一章 第13話 「距離」
翌朝になっても、クロの耳にはレイヴンの声が残っていた。
今は触るな。
怒鳴られたわけではない。声を荒げられたわけでもない。けれど、その言葉は昨日からずっと胸の奥に引っかかっていた。
竜舎の入口で、空気が変わった。
冷えた石の匂い。藁の匂い。奥に沈んでいた黒い竜の気配。
「あの竜、教官を見てました」
「私が、見ました」
そう言った瞬間、何かに指先が触れたような気がした。
見ただけなら、届かないと思っていた。
白い線を越えたわけではない。黒い竜に手を伸ばしたわけでもない。レイヴンの前に立ちはだかったわけでもない。
ただ、見たことを言っただけだ。
けれど、レイヴンの声は低くなった。
竜舎の空気も、深くなった。
見ただけではなかったのかもしれない。
言ったことで、触ったのかもしれない。
クロは寝台の上で、膝を抱える。まだ起床の鐘までは少しある。薄い朝の光が、窓の端から差し込んでいた。
足では近づいていない。
けれど、言葉で近づきすぎた。
たぶん、そういうことなのだと思う。
「……朝から静かですわね」
上段から声が落ちてきた。
クロは顔を上げる。
「いつも静か」
「今日は種類が違います」
布の擦れる音がして、クレアが上段から顔を覗かせた。金色の髪はまだ少し乱れているのに、目だけはもうはっきりしている。
クロは少し考えてから言った。
「昨日、教官に、今は触るなって言われた」
「聞こえていましたわ」
「足では近づいてない。でも、言葉で近づきすぎたみたい」
クレアは少し黙った。
その間に、廊下の向こうから誰かの足音が聞こえた。朝の支度を始めた見習いの声も、まだ遠い。
「誰にでも、見られたくない場所くらいあります」
クレアは静かに言った。
いつものような刺す声ではなかった。けれど、甘くもない。線を引くような声だった。
クロは上を見た。
「見ないと、分からないこともある」
「見るなとは言っていません」
クレアは言う。
「近づき方の問題です」
クロは、その言葉をすぐには返せなかった。
見ること。
近づくこと。
昨日の訓練で、見ることと止まることは違うのだと思った。けれど今は、それだけでは足りない気がする。
見るだけなら、何もしていないと思っていた。
でも、見られる側には、そうではない時もあるのかもしれない。
「難しい」
クロがぽつりと言うと、クレアは小さく息を吐いた。
「簡単なことなら、わざわざ教官があのような言い方をしませんわ」
「うん」
「……そこで素直に頷かれると、少し調子が狂います」
クレアはそう言って、上段へ引っ込んだ。
けれどその声には、昨日までより少しだけ柔らかいものが混じっていた。
朝の竜舎は、相変わらず匂いが濃かった。
湿った藁。革油。水。竜の息。まだ起ききっていない見習いたちの眠気など、竜舎に入った瞬間にほとんど吹き飛んでしまう。
竜舎番は今日も手短に作業を割り振った。
通路の掃除。水桶の交換。鞍具置き場の整理。竜の区画へ入る組と、入らない組。見習いたちはそれぞれに動き始める。
クロとクレアは、水桶を運ぶ係になった。
大きな桶に水を入れ、二人で持つ。重さは昨日の鞍具とは違う。中で水が揺れるぶん、歩き方が雑だとすぐに腕へ返ってくる。
「揺らさないでくださいませ」
「揺れてる」
「だから言っています」
「水、勝手に動く」
「あなたの言い分だと、世の中の大抵のものが勝手に動いていることになりますわ」
クレアは低い声でそう言いながらも、歩幅を合わせていた。
クロもそれに合わせる。
竜舎の通路を進むにつれ、竜たちの気配が近くなる。区画の中で身じろぎする音。爪が床を掻く音。鼻先から漏れる息。どれも大きく、どれも生きている音だった。
奥の方に、白い線がある。
クロの視線が、自然とそちらへ向きかけた。
黒い竜のいる方。
昨日、目を閉じていた竜。眠っているようには見えなかった竜。
見たい。
何をしているのか。今も目を閉じているのか。レイヴンが近くを通ったら、また見るのか。
知りたいことは、いくつもあった。
けれど、クロは途中で視線を戻した。
水桶の縁を持ち直す。
見続けたら、それも近づくことになる気がした。
「……今、見ませんでしたわね」
隣で、クレアが言った。
クロは前を向いたまま答える。
「見た」
「そうですの?」
「でも、見続けなかった」
クレアは少しだけ黙った。
それから、水桶の向こう側で、手袋の指先を直す。まだ歩いている途中なのに、器用に親指で布のずれを整えていた。
「そういうところは、素直に早いですわね」
「早い?」
「覚えるのが、です」
「うん」
「褒めたわけではありません」
「でも、悪くない?」
クレアは答えなかった。
ただ、少しだけ顔を横へ向ける。
その耳元の髪が、朝の光を受けて淡く光った。
水桶を運び終え、次の桶を取りに戻る途中で、近くの区画の竜が大きく尾を動かした。床を擦る重い音が響く。
クレアの指が、桶の持ち手を強く掴んだ。
ほんの少し。
他の見習いなら、気づかなかったかもしれない。けれどクロには見えた。肩は動いていない。顔も崩れていない。背筋も伸びている。
でも、指だけが強い。
クロはそれを見た。
そして、何も言わなかった。
代わりに、自分の立つ位置を半歩だけずらす。通路の壁側へ寄り、クレアが竜の区画から一歩だけ遠くを通れるようにした。
クレアの目が横へ動く。
「……何ですの、その間」
「通りやすいかなって」
「気を遣われるほどではありません」
「うん」
クレアは何か言おうとして、やめた。
代わりに、手袋の端を一度だけ強く引く。もう整っているはずの指先が、また少しだけ整えられた。
「……そういう顔をしないでくださいませ」
クロは瞬きをした。
「どんな顔?」
「分かっていない顔です」
クレアは低く言って、視線を前へ戻した。
けれど、桶を持つ指はさっきより少しだけ緩んでいた。
その日の訓練も、レイヴンが担当した。
訓練場には長い木の棒が何本か置かれている。竜の尾に見立てたものらしい。木杭と縄で簡単な区画も作られており、そこへ入る角度や距離を測る訓練だと説明された。
説明、と言っても短い。
レイヴンは眠そうな目で見習いたちを眺めると、木棒の先を軽く踏んだ。
「竜を見るなとは言わん」
棒がわずかに持ち上がる。
「見なきゃ死ぬ」
見習いたちの背筋が伸びた。
レイヴンは続ける。
「だが、見すぎても嫌われる。目だけで押すな」
誰かが小さく喉を鳴らした。
竜を見る。
竜に見られる。
そのどちらにも、重さがあるのだと、クロは思った。
「真正面に立つな。背後にも回るな。足、尾、翼、首。全部を見る。だが、一つに張りつくな」
レイヴンは木棒を指した。
「尾だけ見て首を食らう馬鹿がいる。首だけ見て足に潰される馬鹿もいる。目だけ見て、竜に嫌われる馬鹿もいる」
淡々としているのに、言葉はひどい。
見習いたちは誰も笑わなかった。
「距離を取れ。足だけじゃない」
そこで、レイヴンの視線がクロへ向いた。
「足だけが距離だと思うな」
クロは少しだけ息を止めた。
昨日の声が戻ってくる。
今は触るな。
あれは、足の話だけではなかった。
「はい」
クロは答えた。
レイヴンはそれ以上何も言わず、訓練を始めるよう指示した。
木杭で作られた区画へ入り、合図で位置を変える。木棒が動けば、尾が動いたものとして避ける。首に見立てた柱の正面には立たず、かといって逃げ腰になりすぎてもいけない。
クロは、最初の合図で少し近づきすぎた。
危ないと思って一歩引くと、今度は木棒の先が見えなくなる。慌てて目で追えば、足元の縄を踏んだ。
「止まるな」
レイヴンの声が飛ぶ。
クロは縄から足を外し、もう一度構える。
距離を取ったつもりで、ただ遅れただけだった。
次の合図で、木棒が低く動いた。尾だと思って避ける。けれど、そちらを見すぎた瞬間、反対側から回ってきた別の棒が足元を軽く払った。
「レインフォート」
「はい」
「一点を見るな」
「はい」
クロは足元を整えた。
見たいものを見すぎると、他が遅れる。
昨日も同じだった。
黒い竜を見ていたら、足元が遅れた。レイヴンの足を見て止まったら、訓練にならない。クレアの指を見続ければ、クレアはきっと息がしづらくなる。
見ることは、近づくことだ。
でも、見ないことは、離れることにもなる。
その間を探す。
クロは木棒の動きから目を離し、全体を見るようにした。尾。足。壁。クレアの位置。自分の足元。レイヴンの視線。
そして、竜舎の方。
一瞬だけ、奥を見る。
黒い竜のいる方。
すぐに戻す。
見た。
でも、見続けなかった。
「次」
レイヴンの声が飛ぶ。
クロは動いた。
クレアの番になると、空気が少しだけ変わった。
本人が変えたわけではない。周りが勝手に見てしまうのだ。竜騎士適性の事故を知っている見習いたちが、ほんの少し息を潜める。
クレアはそれに気づいている。
気づいていながら、背筋を伸ばして木杭の区画へ入った。
合図で木棒が動く。
クレアは避けた。
次の合図。
また避ける。
姿勢は綺麗だ。動きも丁寧で、足の置き方に乱れが少ない。けれど、尾に見立てた木棒が床を叩く音が強く響いた時だけ、肩の奥がほんの少し固くなった。
クロには見えた。
たぶん、レイヴンにも見えている。
でも、レイヴンは何も言わなかった。
クレアも止まらない。
一歩、動く。
もう一歩、動く。
怖くないわけではない。
それでも、動いている。
クロは、それを見た。
言わなかった。
ただ、順番待ちの位置で自分の手袋を握った。
クレアがこちらをちらりと見る。
一瞬だけ目が合った。
クロは何も言わない。
クレアも何も言わない。
けれど、クレアは少しだけ顎を引き、また前を向いた。
それでいい気がした。
訓練が終わる頃には、見習いたちは昨日と同じように疲れていた。
派手な動きはない。竜に乗ったわけでもない。けれど、距離を測り続けるのは思ったより神経を使う。近づく。止まる。見る。戻す。避ける。呼吸を整える。
竜が相手なら、これを生き物の息の中でやるのだ。
クロは手袋についた土を払った。
訓練場の端で、レイヴンが記録板に何かを書きつけている。眠そうな顔は昨日と変わらない。ただ、時々こちらを見る目だけは、少しも眠っていなかった。
「レインフォート」
呼ばれて、クロは顔を上げる。
「はい」
レイヴンは記録板から目を離さないまま言った。
「今日は見なかったな」
クロは少し考えた。
黒い竜のことだと、すぐに分かった。
「……はい。見ました」
レイヴンの筆が止まる。
クロは言葉を探す。
「でも、見続けないように、しました」
短い沈黙があった。
レイヴンはようやく顔を上げ、クロを見る。
昨日、眠気のようなものが消えた目ではない。いつもの、少し眠そうで、面倒くさそうな目だった。
けれど、昨日よりほんの少しだけ、遠くない気がした。
「ならいい」
それだけだった。
褒められたわけではない。
許されたのかどうかも分からない。
でも、止められなかった。
クロは頷いた。
「はい」
レイヴンは何かを言いかけたように見えた。けれど、結局何も言わず、記録板へ視線を戻す。
クロもそれ以上は聞かなかった。
今は触るな。
それを、覚えていた。
竜舎へ戻ると、夕方の光が高い窓から斜めに入っていた。
朝よりも少し赤い光が、藁の上や石の床に細く伸びている。竜たちの区画では、食事を終えた竜が低く喉を鳴らし、別の竜が翼を畳む音がした。
クロは空になった桶を片づけるため、奥の通路へ向かった。
白い線が見える。
その向こうに、黒い竜がいた。
大きな身体を床に伏せ、目を閉じている。
昨日と同じように。
けれど、やはり眠っているようには見えなかった。
クロは白い線の手前で足を止める。
声はかけなかった。
見続けもしなかった。
ただ、その黒を一度だけ見た。
黒よりも黒い竜。
昔、強いと言われて、少し得意げになった竜。
今は、強かったという言葉に、竜舎の空気を重くした竜。
クロは桶を持ち直した。
今は触れない。
でも、いなくなるわけではない。
見なかったことにはしない。
クロは静かに踵を返した。
振り返らなかった。
だから、知らない。
竜舎の奥で、黒い竜の片目が、ほんの少しだけ開いたことを。




