一章 第9話 「竜舎の奥」
翌朝、クロは竜の声で目を覚ました。
昨日と同じ、低く長い音だった。下段の寝台で目を開けると、上段から布の擦れる音がした。クレアは、もう起きていた。
「おはよう」
クロが言うと、上から少し間を置いて返事が落ちてきた。
「……おはようございます」
いつもの声だった。少し冷たくて、少し硬い。
クロは寝台から下り、腕章を手に取った。小さな竜騎士団の紋章が、今日もそこにある。腕に巻くと、布が少しだけ肌に擦れた。
「ついた」
「毎朝言うつもりですか」
「たぶん」
「……そうですか」
クレアはそれ以上言わなかった。
はしごを下りる動きは、昨日より少しだけぎこちなかった。包帯を巻いた腕をかばっているのもある。身体の疲れがまだ残っているのもあるのだろう。
クロはそれを見た。クレアは、すぐに視線だけでこちらを見る。
「何ですの」
「腕、痛い?」
「痛くありません」
「そっか」
「そこで納得しないでください」
「痛い?」
「……痛くありません」
同じ答えだった。けれど、二度目の声はほんの少しだけ弱かった。
クロは頷いた。
クレアは床へ下りると、何事もなかったように服の裾を整えた。髪も、襟も、表情も、いつものように整っている。
整いすぎている気がした。
クロが見ていると、クレアは眉を寄せた。
「まだ何か?」
「ううん」
「その顔は、何か考えていますわ」
「ちゃんとしてる」
クレアの手が止まった。ほんの一瞬だった。
「当然です」
そう言って、クレアは少し早く扉へ向かった。
クロはその後ろ姿を見てから、自分の腕章をもう一度だけ指で押さえた。
竜舎の二日目は、昨日より少しだけ静かに始まった。
見習いたちは朝食を終えると、自然に竜舎の前へ集まった。昨日のような浮ついた声はほとんどない。誰もが、今日も同じ仕事が待っていることを知っていた。
竜舎番は、昨日と同じ作業着で立っていた。
「昨日よりは動けるな」
最初にそう言われ、見習いたちの何人かが顔を上げた。褒められたのか、ただの確認なのか、判断に困る声だった。
「だが、慣れたつもりになるな。竜舎では、慣れたと思った時が一番危ない。昨日と同じように、勝手に動くな。指示を聞け」
「はい!」
返事だけは、昨日より揃っていた。
作業が始まると、確かに昨日より少しだけ動きはよくなっていた。誰が道具を取り、どこへ藁をまとめるか。まだぎこちないが、一つ一つ立ち止まることは減っている。
クロは熊手を手に取り、湿った藁の色を見た。
昨日より分かる。
どこが重いか。どこが滑るか。どこで足を止めると邪魔になるか。
クレアも、昨日より早かった。顔色はあまりよくない。けれど、道具を取る手は昨日ほど迷わない。湿った藁を前にしても、眉を動かすだけで手は止めなかった。
クロはそれを見た。
「昨日より早い」
クレアの手が、一瞬止まる。
「同じ失敗を繰り返す趣味はありません」
「すごい」
「……当然です」
少しだけ返事が遅かった。
クロは頷き、また藁を集め始めた。クレアは横目でそれを見てから、小さく息を吐いた。怒っているようにも見えたし、そうではないようにも見えた。
昼前になって、竜舎番がクロとクレアを呼んだ。
「クロ・レインフォート。クレア・レーヴェンハルト」
「はい」
「……はい」
二人は道具を持ったまま振り向く。竜舎番は奥の通路を指した。
「奥の通路を掃け。昨日は手を入れていない場所だ」
クロの耳が、ぴくりと動いた。
奥。
そこには、黒い竜がいる。
クレアの指が、道具の柄を少し強く握った。
竜舎番は二人の顔を見てから、続けた。
「ただし、黒い竜の区画には入るな。床に白い線がある。そこから先へ出るな。声をかけるな。手を出すな」
そこで一度、クロを見た。
「それと、目線を合わせ過ぎるな」
クロは少しだけ首をかしげた。
「見るのも?」
「そうだ」
短い肯定だった。
クレアが、すぐにクロを見る。
「聞きましたわね」
「うん」
「特に最後です」
「うん」
「……軽い」
「ちゃんと聞いた」
「なら、その耳だけではなく頭にも入れておいてください」
クロは頷いた。
竜舎番は二人に掃除道具と小さな籠を渡した。
「奥は暗い。足元を見ろ。音を立てすぎるな。他の見習いを呼ぶな。何かあれば俺を呼べ」
「はい」
クロは答えた。クレアも、少し遅れて頷いた。
奥へ向かうにつれて、竜舎の空気は少しずつ変わった。
入口に近い区画では、竜の鼻息や尾が床を擦る音、見習いたちの足音、竜舎番の声が混ざっていた。けれど奥へ進むほど、それらの音は遠くなる。
静かだった。
静かすぎるほどだった。
他の竜たちの区画を通り過ぎる時、何頭かの竜が首を動かした。けれど、奥のさらに暗い場所へは、あまり顔を向けない。クロはそれを見た。クレアも見ていた。
奥の通路には、昨日よりも冷えた空気があった。高い窓からの光は届いているが、薄い。床には細かな砂と藁のくずが溜まり、端には古い泥が乾いている。
そして、その向こう。
黒い竜がいた。
昨日と同じ場所にいた。
大きな身体を低く沈め、翼を畳み、首を床近くへ置いている。眠っているように見える。けれど、片目だけが開いていた。その目がこちらを見ているのか、ただ開いているだけなのか、クロにはまだ分からなかった。
クレアの足が、ほんの少し止まった。
クロはそれに気づいた。けれど、何も言わなかった。
クレアは道具の柄を握り直し、視線を逸らさなかった。顔色は少し悪い。唇も固い。けれど、ちゃんと見ていた。
怖いのに、見ている。
昨日もそうだった。
でも今日は、昨日より少しだけ、竜を見ようとしている気がした。
「ここから掃く」
クロは小さく言った。
「分かっています」
クレアは低く返した。
二人は白い線の手前で足を止めた。それは、床に引かれた簡単な線だった。白い粉か、削った石か、何かで薄く引かれている。これより先に入るな、という線。
線の向こうには、黒い竜の区画がある。
クロは線を見た。それから、黒い竜を見た。
「線を見たなら、守ってください」
クレアが言った。
「うん」
「本当に」
「うん」
「……信用なりませんわね」
クロは頷いた。
作業は静かに始まった。
二人で通路の端から掃いていく。藁のくずを寄せ、乾いた泥を削り、籠へ入れる。大きな音を立てないように、道具を床へ強く当てない。
クレアは時々、黒い竜を見た。すぐに目を戻す。また少しして、見る。
怖いのだろう。
クロはそれを見てから、自分も黒い竜を見た。
「見すぎです」
クレアが小さく言った。
「まだ少し」
「少しではありません」
「クレアも見てる」
「私は確認しているだけです」
「そっか」
「そっか、で済ませないでください」
その時、少し離れたところから竜舎番の声が飛んだ。
「クロ。そこまでだ」
クロは足元を見た。
「近づいてない」
「足はな」
竜舎番は短く言った。
「見すぎだ」
クロは瞬きをした。
「見すぎ」
「そうだ」
竜舎番の声は低かった。
「見過ぎるのも、竜に近づくのと同じだ」
クレアが隣で息を呑んだ。それから、小さく言う。
「……言われていますわよ」
「うん」
クロは頷いた。
けれど、すぐには目を逸らせなかった。
黒い竜は動かない。
動かないのに、そこにいるだけで、竜舎の奥の空気を押さえている。
クロは、その重さを覚えていた。
冬のジェミノ村で見た時も、あの竜は魔狼の前に立っていた。黒い身体を低く構え、爪で土を掴み、翼をわずかに開くだけで、群れを小屋へ近づけなかった。
怖かった。
けれど、それ以上に、強いと思った。
あの竜がいたから、助かった。
クロは、その時の感覚をもう一度胸の奥に見つけた。
「……強かった」
言葉が落ちた瞬間、竜舎の奥の空気が重くなった。
黒い竜の片目が、細くなる。
眠っているふりをしていた目ではなかった。
聞いていた。
竜舎番の顔が、はっきり変わった。
「そこまでだ」
さっきより低い声だった。
クロは口を閉じた。
黒い竜の尾の先が、一度だけ床を叩いた。低く、小さな音だった。
けれど、その音を聞いた竜舎番が、一歩こちらへ近づいた。
「クロ。下がれ」
クロは瞬きをした。
「近づいてない」
「危険だ」
竜舎番は、黒い竜から目を離さずに言った。
「さっきの言葉をこいつの前で言うな」
クレアが隣で息を呑んだ。
クロは黒い竜を見た。
怒ったのか。
嫌だったのか。
それとも、別の何かだったのか。
まだ分からない。
けれど、自分の言葉が届いたことだけは分かった。
「……はい」
クロは素直に頷いた。
一歩下がる。
近づかない。
そう言われたから。
でも、見ていた。
黒い竜はまた、眠っているように動かなくなった。
尾の先が一度だけ床を叩いた音だけが、クロの耳に残っていた。
クレアは何も言わなかった。少しして、もう一度だけ黒い竜を見た。
恐ろしいものを見る顔だった。
それから、何かを確かめるように、クロの横顔を見つめた。
竜舎の奥は、また静かになっていた。
けれど、その静けさはもう、さっきまでとは少し違っていた。




