一章 第15話 「言わない日」
翌朝、クロはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、竜舎の方から低い声が遠く響いている。昨日より冷えた空気が寝台の端に触れていて、下段の布の中で、クロの耳だけが小さく動いた。
昨日、レイヴンは少しだけ話した。
黒い竜は、レイヴンの竜だった。
今も、そうだと言った。
けれど、もう一緒には飛べないとも言った。
クロは上を見た。
二段寝台の板が、まだ夜の色を残している。上段のクレアは起きているのか、布が小さく擦れる音がした。
言いたいことは、いくつか浮かんだ。
けれど、どれもまだ形が大きすぎる気がした。声にすれば、昨日よりも深いところへ触れてしまうかもしれない。
だから、クロは黙って寝台から足を下ろした。
「……今日は、また静かですわね」
上から声が落ちてきた。
クロは顔を上げる。
「いつも静か」
「その返しは、もう聞きました」
「じゃあ、違うのにする?」
「無理に変えなくて結構です」
クレアは上段で身を起こした。朝の光がまだ弱いせいで、金色の髪もいつもより少し淡く見える。
クロが支度をしていると、クレアはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ声を落とす。
「昨日のことですか」
クロは手を止めた。
「うん」
「黒い竜の」
「うん」
クレアはそれ以上すぐには聞かなかった。
クロは靴紐を結びながら、少し考える。
「まだ、言葉にすると近い気がする」
その言葉を聞いて、クレアは小さく息を吐いた。
「あなたがそこまで言葉を選ぶ日が来るとは思いませんでしたわ」
「前は、選んでなかった?」
「ええ。かなり」
クロは靴紐を見た。
「……かなり」
「かなり、です」
クレアはそう言って、寝台から下りた。
声はいつものように少し冷たかった。けれど、それ以上聞こうとはしなかった。
その日の竜舎仕事は、奥の通路の掃除と、水桶の片づけだった。
朝の竜舎は、昨日と同じように匂いが濃い。湿った藁。古い水。革油。竜の息。見習いたちはそれぞれに道具を持ち、竜舎番の指示で動き始めた。
クロとクレアは、奥の通路を任された。
そこは、黒い竜の区画に近い。
白い線が見える。
線の向こうで、黒い竜はいつものように伏せていた。大きな身体を低く沈め、目を閉じている。眠っているようにも見える。けれど、クロにはやはり、ただ眠っているだけには見えなかった。
クロは箒を持ったまま、少しだけ足を止めた。
言えそうな言葉はいくつか浮かんだ。
けれど、どれも白い線を越える気がした。
クロは口を閉じたまま、箒を動かす。藁を集め、水が乾いて白く跡になった床を拭く。黒い竜には、何も言わない。
クレアはそれを横目で見ていた。
「今日は、本当に何も言いませんのね」
「うん」
「言いたいことは、あるのでしょう」
「ある」
「では、なぜ言わないのです」
クロは箒の柄を握り直した。
「近すぎる気がするから」
クレアは少し黙った。
竜舎の奥で、黒い竜の低い息が流れる。
「……そうですか」
それだけ言って、クレアは自分の布巾へ視線を戻した。
クロも、それ以上は言わなかった。
通路の掃除が半分ほど進んだ頃、近くの区画で別の竜が大きく身じろぎした。
尾が床を擦る。
重い音が、石と藁の上を低く響いた。
クレアの手が止まる。
ほんの一瞬だった。
けれど、クロには見えた。手袋の指先が布巾を強く握り、肩の奥が少しだけ固くなる。
それでも、クレアは自分で息を吸った。
一歩、足を引く。
逃げるためではなく、通路を空けるための一歩だった。
クロはそれを見た。
言わなかった。
クレアがちらりとこちらを見る。
「……何ですの」
「何も」
「今、何か言いそうでしたわ」
「言わない日だから」
「そういう日を勝手に作らないでくださいませ」
クレアは低く言って、布巾を持ち直した。
その横顔は少しだけ硬い。けれど、さっきより呼吸は整っていた。
クロはまた箒を動かす。
湿った藁が、床の上を小さく擦れた。
水桶を片づける頃には、朝の冷えは少しだけ薄れていた。
竜たちが起き始め、通路のあちこちで翼を畳む音や、爪が床を掻く音がする。竜舎番の声も飛び、見習いたちは桶や布巾を持って動き回っていた。
クロは空の桶を抱え、白い線の前を通る。
黒い竜は目を閉じていた。
クロは足を止めなかった。
声もかけなかった。
ただ、通り過ぎる時、藁の上で尾の先がほんの少しだけ動いた。
風で揺れたのかと思うくらい、小さな動きだった。
クロはそれを見た。
けれど、何も言わなかった。
桶を持つ腕に少しだけ力を入れ、そのまま通路を進む。
背後で、黒い竜の息が低く流れていた。
夕食は、豆と芋の入った薄いスープだった。
竜舎仕事の後だからか、湯気だけで少し肩の力が抜ける。クロは匙で一口すくい、ふう、と息を吹いてから口に入れた。
「……今日の塩、座ってる」
向かいに座っていたクレアの手が止まった。
「塩が?」
「うん。昨日のは少し前に出てた。でも、今日は座ってる」
「塩に姿勢を与えないでくださいませ」
「芋の横にいる」
「位置までありますの」
クロは真面目に頷いた。
「豆は少し眠い」
「豆まで」
クレアは低く言って、自分の椀を見た。
少し迷ってから、匙でスープをすくい、口に入れる。
沈黙。
「……分からなくはないのが、少し腹立たしいですわ」
「塩?」
「全体の話です」
「豆、眠い?」
「それは分かりません」
クロは豆を見た。
クレアも豆を見た。
それから、目が合った。
ほんの少しだけ、クロの口元が緩んだ。
同じくらい小さく、クレアの肩も揺れた。
「……こほん」
次の瞬間、クレアは何事もなかったように匙を持ち直した。
「今のは笑っていません」
「笑ってた」
「スープが熱かっただけです」
「もう冷めてる」
「食べますわよ」
クレアはそう言って、もう一口スープを飲んだ。
クロも匙を持ち直す。
豆は、やっぱり少し眠い。
でも、悪くなかった。
寝台に入ってから、クロはふと思い出した。
今日の塩は座っていた。
それを言った時の、クレアの顔。
下段で少しだけ耳が揺れる。
「……何か思い出し笑いをしていません?」
上から声が落ちてきた。
「してない」
「していましたわ」
「クレアもしてた」
「していません」
少しの沈黙。
上段で、布が小さく擦れた。
「……寝なさい」
「うん」
クロは目を閉じた。
今日も、黒い竜には何も言わなかった。
それでも、胸の奥は昨日より少しだけ軽かった。




