表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/80

一章 第9話 「竜舎の奥」

翌朝、クロは竜の声で目を覚ました。


昨日と同じ、低く長い音だった。下段の寝台で目を開けると、上段から布の擦れる音がした。クレアは、もう起きていた。


「おはよう」


クロが言うと、上から少し間を置いて返事が落ちてきた。


「……おはようございます」


いつもの声だった。少し冷たくて、少し硬い。


クロは寝台から下り、腕章を手に取った。小さな竜騎士団の紋章が、今日もそこにある。腕に巻くと、布が少しだけ肌に擦れた。


「ついた」


「毎朝言うつもりですか」


「たぶん」


「……そうですか」


クレアはそれ以上言わなかった。


はしごを下りる動きは、昨日より少しだけぎこちなかった。包帯を巻いた腕をかばっているのもある。身体の疲れがまだ残っているのもあるのだろう。


クロはそれを見た。クレアは、すぐに視線だけでこちらを見る。


「何ですの」


「腕、痛い?」


「痛くありません」


「そっか」


「そこで納得しないでください」


「痛い?」


「……痛くありません」


同じ答えだった。けれど、二度目の声はほんの少しだけ弱かった。


クロは頷いた。


クレアは床へ下りると、何事もなかったように服の裾を整えた。髪も、襟も、表情も、いつものように整っている。


整いすぎている気がした。


クロが見ていると、クレアは眉を寄せた。


「まだ何か?」


「ううん」


「その顔は、何か考えていますわ」


「ちゃんとしてる」


クレアの手が止まった。ほんの一瞬だった。


「当然です」


そう言って、クレアは少し早く扉へ向かった。


クロはその後ろ姿を見てから、自分の腕章をもう一度だけ指で押さえた。




竜舎の二日目は、昨日より少しだけ静かに始まった。


見習いたちは朝食を終えると、自然に竜舎の前へ集まった。昨日のような浮ついた声はほとんどない。誰もが、今日も同じ仕事が待っていることを知っていた。


竜舎番は、昨日と同じ作業着で立っていた。


「昨日よりは動けるな」


最初にそう言われ、見習いたちの何人かが顔を上げた。褒められたのか、ただの確認なのか、判断に困る声だった。


「だが、慣れたつもりになるな。竜舎では、慣れたと思った時が一番危ない。昨日と同じように、勝手に動くな。指示を聞け」


「はい!」


返事だけは、昨日より揃っていた。


作業が始まると、確かに昨日より少しだけ動きはよくなっていた。誰が道具を取り、どこへ藁をまとめるか。まだぎこちないが、一つ一つ立ち止まることは減っている。


クロは熊手を手に取り、湿った藁の色を見た。


昨日より分かる。


どこが重いか。どこが滑るか。どこで足を止めると邪魔になるか。


クレアも、昨日より早かった。顔色はあまりよくない。けれど、道具を取る手は昨日ほど迷わない。湿った藁を前にしても、眉を動かすだけで手は止めなかった。


クロはそれを見た。


「昨日より早い」


クレアの手が、一瞬止まる。


「同じ失敗を繰り返す趣味はありません」


「すごい」


「……当然です」


少しだけ返事が遅かった。


クロは頷き、また藁を集め始めた。クレアは横目でそれを見てから、小さく息を吐いた。怒っているようにも見えたし、そうではないようにも見えた。




昼前になって、竜舎番がクロとクレアを呼んだ。


「クロ・レインフォート。クレア・レーヴェンハルト」


「はい」


「……はい」


二人は道具を持ったまま振り向く。竜舎番は奥の通路を指した。


「奥の通路を掃け。昨日は手を入れていない場所だ」


クロの耳が、ぴくりと動いた。


奥。


そこには、黒い竜がいる。


クレアの指が、道具の柄を少し強く握った。


竜舎番は二人の顔を見てから、続けた。


「ただし、黒い竜の区画には入るな。床に白い線がある。そこから先へ出るな。声をかけるな。手を出すな」


そこで一度、クロを見た。


「それと、目線を合わせ過ぎるな」


クロは少しだけ首をかしげた。


「見るのも?」


「そうだ」


短い肯定だった。


クレアが、すぐにクロを見る。


「聞きましたわね」


「うん」


「特に最後です」


「うん」


「……軽い」


「ちゃんと聞いた」


「なら、その耳だけではなく頭にも入れておいてください」


クロは頷いた。


竜舎番は二人に掃除道具と小さな籠を渡した。


「奥は暗い。足元を見ろ。音を立てすぎるな。他の見習いを呼ぶな。何かあれば俺を呼べ」


「はい」


クロは答えた。クレアも、少し遅れて頷いた。




奥へ向かうにつれて、竜舎の空気は少しずつ変わった。


入口に近い区画では、竜の鼻息や尾が床を擦る音、見習いたちの足音、竜舎番の声が混ざっていた。けれど奥へ進むほど、それらの音は遠くなる。


静かだった。


静かすぎるほどだった。


他の竜たちの区画を通り過ぎる時、何頭かの竜が首を動かした。けれど、奥のさらに暗い場所へは、あまり顔を向けない。クロはそれを見た。クレアも見ていた。


奥の通路には、昨日よりも冷えた空気があった。高い窓からの光は届いているが、薄い。床には細かな砂と藁のくずが溜まり、端には古い泥が乾いている。


そして、その向こう。


黒い竜がいた。


昨日と同じ場所にいた。


大きな身体を低く沈め、翼を畳み、首を床近くへ置いている。眠っているように見える。けれど、片目だけが開いていた。その目がこちらを見ているのか、ただ開いているだけなのか、クロにはまだ分からなかった。


クレアの足が、ほんの少し止まった。


クロはそれに気づいた。けれど、何も言わなかった。


クレアは道具の柄を握り直し、視線を逸らさなかった。顔色は少し悪い。唇も固い。けれど、ちゃんと見ていた。


怖いのに、見ている。


昨日もそうだった。


でも今日は、昨日より少しだけ、竜を見ようとしている気がした。


「ここから掃く」


クロは小さく言った。


「分かっています」


クレアは低く返した。


二人は白い線の手前で足を止めた。それは、床に引かれた簡単な線だった。白い粉か、削った石か、何かで薄く引かれている。これより先に入るな、という線。


線の向こうには、黒い竜の区画がある。


クロは線を見た。それから、黒い竜を見た。


「線を見たなら、守ってください」


クレアが言った。


「うん」


「本当に」


「うん」


「……信用なりませんわね」


クロは頷いた。


作業は静かに始まった。


二人で通路の端から掃いていく。藁のくずを寄せ、乾いた泥を削り、籠へ入れる。大きな音を立てないように、道具を床へ強く当てない。


クレアは時々、黒い竜を見た。すぐに目を戻す。また少しして、見る。


怖いのだろう。


クロはそれを見てから、自分も黒い竜を見た。


「見すぎです」


クレアが小さく言った。


「まだ少し」


「少しではありません」


「クレアも見てる」


「私は確認しているだけです」


「そっか」


「そっか、で済ませないでください」


その時、少し離れたところから竜舎番の声が飛んだ。


「クロ。そこまでだ」


クロは足元を見た。


「近づいてない」


「足はな」


竜舎番は短く言った。


「見すぎだ」


クロは瞬きをした。


「見すぎ」


「そうだ」


竜舎番の声は低かった。


「見過ぎるのも、竜に近づくのと同じだ」


クレアが隣で息を呑んだ。それから、小さく言う。


「……言われていますわよ」


「うん」


クロは頷いた。


けれど、すぐには目を逸らせなかった。


黒い竜は動かない。


動かないのに、そこにいるだけで、竜舎の奥の空気を押さえている。


クロは、その重さを覚えていた。


冬のジェミノ村で見た時も、あの竜は魔狼の前に立っていた。黒い身体を低く構え、爪で土を掴み、翼をわずかに開くだけで、群れを小屋へ近づけなかった。


怖かった。


けれど、それ以上に、強いと思った。


あの竜がいたから、助かった。


クロは、その時の感覚をもう一度胸の奥に見つけた。


「……強かった」


言葉が落ちた瞬間、竜舎の奥の空気が重くなった。


黒い竜の片目が、細くなる。


眠っているふりをしていた目ではなかった。


聞いていた。


竜舎番の顔が、はっきり変わった。


「そこまでだ」


さっきより低い声だった。


クロは口を閉じた。


黒い竜の尾の先が、一度だけ床を叩いた。低く、小さな音だった。


けれど、その音を聞いた竜舎番が、一歩こちらへ近づいた。


「クロ。下がれ」


クロは瞬きをした。


「近づいてない」


「危険だ」


竜舎番は、黒い竜から目を離さずに言った。


「さっきの言葉をこいつの前で言うな」


クレアが隣で息を呑んだ。


クロは黒い竜を見た。


怒ったのか。


嫌だったのか。


それとも、別の何かだったのか。


まだ分からない。


けれど、自分の言葉が届いたことだけは分かった。


「……はい」


クロは素直に頷いた。


一歩下がる。


近づかない。


そう言われたから。


でも、見ていた。


黒い竜はまた、眠っているように動かなくなった。


尾の先が一度だけ床を叩いた音だけが、クロの耳に残っていた。


クレアは何も言わなかった。少しして、もう一度だけ黒い竜を見た。


恐ろしいものを見る顔だった。


それから、何かを確かめるように、クロの横顔を見つめた。


竜舎の奥は、また静かになっていた。


けれど、その静けさはもう、さっきまでとは少し違っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ