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一章 第10話 「あの日見た黒」

それから数日、クロは黒い竜を見た。


近づかない。声もかけない。白い線を越えない。


竜舎番に言われたことは守った。クレアにも何度も見られた。だからクロは、決められた場所で作業をしながら、竜舎の奥を見るだけにした。


それだけでも、分かることはあった。


黒い竜は、ほとんど動かない。


朝も、昼も、夕方も、同じように奥で横たわっている。眠っているように見える日もあれば、片目だけを開けている日もある。尾の先が床についている日と、少しだけ浮いている日がある。竜舎番が近くを通る時だけ、耳の後ろがほんのわずかに動くこともあった。


けれど、それだけだった。


大きく首を上げることはない。翼を広げることもない。他の竜に向かって声を出すこともない。


竜舎の奥の空気ごと、そこに沈んでいるようだった。


クロは水桶を運び、古い藁を籠へ入れ、通路を掃きながら、その黒を見た。見る時間は短い。長く見すぎると、竜舎番に止められるからだ。


それでも、毎日見た。


そうやって距離を測っているうちに、クロは、ジェミノ村でかけしっぽを見ていた時のことを少し思い出した。


石垣の隙間にいた小さな蜥蜴は、近づくと逃げた。だからクロは、近づかなかった。少し離れたところでしゃがんで、石の上で身体を温める様子や、尾を揺らす速さや、虫に飛びつく瞬間を見ていた。


かけしっぽは小さかった。


黒い竜は、とても大きい。


けれど、近づきすぎると離れてしまうものがあるのは、少し似ていた。


「……また見ていますわね」


隣で、クレアが低く言った。


クロは濡れた藁を籠へ移しながら、頷いた。


「うん」


「竜舎番に注意されたばかりでしょう」


「今は少しだけ」


「その少しが信用できません」


「白い線は越えてない」


「目線の話をしていますの」


クロは黒い竜から目を戻した。


「クレアも見てる」


「私は、あなたが妙なことをしないか確認しているだけです」


「そっか」


「そっか、ではありません」


クレアはそう言って、手袋をはめ直した。


顔はいつも通りだった。少し冷たくて、少し硬い。けれど、黒い竜の方を見る時だけ、指先に力が入る。クロはそれに気づいていた。


クレアは、怖い。


でも、見ている。


それは前よりも、少しはっきり分かった。




竜舎の仕事は、毎日同じようで少しずつ違った。


同じ寝藁でも、汚れ方は竜ごとに違う。同じ水桶でも、よく飲む竜とあまり減らさない竜がいる。同じ通路でも、泥が溜まりやすい場所と、藁が風で寄る場所がある。


クロはそれを覚えた。


クレアも覚えた。


相変わらず汚れた藁を持つ時には眉が動くし、竜糞の処理では魂が少し遠くへ行く顔をする。けれど、道具を取る手は早くなった。桶の水が揺れた時も、最初より足の運びが乱れない。


「クレア、上手くなった」


クロが言うと、クレアは少しだけ顔を横へ向けた。


「当然です。同じことを何度もしていれば、多少は慣れます」


「すごい」


「……その言い方、子供を褒めているようで腹が立ちますわね」


「ん、ごめんなさい」


「きゅ、急に謝らないでくださいまし」


「じゃ、今のは無し」


「……謝罪は取り消さなくてけっこうですわ」


そう言いながら、クレアは水桶の反対側を持ち直した。


二人で運ぶと、水は前よりこぼれなかった。




その日の夜、部屋は静かだった。


竜舎仕事を終え、夕食を食べ、支給品を片づける。昨日までなら、クレアは上段へ上がるとすぐに黙った。疲れているのを認めないまま、早めに布団を被ることが多かった。


けれど、その夜は少し違った。


クロが下段の寝台に腰を下ろし、腕章を外して机の上へ置いた時、上段から布の擦れる音がした。クレアはまだ眠る姿勢ではなかった。


何か言いたそうな気配があった。


クロは顔を上げた。


「クレア?」


「……何でもありません」


「そっか」


「そこで終わらないでください」


「何でもないって言ったから」


上段で、小さく息を吐く音がした。


しばらく沈黙が落ちた。窓の外では、遠く竜が鳴いている。低く、長い音だった。もう聞き慣れてきたはずなのに、夜に聞くと少しだけ胸の奥に響く。


やがて、クレアが言った。


「なぜ、あの黒い竜を見るのですか」


声は、思っていたよりも静かだった。


クロは寝台の上で瞬きをした。


「なぜ?」


「毎日、見ていますでしょう」


「うん」


「普通は、あそこまで見ません」


「そうなの?」


「そうです」


クレアの声が少しだけ硬くなる。


「怖いからではありません。危険だからです。竜舎番も、あの竜には近づくなと言っています。目線も合わせすぎるなと。あなたも聞いていたはずです」


「聞いてた」


「なら、なぜ見ますの」


クロは少し考えた。


なぜ。


それは、すぐには言葉にしにくかった。


黒いから。


大きいから。


強かったから。


あの冬の日に、助けてくれたから。


今は遠いから。


クロは膝の上で指を組んだ。


「前に見たから」


上段の気配が、少し動いた。


「ジェミノ村で?」


「うん。まだジェミノ村じゃなかったころの、冬」


クロはゆっくり頷いた。


「寒い日だった。私たちの村は、飢えた魔狼の群れに囲まれたの」


「魔狼……」


「柵を壊して入ってきた。私たちが居る小屋の近くまで来た」


あの日の匂いを、クロは少しだけ思い出した。


冷たい空気。湿った木の匂い。凍った土。そして、獣の匂い。


「怖かった?」


クレアが訊いた。


クロは頷いた。


「怖かった。でも、黒い竜が来た」


「……黒い竜」


「うん」


クレアは何か言いかけて、やめたようだった。


クロは続けた。


「大きくて、黒くて、雪の上でも夜みたいだった。魔狼の前に立って、通さなかった。身体を低くして、爪で土を掴んで、翼を少し開いて。魔狼は小屋に近づけなくなった」


言葉にすると、少しずつ思い出が形になっていく。


「その背に、竜騎士がいた。眠そうな目の人。少し面倒くさそうで、でも周りをよく見てた」


クレアは黙って聞いていた。


「黒い竜は、強かった。すごく強かった」


クロは一度、そこで言葉を切った。


「その時は、言えなかった。怖くて、眠くて、お父さんの手を握ったまま寝たから」


「あ……」


クレアの声が、小さく落ちた。


「次の日、言った。あの竜が強いから、ずっと見てたって。そうしたら、黒い竜が少し誇らしげにした」


「竜が、ですか」


「うん」


「誇らしげに」


「うん」


「……」


「胸を張るみたいな感じ。大きい竜だから、少し動くだけだけど。そう見えた」


クレアはしばらく黙った。


竜を道具としてしか見ない人間なら、笑ったかもしれない。けれどクレアは笑わなかった。ただ、考えているようだった。


「その竜騎士は?」


「小隊長って呼ばれてた。黒い竜がちょっと誇らしげにしたら、面倒くさそうな顔をしてた。でも、少し楽しそうだった」


クロは目を細めた。


「近かった」


「何がですか」


「竜と、小隊長」


上段が静かになった。


「近くにいた、という意味ではなく?」


「うん。そうじゃなくて。同じものを見てる感じだった」


クロは言った。


「あの時の黒い竜は、遠くなかった」


クレアはすぐには答えなかった。


下段からでは顔は見えない。けれど、クレアが布団の端を指で触っている気配がした。


「今は、遠いのですね」


「うん」


クロは小さく頷いた。


「同じ黒なのに、違う。今は、強かったって言ったら、竜舎が重くなった」


クロは膝の上で、指を少しだけ握った。


「強いって、言われたくないみたいだった」


「……あの竜を前にして、それを普通に言えるのが、少し怖いです」


「そう?」


「そうです」


クレアは低く言った。


「でも」


少し間が空いた。


「あの黒い竜が、人を助けた竜だったことは、分かりました」


クロは上を見た。


「うん」


「最初から、竜舎の奥でああしていたわけではないのですね」


「うん」


「……そうですか」


その声は、いつもより少しだけ小さかった。


クロは、それ以上何も言わなかった。




けれど、話はそこで終わらなかった。


クロは思い出したことを、ぽつりぽつりと続けた。


魔狼が止められたあと、兵士たちが動いたこと。村の人たちが小屋から出てきたこと。父の手があたたかかったこと。


それから。


「あ、あと、桜色の竜も来た」


上段の空気が、止まった。


本当に止まった気がした。


布の擦れる音が、ぴたりと消える。さっきまで聞こえていたクレアの呼吸まで、少し浅くなった。


クロは耳を動かした。


「クレア?」


「……桜色?」


声が少し変わっていた。


「うん」


「深緑ではなく?」


「深緑じゃない。淡い桜色。光が当たると、鱗のふちに少し赤が出た。花みたいだけど、もっと血が通ってるみたいな赤」


「……」


「きれいだった」


上段から返事はない。


クロは少しだけ首をかしげた。


「その竜は」


クレアの声が、さっきより低くなった。


「その竜は、何と呼ばれていましたか」


「ロザ」


クロはすぐに答えた。


上段が、完全に静かになった。


沈黙が長い。


長すぎる。


布団の端を握るような、小さな音がした。たぶん、寝る音ではなかった。


クロは耳を立てた。


「クレア?」


「……続けてください」


「うん」


「できるだけ正確に」


「正確に?」


「正確に、です」


声は落ち着いていた。


落ち着いているように聞こえた。


けれど、何かが違った。さっきまでの黒い竜の話を聞いていた時とは、明らかに違う。布が少し擦れる。クレアが上段で身を起こしたのかもしれない。


「その竜に乗っていた方は」


「竜騎士」


「それは分かります」


「女の人」


「……」


「強そうだった」


「それも、分かります」


「きれいだった」


「それも、分かります」


クロは少し困った。


「クレア、知ってるの?」


「知っているなどという言葉で済ませていい方ではありません」


早かった。


返事が、少し早すぎた。


クロは目を丸くした。


「そうなんだ」


「そうです」


「すごい人?」


「すごいなどという言葉でも足りません」


「そうなんだ」


「そうです」


クロは上段を見た。


クレアの顔は見えない。けれど、声だけで分かった。


いつもの冷たさとは違う。怒っているのでもない。怖がっているのでもない。


何かが、静かに燃えている。


「クレア」


「何ですか」


「近い」


「近くありません」


「声が」


上段が黙った。


クロは少し考えた。


「黒い竜の時より、よく喋る」


しばらく、何も返ってこなかった。


やがて、布が大きく擦れる音がした。


「……寝ます」


「うん」


「今の話は、明日以降、改めて聞きます」


「うん」


「忘れないでください」


「忘れない」


「絶対に」


「うん」


「……軽い」


クロは小さく頷いた。


上段はそれきり黙った。


けれど、クレアがすぐに眠った気配はなかった。ずっと、起きている気配がする。


黒い竜の話をしたあと。


桜色の竜の名前を言ったあと。


クレアは何かを考えているようだった。


それが黒い竜のことなのか、桜色の竜のことなのか、クロには少し分からなかった。


窓の外で、遠く竜が鳴いた。


低く、長い音だった。


クロは目を閉じた。


竜舎の奥にいる黒い竜。


冬の日に見た黒い竜。


それから、朝の光の中で見た桜色の竜。


どれも、同じ空の下にいた。


けれど今は、どれも少し遠い。


クロはそれを胸の奥に置いたまま、ゆっくり眠りに落ちていった。

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