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一章 第11話 「教官」

竜舎の日々は、少しずつ形を変えていった。


最初の頃は、誰もが何をすればいいのか分からず、竜舎番の声が飛ぶたびに肩を跳ねさせていた。寝藁をどこへ集めるのか。水桶はどの通路を通るのか。竜が尾を動かした時、どこへ避けるのか。道具の置き場ひとつにも迷っていた。


けれど、何日も続ければ、身体は少しずつ覚える。


濡れた藁は色が違う。泥は端に溜まりやすい。水桶は急ぐほど揺れる。竜糞は見た目より重い。竜の尾が床を擦る音がしたら、まず足元を見る。


見習いたちは、まだ竜騎士ではない。


けれど、竜舎の中で立ち尽くすだけの志願者でも、もうなかった。


クロも、クレアも、それは同じだった。


朝の作業で水桶を持ち上げた時、クロはふと、反対側にいるクレアの腕を見た。


包帯が、なかった。


白い布がなくなった腕は、まだ少し細く見えた。けれど、水桶を支える動きは以前よりずっと自然だった。籠を持つ時も、道具を取る時も、クレアはもう腕をかばっていない。


クロは少しだけ目を細めた。


「腕、もう大丈夫なんだね」


クレアの手が止まった。


桶の水が、小さく揺れる。


「……ええ。もう問題ありません」


「よかった」


クロはそう言って、屈託なく笑った。


本当に、それだけだった。


傷が治った。動かせるようになった。だからよかった。


クロの中では、たぶんそれだけなのだろう。


けれどクレアは、なぜかすぐには返事ができなかった。水桶の縁を握る指に、少しだけ力が入る。入りすぎて、水面がまた小さく揺れた。


「クレア、水」


「分かっています」


クレアはすぐに指の力を緩めた。


声はいつも通りだった。顔も、たぶん崩れていない。少なくとも崩れていないはずだった。


腕の傷が治ったのは、喜ばしいことだ。


いつまでも怪我人扱いされるのは不本意だ。水桶も持てる。籠も運べる。道具も扱える。


だから、クロが以前ほど腕を気にしなくなったことも、当然だった。


当然、だった。


なのに。


「クレア?」


クロが首をかしげる。


「何でもありません」


「そっか」


クレアは一度口を開き、閉じた。


今の「そっか」は、責めるものではない。流すものでもない。ただ、そのまま受け取った声だった。


それが余計に、胸の奥を変にざわつかせる。


クレアは水桶の縁を持ち直した。


何度か、指先に力が入って、抜ける。


「……この前は」


「うん」


「助かりましたわ」


クロが顔を上げた。


「腕?」


「腕も。水桶も。籠も。……色々です」


言った。


言ってしまった。


クレアは水桶を見下ろした。揺らさないように、今度は慎重に持つ。指先に力を入れすぎない。呼吸も乱さない。


クロは、少しだけ瞬きをした。


それから頷く。


「うん。クレアがそう思ったなら、よかった」


また、それだった。


よかった。


その言い方は、どうにもずるいと思った。


礼を言わせたわけでもない。恩に着せるわけでもない。軽く流しているようで、そうではない。ちゃんと聞いて、ちゃんと受け取って、それで終わる。


クレアは何か言い返そうとして、やめた。


水桶の向こうで、クロの耳が少しだけ動いている。


本当に、調子が狂う。


「……行きますわよ」


「うん」


二人で水桶を運ぶ。


以前より、水はこぼれなかった。




その頃には、見習いたちの間にも、自然と役割のようなものができ始めていた。


力のある者は重い籠を持つ。細かいところに気づく者は餌場の隅を見る。無理をしそうな者には、隣から声が飛ぶ。


最初は顔をしかめていた竜糞の処理も、今では誰かが息を止め、誰かが「見るな、手を動かせ」と言うくらいには日常になっていた。


クレアは相変わらず、竜糞の前では魂を少し遠くへやる顔をした。


けれど、手は止めなかった。


クロがそれを見ると、クレアは低い声で言う。


「何ですの」


「今日は早い」


「慣れたくはありません」


「でも早い」


「褒めないでください」


「すごい」


「褒めないでくださいと言いました」


そう言いながらも、クレアは道具を置かなかった。


竜舎番は、そんな見習いたちをしばらく見ていた。


そして昼前、作業が一区切りついたところで、見習いたちを集めた。


「明日から、竜舎仕事は組ごとの当番制にする」


竜舎の空気が少し動いた。


見習いたちは顔を上げる。疲れた顔もある。泥のついた靴もある。けれど、その目には初日のような浮つきはなかった。


「全員で一斉に動く段階は終わりだ。寝藁、水桶、餌場、通路、糞の処理。担当を分ける。自分の組がどこを見るのか、どの道具を使うのか、相方と確認して動け」


誰かが小さく息を呑んだ。


それは楽になる、という意味ではなかった。


自分たちで確認して動く。


それは、間違えた時の責任も少しだけ重くなるということだった。


竜舎番は続けた。


「竜舎に入らない組は、その時間で基礎訓練に移る」


訓練。


その言葉だけで、見習いたちの背筋が伸びた。


竜騎士団に入った。見習いになった。竜舎で働いた。だが、訓練という言葉には、やはり別の重さがあった。


誰かの目が輝きかける。


竜舎番は、それを見てすぐに言った。


「竜に乗る訓練ではない。乗る前の準備だ」


輝きかけた目が、少しだけ元に戻る。


「竜のそばで動ける身体を作る。鞍具を扱える力をつける。走る、支える、転ぶ、起きる。竜の身体、癖、嫌がること、近づいていい時と悪い時を覚える」


竜舎番は見習いたちを見回した。


「竜を知らん者を、竜の背には乗せん」


竜舎番はそれ以上説明せず、竜舎の入口の方へ目を向けた。


「そのための教官が来ている」


ざわめきは起きなかった。


けれど、泥と藁の匂いの中で、空気だけが少し硬くなった。


見習いたちの視線が、竜舎番の背後へ向く。


石畳を踏む音がした。


一歩。


それから、もう一歩。


左右で、音が少し違った。


片方は、柔らかい。普通の靴底が石を踏む音だった。


もう片方は、少し硬い。短く、乾いた音が混じった。


クロの耳が、ぴくりと動いた。


竜舎の入口から、一人の男が入ってきた。


外套は着ていない。動きやすい服に、使い込まれた革の手袋。腰には訓練用の短い木剣を下げ、片手には薄い記録板を持っている。


眠そうな目をした男だった。


歩き方はゆっくりに見える。けれど、不思議と遅くはない。竜のそばで慌てずに動く人間の歩き方だった。床を見る。周りを見る。見習いたちの列を見る。それから、竜舎の奥には目を向けないまま、竜舎番の横に立った。


片足だけが、ほんの少し違っていた。


クロはその顔を見た。


眠そうな目。


少し面倒くさそうな空気。


それなのに、周りをちゃんと見ている感じ。


冬の日の記憶が、胸の奥で静かに重なった。


黒い竜の背にいた人だ。


クレアも、何かに気づいたように息を止めた。


名を知っているのかもしれない。あるいは、足音の違いを聞いたのかもしれない。けれど、何も言わなかった。


男は見習いたちをざっと見た。


「レイヴンだ」


短い声だった。


高くも低くもない。だが、竜舎の中で妙によく通った。


「明日から、お前たちを見る」


それから、少しだけ目を細める。


「教官と呼べ」


見習いたちの返事が、少し遅れて揃った。


「はい!」


レイヴンは頷いたのか、頷いていないのか分からない程度に顎を動かした。


「竜を甘く見るな。怖がるな、とは言わない。怖いなら、怖いまま覚えろ」


そこで、レイヴンは一度言葉を切った。


眠そうな目が、見習いたちを静かに通り過ぎていく。


「竜はお前たちの憧れのために飛ぶわけじゃない。竜には竜の息がある。重さがある。嫌うものがある。誇りもある。それを知らずに近づけば、怪我で済まない」


声は淡々としていた。


怒っているわけでも、脅しているわけでもない。


ただ、知っていることをそのまま置くような声だった。


その言葉に、クレアの指がほんの少しだけ動いた。


手袋の端を、つまむように。


クロはそれを見た。


クレアは前を向いている。顔色は悪くない。背筋も伸びている。


けれど、怖いなら、怖いまま。


その言葉だけが、指先に触れたように見えた。


クロは、少しだけ首をかしげた。


竜のことを言った時だけ、レイヴンの目に、ほんの少し影が差した気がした。


ほんの少し。


すぐに消えたので、たぶん他の見習いたちは気づいていない。


でも、クロには見えた。


何の影なのかは、まだ分からない。


ただ、その影を見た瞬間、なぜか竜舎の奥が気になった。


クロはゆっくり、竜舎の奥へ目を向けた。


黒い竜の片目が開いていた。


眠っているふりをしていた目ではなかった。


その目は、レイヴンを見ていた。


レイヴンは、そちらを見なかった。


見えていないわけではないのだと、なぜかクロには分かった。


ただ、見なかった。


硬い方の足先が、石の床を小さく鳴らす。


竜舎の奥の空気だけが、静かに重くなった。

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