


どちらも、たぶん間違っていない。


だから、クロは困った。


距離を取ることは、たぶん必要だ。


見たものをすぐ言葉にしないことも。


けれど、竜舎の奥で黒い竜は今日も沈んでいる。


何もいらない竜には、見えなかった。


何かを待っているのかもしれない。


そう思ってしまった。


「……このままでいいのかな」


クロは箒を動かす。


湿った藁が床を擦れる。


黒い竜は動かない。


クロも声をかけない。


けれど、今日はただ黙っているだけではなかった。


喉の奥にある言葉を、何度も確かめていた。


まだ出せない。


でも、なくなったわけではない。




近くの区画で、竜が首を上げた。


大きな息が通路に流れ、藁が少し揺れる。クレアの肩が一瞬だけ強張った。


それでも、彼女は自分で息を吸った。


一歩、足を引く。


通路を空けるための一歩。


クロは箒を止めかけた。


クレアが横目でこちらを見る。


「……また、何か言いそうでしたわね」


「言わなかった」


「そこは誇るところですの?」


「分からない」


クレアは一瞬だけ黙った。


いつものようにすぐ切り返すのではなく、クロの顔を見た。


「……そうですか」


それから、少しだけ声を落とす。


「分からないなら、今は分からないままでもよいのではなくて」


クロはクレアを見た。


クレアはすぐに視線を逸らし、布巾を持ち直した。


「もちろん、わたくしに聞かれても困りますけれど」


「うん」


「そこで素直に頷かないでくださいませ」


「困るんだと思った」


「困りますわよ」


そう言いながら、クレアはクロの隣で掃除を続けた。


離れなかった。




昼前、竜舎の外へ桶を戻しに出た時、空はよく晴れていた。


朝に飛んでいた竜は、もう見えない。


けれど、その空のどこかを、レイナとロザは今も飛んでいるのかもしれない。


昔の黒い竜と小隊長も、きっとそこを飛んでいた。


クロは桶を置き、竜舎の入口近くで立ち止まった。


空は広い。


ずっと前から、そうだった。


白い竜を追った時も。


王都へ来る道で、竜の影を見上げた時も。


竜騎士団の門の前で、翼の音を聞いた時も。


空は、いつも上にあった。


けれど今は、その上にあるものが一つではない気がした。


飛んでいる竜がいる。


飛べなくなった人がいる。


誰も乗せなくなった背がある。


何かを待っているのかもしれない竜がいる。


「クロ」


隣に、クレアが立っていた。


いつ来たのか、足音には気づかなかった。


クレアは何を見ているのかとは聞かなかった。ただ、同じ方を見た。


風が少しだけ通る。


クロの耳が揺れる。


クレアの金色の髪も、ほんの少しだけ頬にかかった。


クロは空を見た。


昨日までより、少し高く見えた。


同じ空なのに、遠い場所が増えた気がした。

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