一章 第12話 「傷」
翌朝になっても、クロの中には昨日の光景が残っていた。
竜舎の奥にいた黒い竜。
片目だけを開け、レイヴンを見ていた目。
そして、それに気づいているはずなのに、そちらを見なかったレイヴンの横顔。
何かがある。
そう思った。
けれど朝の訓練場に立つレイヴンに、昨日一瞬見せた翳りはない。眠そうな目で記録板を片手に持ち、欠伸を噛み殺したような顔のまま、床に並べられた竜用の鞍具を指した。
「二人一組で持て」
床に置かれていたのは、竜用の鞍だ。
改めて見ると、大きい。厚い革。太い帯。人間用の馬具とはまるで違う金具。見た目の重さだけで、見習いたちの間に低いざわめきが走る。
レイヴンは鞍具を見下ろした。
「鞍は重い。だが、竜の背に乗せるものだ。丁重に扱え」
それから、持ち手の位置を指す。
「一人で担ぐな。そういう道具じゃない」
その言葉に、何人かの視線が、何となくクロへ向いた。
クロは少しだけ首をかしげる。
「……何?」
隣で、クレアがこめかみに指を当てた。
「何でもありませんわ」
声は低い。
何でもない、という響きではなかった。
見習いたちの視線を追ったレイヴンの目が、クロで止まる。
「お前。名前は」
クロは一瞬、背筋を伸ばした。
「クロ……クロ・レインフォート、で、ありま、す?」
最後だけ、少し硬くなる。
クレアが小さく息を吐いた。
レイヴンは、クロを見たまま黙っていた。
冬の村。
黒い竜を見上げていた、小さな黒猫。
「強いから」
そう言った声と、少し得意げになった黒い竜の横顔が、わずかに脳裏をよぎる。
その子供が、今ここにいる。
レイヴンは何も言わなかった。
「そうか」
それだけ返して、鞍具へ視線を戻す。
「始めろ。持つ場所を確認してから上げろ。下ろす時は声を合わせろ」
見習いたちは、それぞれ二人一組になった。クロとクレアも、一つの鞍具の前に立つ。
クロはすぐ手を伸ばしかけ、途中で止めた。金具がある。そこを持つと、力を入れた時に変な方向へ曲がりそうだった。
「こっち?」
「待ってくださいませ」
クレアは反対側へ回り、革の張りや金具の位置を確かめる。
「そこでは傾きます。もう少し内側ですわ」
「うん」
「軽いですわね、返事が」
「でも分かった」
「……なら結構です」
二人で持ち上げると、腕にずしりと重さが来た。
持てないほどではない。けれど、ただ持ち上げればいいものでもない。片方が傾けば、すぐに相手へ伝わる。歩幅がずれれば革が揺れ、急げば金具が鳴る。
「揺らすな」
レイヴンの声が飛んだ。
クロとクレアは同時に足を止める。
「持てているだけだ。それじゃ竜が嫌がる」
二人はもう一度、鞍具を持ち直した。
クレアが少し歩幅を落とし、クロもそれに合わせる。重さは変わらない。それでも、さっきより音は少ない。
レイヴンは何も言わなかった。
褒められもしない。
止められもしない。
なら、たぶん悪くはない。
クロはそう思った。
次の訓練は、危険回避だった。
訓練場の一角には、湿らせた藁と土が薄く撒かれている。竜舎の床ほどではないが、足を取るには十分だ。
見習いたちの顔に、少し嫌そうな色が浮かぶ。
レイヴンは気にしない。
「竜舎の床は綺麗じゃない」
木剣の先で、湿った藁を突く。
「濡れた藁。泥。水。削れた床。そこへ尾が来る。翼が動く。足も動く」
見習いたちは黙って聞いていた。
「避けろ。転んだら起きろ。起きられないなら転がれ。固まるな」
クレアの指が、ほんの少しだけ動く。
クロはそれを見た。
訓練は地味だった。
濡れた藁の上を歩く。合図で止まる。下がる。しゃがむ。手をつく。横へ転がって起きる。
それだけなのに、思ったより難しい。
手をついた場所が滑り、起き上がろうとした足は思ったところに置けない。乾いた地面ならできるはずの動きが、藁と泥だけで少しずつ崩れていく。
「遅い」
レイヴンの声が飛ぶ。
「急げとは言っていない。無駄に止まるな」
見習いたちは息を切らしながら、もう一度動く。
クロは比較的うまく動けた。村で濡れた土や雪の上を歩いたことがある。転んだこともある。手をつく場所も、足を置く場所も、少しは分かる。
それでも、止められた。
「レインフォート」
「はい」
「目」
クロは瞬きをする。
「目?」
「向こうを見すぎだ」
レイヴンの視線が、竜舎の方へわずかに動いた。
クロは、自分が見ていたことに気づく。
竜舎の奥。
黒い竜のいる方。
「竜舎番にも言われただろ」
「はい」
「なら直せ」
それだけだった。
クロはもう一度、湿った藁の上へ戻る。
足元。周り。竜舎の方。
全部を同じように見ようとすると、身体が少し遅れる。
難しい。
そう思った。
クレアの番になった。
動きそのものは綺麗だ。姿勢は崩れず、足の置き方も丁寧で、濡れた藁の上でも他の見習いよりずっと安定している。育ちの良さだけではない。きちんと訓練を受けてきた身体なのだと思う。
ただ、一度だけ止まった。
レイヴンが木剣で地面を叩いた時だった。
竜の尾が来た、という合図。
ここに竜はいない。
目の前にあるのは、湿った藁と泥と、木剣で叩かれた地面だけだ。
それでも、クレアの足は一瞬だけ動かなかった。
あの日の深緑の竜が、頭ではなく、身体の奥で跳ねたように見えた。
ほんの少し。
本当に、少しだけ。
クレアの足が遅れる。
クロには見えた。
レイヴンにも、当然見えていた。
「レーヴェンハルト」
クレアの背筋が伸びる。
「今、止まったな」
「……はい」
訓練場が静かになる。
レイヴンは責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ言った。
「もう一回」
クレアは唇を結んだ。
次の合図で、木剣が地面を叩く。
クレアの肩が、わずかに強張った。
それでも、今度は足が動く。
一歩、後ろへ。
それだけだった。
けれど、止まらなかった。
「次」
レイヴンはそれ以上何も言わない。
クレアも、何も言わなかった。
ただ、濡れた藁の上で、自分の足を見ている。
クロはそれを見ていた。
訓練の途中、見習いたちの視線が何度かレイヴンの足に向いた。
仕方のないことだ。
硬い音がする。
動きが違う。
止まる時、ほんの少し間がある。
それでも、レイヴンは誰よりも安定して立っていた。濡れた藁の上でも、泥の上でも、片足が違うことを感じさせないほど自然に重心を移す。
だから余計に、目を引く。
レイヴンはしばらく無視していた。
やがて、順番待ちをしている一人の視線があからさまに足元へ落ちた時、彼は言った。
「見るなら今見ろ」
見習いたちが固まる。
レイヴンは眠そうな目のまま、自分の足元を軽く示した。
「気になるだろ」
誰も答えない。
「だが、訓練中に見るな。俺の足を見ていて尾を食らっても知らん」
淡々とした声だった。
怒っているわけではない。
だから余計に、見習いたちは気まずそうに視線を戻した。
クロはレイヴンの足を見る。
硬い音を立てる足。
何かに噛まれたと、誰かが噂していた足。
それから、すぐに顔を上げた。
レイヴンは、それを見ている。
「それでいい」
短い言葉だった。
クロは少しだけ頷いた。
見ることと、止まることは違う。
たぶん、そういうことなのだと思った。
訓練が終わる頃には、見習いたちはかなり疲れていた。
剣を振ったわけではない。走り続けたわけでもない。竜に乗ったわけでもない。
けれど、足元は泥で汚れ、手袋には湿った藁がつき、腕には鞍具の重さが残っている。何より、気を抜く時間がほとんどない訓練だった。
地味だ。
でも、軽くはない。
レイヴンは記録板に何かを書きつけ、見習いたちを見た。
「今日はここまでだ。明日以降もやる。竜舎当番でない組は時間を確認して来い。遅れるな」
「はい!」
朝より、少しだけ返事が揃う。
解散の声がかかると、見習いたちはゆっくり動き始めた。泥を落とす者。手袋を見る者。鞍具の重さで腕を回す者。
クレアは、自分の手袋を見ていた。
「クレア」
クロが呼ぶと、クレアは少し遅れて顔を上げる。
「何ですの」
「さっき、止まらなかったね」
クレアは一瞬だけ黙った。
それから、視線を逸らす。
「……遅れましたわ」
「でも、動けた」
「一歩だけです」
「一歩、動いた」
クレアは唇を結んだ。
怒っているようにも、悔しがっているようにも見える。けれど昨日までより、少しだけ息がしやすそうでもあった。
「次は、もう少し早く動きます」
そう言って、クレアは手袋の指先を整えた。
もう十分整っているのに、もう一度。
クロはそれを見たが、何も言わなかった。
訓練場から竜舎へ戻る途中、クロはレイヴンを見つけた。
竜舎の入口近くで、竜舎番と短く話している。話はすぐに終わり、竜舎番が奥へ戻っていく。
レイヴンは記録板を片手に、外へ出ようとしていた。
その横顔を見た時、クロは昨日のことを思い出す。
黒い竜は、レイヴンを見ていた。
レイヴンは、見なかった。
クロは少しだけ迷った。
それから、歩いた。
「教官」
レイヴンが足を止める。
「何だ」
クロはレイヴンを見た。
それから、竜舎の奥を見る。
「昨日の黒い竜」
レイヴンの目が、少しだけ細くなった。
「あの竜、教官を見てました」
空気が変わった。
大きな音はしない。
誰かが声を上げたわけでもない。
けれど、竜舎の入口にある冷えた空気が、一段深くなった気がした。
レイヴンはクロを見る。
眠そうだった目から、眠気のようなものが消えていた。
「それを誰に聞いた」
「私が、見ました」
「そうか」
短い沈黙が落ちる。
クロは、少しだけ耳を伏せた。
言っていいことではなかったのかもしれない。
でも、なかったことにもできなかった。
レイヴンは竜舎の奥を見ない。
「今は触るな」
低い声だった。
怒鳴られたわけではない。
けれど、そこから先へ来るな、という声だった。
クロは頷いた。
「はい」
レイヴンはそれ以上何も言わず、歩き出した。
硬い方の足音が、石の床に短く響く。
クロはその背中を見送る。
そして、ゆっくり竜舎の奥を見た。
黒い竜は目を閉じている。
けれど、眠っているようには見えなかった。
クロは、自分が踏み込んだのだと分かった。
足ではなく、言葉で。




