表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/80

一章 第13話 「距離」

翌朝になっても、クロの耳にはレイヴンの声が残っていた。


今は触るな。


怒鳴られたわけではない。声を荒げられたわけでもない。けれど、その言葉は昨日からずっと胸の奥に引っかかっていた。


竜舎の入口で、空気が変わった。


冷えた石の匂い。藁の匂い。奥に沈んでいた黒い竜の気配。


「あの竜、教官を見てました」


「私が、見ました」


そう言った瞬間、何かに指先が触れたような気がした。


見ただけなら、届かないと思っていた。


白い線を越えたわけではない。黒い竜に手を伸ばしたわけでもない。レイヴンの前に立ちはだかったわけでもない。


ただ、見たことを言っただけだ。


けれど、レイヴンの声は低くなった。


竜舎の空気も、深くなった。


見ただけではなかったのかもしれない。


言ったことで、触ったのかもしれない。


クロは寝台の上で、膝を抱える。まだ起床の鐘までは少しある。薄い朝の光が、窓の端から差し込んでいた。


足では近づいていない。


けれど、言葉で近づきすぎた。


たぶん、そういうことなのだと思う。


「……朝から静かですわね」


上段から声が落ちてきた。


クロは顔を上げる。


「いつも静か」


「今日は種類が違います」


布の擦れる音がして、クレアが上段から顔を覗かせた。金色の髪はまだ少し乱れているのに、目だけはもうはっきりしている。


クロは少し考えてから言った。


「昨日、教官に、今は触るなって言われた」


「聞こえていましたわ」


「足では近づいてない。でも、言葉で近づきすぎたみたい」


クレアは少し黙った。


その間に、廊下の向こうから誰かの足音が聞こえた。朝の支度を始めた見習いの声も、まだ遠い。


「誰にでも、見られたくない場所くらいあります」


クレアは静かに言った。


いつものような刺す声ではなかった。けれど、甘くもない。線を引くような声だった。


クロは上を見た。


「見ないと、分からないこともある」


「見るなとは言っていません」


クレアは言う。


「近づき方の問題です」


クロは、その言葉をすぐには返せなかった。


見ること。


近づくこと。


昨日の訓練で、見ることと止まることは違うのだと思った。けれど今は、それだけでは足りない気がする。


見るだけなら、何もしていないと思っていた。


でも、見られる側には、そうではない時もあるのかもしれない。


「難しい」


クロがぽつりと言うと、クレアは小さく息を吐いた。


「簡単なことなら、わざわざ教官があのような言い方をしませんわ」


「うん」


「……そこで素直に頷かれると、少し調子が狂います」


クレアはそう言って、上段へ引っ込んだ。


けれどその声には、昨日までより少しだけ柔らかいものが混じっていた。




朝の竜舎は、相変わらず匂いが濃かった。


湿った藁。革油。水。竜の息。まだ起ききっていない見習いたちの眠気など、竜舎に入った瞬間にほとんど吹き飛んでしまう。


竜舎番は今日も手短に作業を割り振った。


通路の掃除。水桶の交換。鞍具置き場の整理。竜の区画へ入る組と、入らない組。見習いたちはそれぞれに動き始める。


クロとクレアは、水桶を運ぶ係になった。


大きな桶に水を入れ、二人で持つ。重さは昨日の鞍具とは違う。中で水が揺れるぶん、歩き方が雑だとすぐに腕へ返ってくる。


「揺らさないでくださいませ」


「揺れてる」


「だから言っています」


「水、勝手に動く」


「あなたの言い分だと、世の中の大抵のものが勝手に動いていることになりますわ」


クレアは低い声でそう言いながらも、歩幅を合わせていた。


クロもそれに合わせる。


竜舎の通路を進むにつれ、竜たちの気配が近くなる。区画の中で身じろぎする音。爪が床を掻く音。鼻先から漏れる息。どれも大きく、どれも生きている音だった。


奥の方に、白い線がある。


クロの視線が、自然とそちらへ向きかけた。


黒い竜のいる方。


昨日、目を閉じていた竜。眠っているようには見えなかった竜。


見たい。


何をしているのか。今も目を閉じているのか。レイヴンが近くを通ったら、また見るのか。


知りたいことは、いくつもあった。


けれど、クロは途中で視線を戻した。


水桶の縁を持ち直す。


見続けたら、それも近づくことになる気がした。


「……今、見ませんでしたわね」


隣で、クレアが言った。


クロは前を向いたまま答える。


「見た」


「そうですの?」


「でも、見続けなかった」


クレアは少しだけ黙った。


それから、水桶の向こう側で、手袋の指先を直す。まだ歩いている途中なのに、器用に親指で布のずれを整えていた。


「そういうところは、素直に早いですわね」


「早い?」


「覚えるのが、です」


「うん」


「褒めたわけではありません」


「でも、悪くない?」


クレアは答えなかった。


ただ、少しだけ顔を横へ向ける。


その耳元の髪が、朝の光を受けて淡く光った。


水桶を運び終え、次の桶を取りに戻る途中で、近くの区画の竜が大きく尾を動かした。床を擦る重い音が響く。


クレアの指が、桶の持ち手を強く掴んだ。


ほんの少し。


他の見習いなら、気づかなかったかもしれない。けれどクロには見えた。肩は動いていない。顔も崩れていない。背筋も伸びている。


でも、指だけが強い。


クロはそれを見た。


そして、何も言わなかった。


代わりに、自分の立つ位置を半歩だけずらす。通路の壁側へ寄り、クレアが竜の区画から一歩だけ遠くを通れるようにした。


クレアの目が横へ動く。


「……何ですの、その間」


「通りやすいかなって」


「気を遣われるほどではありません」


「うん」


クレアは何か言おうとして、やめた。


代わりに、手袋の端を一度だけ強く引く。もう整っているはずの指先が、また少しだけ整えられた。


「……そういう顔をしないでくださいませ」


クロは瞬きをした。


「どんな顔?」


「分かっていない顔です」


クレアは低く言って、視線を前へ戻した。


けれど、桶を持つ指はさっきより少しだけ緩んでいた。




その日の訓練も、レイヴンが担当した。


訓練場には長い木の棒が何本か置かれている。竜の尾に見立てたものらしい。木杭と縄で簡単な区画も作られており、そこへ入る角度や距離を測る訓練だと説明された。


説明、と言っても短い。


レイヴンは眠そうな目で見習いたちを眺めると、木棒の先を軽く踏んだ。


「竜を見るなとは言わん」


棒がわずかに持ち上がる。


「見なきゃ死ぬ」


見習いたちの背筋が伸びた。


レイヴンは続ける。


「だが、見すぎても嫌われる。目だけで押すな」


誰かが小さく喉を鳴らした。


竜を見る。


竜に見られる。


そのどちらにも、重さがあるのだと、クロは思った。


「真正面に立つな。背後にも回るな。足、尾、翼、首。全部を見る。だが、一つに張りつくな」


レイヴンは木棒を指した。


「尾だけ見て首を食らう馬鹿がいる。首だけ見て足に潰される馬鹿もいる。目だけ見て、竜に嫌われる馬鹿もいる」


淡々としているのに、言葉はひどい。


見習いたちは誰も笑わなかった。


「距離を取れ。足だけじゃない」


そこで、レイヴンの視線がクロへ向いた。


「足だけが距離だと思うな」


クロは少しだけ息を止めた。


昨日の声が戻ってくる。


今は触るな。


あれは、足の話だけではなかった。


「はい」


クロは答えた。


レイヴンはそれ以上何も言わず、訓練を始めるよう指示した。


木杭で作られた区画へ入り、合図で位置を変える。木棒が動けば、尾が動いたものとして避ける。首に見立てた柱の正面には立たず、かといって逃げ腰になりすぎてもいけない。


クロは、最初の合図で少し近づきすぎた。


危ないと思って一歩引くと、今度は木棒の先が見えなくなる。慌てて目で追えば、足元の縄を踏んだ。


「止まるな」


レイヴンの声が飛ぶ。


クロは縄から足を外し、もう一度構える。


距離を取ったつもりで、ただ遅れただけだった。


次の合図で、木棒が低く動いた。尾だと思って避ける。けれど、そちらを見すぎた瞬間、反対側から回ってきた別の棒が足元を軽く払った。


「レインフォート」


「はい」


「一点を見るな」


「はい」


クロは足元を整えた。


見たいものを見すぎると、他が遅れる。


昨日も同じだった。


黒い竜を見ていたら、足元が遅れた。レイヴンの足を見て止まったら、訓練にならない。クレアの指を見続ければ、クレアはきっと息がしづらくなる。


見ることは、近づくことだ。


でも、見ないことは、離れることにもなる。


その間を探す。


クロは木棒の動きから目を離し、全体を見るようにした。尾。足。壁。クレアの位置。自分の足元。レイヴンの視線。


そして、竜舎の方。


一瞬だけ、奥を見る。


黒い竜のいる方。


すぐに戻す。


見た。


でも、見続けなかった。


「次」


レイヴンの声が飛ぶ。


クロは動いた。




クレアの番になると、空気が少しだけ変わった。


本人が変えたわけではない。周りが勝手に見てしまうのだ。竜騎士適性の事故を知っている見習いたちが、ほんの少し息を潜める。


クレアはそれに気づいている。


気づいていながら、背筋を伸ばして木杭の区画へ入った。


合図で木棒が動く。


クレアは避けた。


次の合図。


また避ける。


姿勢は綺麗だ。動きも丁寧で、足の置き方に乱れが少ない。けれど、尾に見立てた木棒が床を叩く音が強く響いた時だけ、肩の奥がほんの少し固くなった。


クロには見えた。


たぶん、レイヴンにも見えている。


でも、レイヴンは何も言わなかった。


クレアも止まらない。


一歩、動く。


もう一歩、動く。


怖くないわけではない。


それでも、動いている。


クロは、それを見た。


言わなかった。


ただ、順番待ちの位置で自分の手袋を握った。


クレアがこちらをちらりと見る。


一瞬だけ目が合った。


クロは何も言わない。


クレアも何も言わない。


けれど、クレアは少しだけ顎を引き、また前を向いた。


それでいい気がした。




訓練が終わる頃には、見習いたちは昨日と同じように疲れていた。


派手な動きはない。竜に乗ったわけでもない。けれど、距離を測り続けるのは思ったより神経を使う。近づく。止まる。見る。戻す。避ける。呼吸を整える。


竜が相手なら、これを生き物の息の中でやるのだ。


クロは手袋についた土を払った。


訓練場の端で、レイヴンが記録板に何かを書きつけている。眠そうな顔は昨日と変わらない。ただ、時々こちらを見る目だけは、少しも眠っていなかった。


「レインフォート」


呼ばれて、クロは顔を上げる。


「はい」


レイヴンは記録板から目を離さないまま言った。


「今日は見なかったな」


クロは少し考えた。


黒い竜のことだと、すぐに分かった。


「……はい。見ました」


レイヴンの筆が止まる。


クロは言葉を探す。


「でも、見続けないように、しました」


短い沈黙があった。


レイヴンはようやく顔を上げ、クロを見る。


昨日、眠気のようなものが消えた目ではない。いつもの、少し眠そうで、面倒くさそうな目だった。


けれど、昨日よりほんの少しだけ、遠くない気がした。


「ならいい」


それだけだった。


褒められたわけではない。


許されたのかどうかも分からない。


でも、止められなかった。


クロは頷いた。


「はい」


レイヴンは何かを言いかけたように見えた。けれど、結局何も言わず、記録板へ視線を戻す。


クロもそれ以上は聞かなかった。


今は触るな。


それを、覚えていた。




竜舎へ戻ると、夕方の光が高い窓から斜めに入っていた。


朝よりも少し赤い光が、藁の上や石の床に細く伸びている。竜たちの区画では、食事を終えた竜が低く喉を鳴らし、別の竜が翼を畳む音がした。


クロは空になった桶を片づけるため、奥の通路へ向かった。


白い線が見える。


その向こうに、黒い竜がいた。


大きな身体を床に伏せ、目を閉じている。


昨日と同じように。


けれど、やはり眠っているようには見えなかった。


クロは白い線の手前で足を止める。


声はかけなかった。


見続けもしなかった。


ただ、その黒を一度だけ見た。


黒よりも黒い竜。


昔、強いと言われて、少し得意げになった竜。


今は、強かったという言葉に、竜舎の空気を重くした竜。


クロは桶を持ち直した。


今は触れない。


でも、いなくなるわけではない。


見なかったことにはしない。


クロは静かに踵を返した。


振り返らなかった。


だから、知らない。


竜舎の奥で、黒い竜の片目が、ほんの少しだけ開いたことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ