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一章 第14話 「少しだけ」

翌日になっても、クロは黒い竜のことを考えていた。


竜舎の奥にいる、黒よりも黒い竜。


昨日は、白い線の手前で止まった。声はかけなかった。見続けもしなかった。


けれど、気にならなくなったわけではない。


あの竜は、なぜレイヴンを見ていたのか。


レイヴンは、なぜ見なかったのか。


冬のジェミノ村で見た時、黒い竜と眠そうな小隊長は、もっと近くにいた気がする。少なくとも、今のような距離ではなかった。


聞きたいことはある。


けれど、クロはそれを喉の奥に留めていた。


今は触るな。


レイヴンの声を思い出すと、言葉が少し重くなる。足で近づかなくても、声だけで触れてしまうことがある。それを、昨日少しだけ知った。


「また考えごとですの」


上段から声が落ちてきた。


クロは寝台の端に座ったまま、顔を上げる。


「うん」


「黒い竜のことですか」


クロは少しだけ迷って、頷いた。


「でも、聞かない」


クレアは寝台の上で半身を起こし、しばらくクロを見た。朝の光に金色の髪が少しだけ乱れている。いつもならすぐ整えていたはずなのに、今はそれよりクロの顔を見ていた。


「……覚えがよろしいことで」


「うん」


「褒めていません」


「でも、悪くない?」


クレアは小さく息を吐いた。


「悪くはありませんわ」


それだけ言って、ようやく髪へ手を伸ばした。


クロは少しだけ耳を動かし、床に足を下ろした。




その日の竜舎仕事は、鞍具置き場の整理だった。


竜舎番に指示された見習いたちは、棚から棚へ革帯や金具のついた道具を移し、古い油を拭き取り、傷みがないかを確かめていく。


鞍具置き場は、竜舎の中でも少し匂いが違った。藁や泥より、革油の匂いが強い。壁際の棚には、竜の体格や癖に合わせた鞍や革帯が並んでいる。


「同じ竜なんていねえからな。合わねえ鞍は、背を痛める」


そう言われて、クロは鞍の内側を見た。


竜の背に乗せるもの。


人が空へ行くためのもの。


けれど、それは人だけの道具ではなかった。竜の身体に触れ、重さを預け、空で互いを繋ぐものだ。


棚の奥には、今使われているものより少し古い鞍具もあった。革は年を経て濃い色になり、金具にも小さな傷がある。けれど、荒れてはいない。埃も薄く、革油の匂いもした。


使われていないのに、誰かが手入れしている。


クロは指を伸ばしかけ、途中で止めた。


触っていいものか分からなかった。


「それ、動かさなくていいそうですわ」


隣でクレアが言った。


クロは手を下ろす。


「うん」


「見ていましたわね」


「見ただけ」


「最近、それを少し信用できるようになりました」


クロがクレアを見ると、クレアはすぐに視線を棚へ戻した。


「少しだけです」


「うん」


「そこで満足げな顔をしないでくださいませ」


「満足?」


「していないなら結構です」


クレアは古い革帯を布で拭き始めた。嫌そうな顔はしているのに、手つきは丁寧だった。


そういうところは、クレアらしい。


作業の途中、竜舎の奥から低い息遣いが聞こえた。


黒い竜のいる方。


クロの耳が、わずかに動く。


見たい。


でも、見続けない。


クロは布を持ち直し、目の前の鞍具へ視線を戻した。




作業が終わる頃には、見習いたちの腕には革油の匂いが染みついていた。


竜舎番に道具を返し、棚の位置を確認していく。クレアは少し離れた場所で、水桶の数を確認するよう言われていた。クロは空になった布の籠を持ち、竜舎の入口近くへ戻る。


そこに、レイヴンがいた。


記録板を片手に持っている。けれど、今日は何も書いていない。眠そうな目はいつもと変わらないのに、その立ち方だけが少し静かだった。


竜舎の奥から、竜の息が届いている。


黒い竜の区画までは距離がある。それでも、そこにいることは分かった。


レイヴンは奥を見ていなかった。


「レインフォート」


「はい」


クロは背筋を伸ばした。


レイヴンはしばらく黙っていた。硬い方の足が、石の床に短い音を立てる。


「聞かないのか」


クロは一瞬、何を、と聞き返しそうになった。


けれど、すぐに分かった。


黒い竜のことだ。


レイヴンのことだ。


昨日、触るなと言われた場所のことだ。


クロは籠を持つ手に少しだけ力を入れた。


「はい。教官に、今は触るなって言われました」


レイヴンの目が、ほんの少しだけ動いた。


「……覚えていたか」


「はい」


クロは頷いた。


レイヴンは記録板を持つ手を下ろした。


「なら、少しだけだ」


その声は低かった。


けれど、昨日のように突き放す声ではなかった。




レイヴンは、すぐには話し始めなかった。


竜舎の入口には冷えた空気が残っている。外の光が石の床に差し込み、その端で細い埃が揺れていた。


奥には、黒い竜がいる。


クロはそちらを見そうになり、やめた。


レイヴンも見ていない。


「……あいつは、俺の竜だった」


短い言葉だった。


クロは少しだけ目を上げた。


冬のジェミノ村で見た黒い竜。その背にいた、眠そうな目の小隊長。


あれは、そういう関係だったのだと、クロは思った。


けれど、一つだけ引っかかった。


「だった、ですか」


言ってから、少しだけ耳が伏せた。


近づきすぎただろうか。


でも、レイヴンは怒らなかった。


ただ、すぐには答えない。


硬い方の足が、石の床を短く鳴らす。


少し間を置いて、レイヴンは言った。


「……今もだ」


低い声だった。


「ただ、もう一緒には飛べん」


言い終えたあと、レイヴンの指が記録板の縁を押さえた。


強くはない。


けれど、指の腹がわずかに白くなるくらいには。


クロはレイヴンの足を見た。


硬い音を立てる足。


人の足とは違う動きをする足。


けれど、見続けなかった。


すぐに顔を上げる。


レイヴンの目は、入口の石床のあたりに落ちていた。


「昔は飛んでいた。よく飛んだ」


レイヴンの声は淡々としていた。


けれど、淡々としか言えないようにも聞こえた。


「速い竜ではなかった。小回りも、そこまで利く方じゃない」


一度、そこで言葉が切れる。


「だが、強かった」


クロは、冬の村を思い出した。


雪の残る地面。魔狼の群れ。村人たちの前に立った黒い竜。


強いから。


小さな自分がそう言った時、黒い竜は少し得意げになった。


その横で、眠そうな小隊長は面倒くさそうにしていた。けれど、少しだけ楽しそうにも見えた。


今、目の前にいるレイヴンは笑っていない。


「正面に立つ竜だった」


レイヴンは言った。


「退かない。押されても、折れない」


それは褒めている言葉だった。


けれど、褒めるだけの言葉ではなかった。そういう竜だったからこそ、今の沈黙が重くなる。


クロは何も言わなかった。


レイヴンは竜舎の奥を見ないまま、続ける。


「ノクスヴァルト大森林の方で、妙なものに遭った」


その名前を聞いた時、空気が少し冷えた気がした。


クロは息を小さく吸う。


「あれは竜と呼ぶしかなかった」


レイヴンは言った。


「だが、俺の知っている竜とは違った」


「魔物、ですか」


「魔物と呼ぶにも、違った」


短い言葉ばかりだった。


けれど、言い切るたびに、レイヴンの声はほんの少しだけ重くなった。


クロは、それ以上聞かなかった。


聞けば答えが返ってくるかもしれない。けれど、その答えを今の自分が受け取っていいのか、分からなかった。


「俺は脚を持っていかれた」


淡々とした声だった。


まるで、昨日の天気を言うような言い方だった。


それなのに、クロの胸の奥が少しだけ詰まる。


レイヴンは自分の足を見なかった。


竜舎の奥も見なかった。


ただ、記録板の端を指で一度だけ叩いた。


「それから、あいつは誰も背に乗せていない」


クロは、言葉を探した。


黒い竜は。


そう言いかけて、止まる。


何を思っているのか。


レイヴンを、どう見ているのか。


まだ、飛びたいのか。


どれも、近すぎる気がした。


クロが口を閉じると、レイヴンもしばらく黙った。


その間だけ、竜舎の奥から低い息遣いが聞こえた。


レイヴンは、一度だけ奥へ目を向けかけた。


けれど、見なかった。


「あいつは」


レイヴンが言った。


「自分を責めているように見える」


さっきまでより、少しだけ低い声だった。


「俺には、そう見えるだけだ」


クロは何も言わなかった。


レイヴンは、ようやくそこでクロを見る。


「そこから先は、俺が言うことじゃない」


その声には、線があった。


けれど、昨日のように突き放すだけの線ではなかった。


クロは頷く。


「はい」


言えることは、それだけだった。




少し知った。


けれど、分かったわけではなかった。


昔は飛んでいた。


今は、誰も背に乗せていない。


その間にあったものを、レイヴンはほんの少しだけ話した。


けれど、黒い竜が何を抱えているのかまでは、誰の言葉にもならなかった。


レイヴンには、黒い竜が自分を責めているように見える。


けれど、それもレイヴンの目に映るものだ。


黒い竜の本当の声は、まだ聞こえない。


クロは籠を持ち直した。


籠は軽いのに、胸の奥だけが少し重かった。


「教えてくれて、ありがとう、ございます」


少しぎこちない言葉になった。


レイヴンはそれに対して、特に何も言わなかった。ただ、記録板を持ち直す。


「作業に戻れ」


「はい」


クロは頭を下げ、歩き出した。


硬い方の足音が、背後で一度だけ響く。


それから、レイヴンは反対側へ歩いていった。


やはり、竜舎の奥は見なかった。




道具置き場の前で、クレアが待っていた。


水桶の数はもう確認し終えたらしい。手袋の指先を整えながら、こちらを見ている。


全部は聞こえていなかったはずだ。


距離もあった。竜の息遣いも、見習いたちの物音もあった。


けれど、レイヴンの声の重さと、クロの顔の変化くらいは見えたのだろう。


クレアは少しだけ視線を落とした。


それから、短く聞いた。


「……聞いたのですか」


クロは頷いた。


「少しだけ」


「そうですか」


クレアは唇を開きかけた。


けれど、すぐに閉じた。


ただ、手袋の指先をもう一度整える。整っているはずの布を、少しだけ引く。


「なら、戻りますわよ」


「うん」


クロは頷いた。


二人は並んで歩き出した。


クレアは、ほんの少しだけ歩幅を落としていた。


クロは気づいた。


でも、何も言わなかった。




夕方、竜舎の奥には細い光が届いていた。


高い窓から差し込む赤みのある光が、石の床を斜めに照らしている。藁の上には長い影が落ち、竜たちの息遣いが低く流れていた。


クロは片づけを終えたあと、奥の通路へ向かった。


白い線が見える。


その向こうに、黒い竜がいた。


大きな身体を伏せ、目を閉じている。


昨日と同じように。


けれど、クロの中には昨日と違うものがあった。


もう、何も知らないわけではない。


あの竜は、レイヴンの竜だった。


今も、きっとそうなのだと思う。


けれど、レイヴンはもう、その背に乗って空へ行けない。


黒い竜が何を抱えているのかも、レイヴンが何を見ないようにしているのかも、まだ分からない。


けれど、責めていないことと、傷ついていないことは違う。


それだけは、胸の奥に残った。


クロは白い線の手前で足を止めた。


知ったからといって、近づいていいわけではない。


言葉にすれば、また触れてしまうかもしれない。


黒い竜は目を閉じている。


眠っているようには、やはり見えなかった。


クロは口を閉じた。


今日も、何も言わない。


今は、まだ。

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