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間幕 「同じ部屋の黒猫」

眠れない。


身体は疲れているはずだった。


腕はまだ少し痛い。腰も重い。指先には、何度洗っても竜舎の匂いが残っている気がする。藁。泥。革油。水。あと、思い出したくないもの。


思い出したくない。


思い出したくないのに、少し気を抜くと、竜舎の奥にあった得体の知れない大きな黒が頭の中に戻ってくる。


クレアは上段の寝台で、静かに目を閉じた。


違う。


それではない。


考えるべきは、そこではない。


下段から、小さな寝息が聞こえていた。


黒猫の寝息だった。


クロ・レインフォート。


ジェミノ村から来た、小柄な猫獣人の少女。竜用の鞍を担ぎ、模擬騎乗台で落ちず、竜が噛みつく直前に自分を引いた子。


そして今日、竜舎の泥の中で、何度も余計なことをした子。


余計なこと。


そう、余計なことだ。


水桶を運ぶ時、こちらの腕が少し遅れただけで、持つ位置を変えた。糞の籠を運ぶ時も、こちらが足を取られただけで、すぐに重さを支えた。食堂では食べろと言った。部屋に戻ってからは、疲れているのかと訊いた。


本当に、余計なことばかり。


クレアは薄く目を開けた。


天井に近い暗がりが見える。下段の板の向こうに、黒猫がいる。昨日から同じ部屋になった黒猫。今日から同じ組として動く黒猫。


よく分からない。


普通、助けたなら、もう少し何かを求めるものではないのだろうか。礼を言え、とまでは言わなくても、こちらを見る目に少しはそういう色が混じるものではないのだろうか。


けれど、あの子は何も求めてこない。


礼を待っている様子もない。


責める様子もない。


恩に着せる様子もない。


ただ、見る。


腕が痛そうなら見る。歩くのが遅ければ見る。皿に食事が残っていれば見る。黒い竜の前で固まれば、たぶんまた見る。


あの子は、いつも見る。


クレアは布団の端を指でつまんだ。


礼を言わなければならない。


それは分かっている。


助けられたのだから。


命を、少なくとも腕を、救われたのだから。


水桶の時も、籠の時も、あの黒猫は自分の分まで重さを受けた。今日だって、本当なら礼を言う機会はいくらでもあった。


ありがとうございます。


その一言でいい。


礼法なら知っている。感謝を伝える言葉も、姿勢も、声の高さも、相手に失礼のない目線も、何度も教えられてきた。


レーヴェンハルトの娘が、礼も言えないなど、あり得ない。


あり得ない。


あり得ない、はずなのに。


「……」


言えなかった。


なぜ。


なぜ、あの黒猫を前にすると、喉の奥が変に詰まるのか。


相手が偉大な竜騎士なら言える。父の部下なら言える。王城の使者にも言える。儀礼の場なら、いくらでも言える。


ありがとうございます。


お手数をおかけしました。


ご配慮、痛み入ります。


そんな言葉なら、いくつでも知っている。


なのに、下段で普通に寝息を立てている黒猫には言えない。


クレアは眉を寄せた。


下段から、すう、と静かな息が聞こえる。


なぜ眠れるのだろう。


あんなに黒い竜を見ていたのに。


あの竜は危険だ。そう見えた。こちらを見ているようで見ていない。眠っているようで眠っていない。近づけば、何かが起こる。そう思った。


それなのに、クロは目を離さなかった。


怖くないのだろうか。


いや、違う。


あの子は怖くないわけではない。


模擬騎乗台のあと、怖かったとすぐに答えていた。竜の前でも、恐怖を知らない目ではなかった。


それでも、見る。


怖いより先に、見る。


何なのだろう、あれは。


クレアは寝返りを打とうとして、包帯の腕に少し痛みが走り、動きを止めた。


痛い。


浅い傷だと言われた。後に残るものではないと言われた。なら、よかったのだろう。


よかった。


本当に?


傷が浅かったのは、自分が優れていたからではない。運がよかったからでもない。


あの黒猫が動いたからだ。


自分が竜の前で悲鳴を上げた瞬間、あの子はもう動いていた。自分より先に、竜を見ていた。竜の首が沈むのを、足が土を掴むのを、目が変わるのを見ていた。


自分が見ていたのは、竜ではなかった。


竜の前で失敗してはならない自分だった。


クレアは唇を噛んだ。


恐怖は失格理由にはならない。


試験官の声が、まだ耳に残っている。


次に竜の前に立つ時は、竜を見ろ。


今日、見た。


見たつもりだった。


黒い竜を見た。


怖かった。


怖かったですわ、と言った。


言ってしまった。


クレアは布団を少しだけ引き上げた。


なぜ、あんなことを言ったのだろう。


よりによって、あの黒猫に。


当然でしょう、で止めておけばよかった。危険だから、とだけ言えばよかった。見ましたわ、と言っただけでも十分だったのに、怖かったですわ、などと。


情けない。


けれど、言った後、少しだけ胸が軽くなった気もした。


それがまた、よく分からない。


クレアは下段へ耳を澄ませた。


黒猫は眠っている。


たぶん、眠っている。


さっきから静かな寝息が続いている。小柄な身体を丸めて眠っているのだろうか。耳は動いているのだろうか。尻尾はどうしているのだろうか。


考えて、クレアは一瞬固まった。


私は何を考えているのだろう。


黒猫の寝姿を想像してどうする。


意味が分からない。


本当に意味が分からない。


クレアは目を閉じた。


明日こそ、言う。


そう思った。


助けられたこと。


水桶のこと。


籠のこと。


食事で気にかけられたこと。


全部でなくてもいい。せめて、ひとつくらいは言う。


ありがとうございます。


違う。


それは少し改まりすぎている。


助かりましたわ。


これなら言えそうだ。


いや、言えるはずだ。


助かりましたわ。


そう言えばいい。


ただ、それだけ。


クレアは心の中で、何度かその言葉を転がした。


助かりましたわ。


助かりましたわ。


助かりましたわ。


変ではないだろうか。


今さらではないだろうか。


何を急に、と思われないだろうか。


そもそも、あの黒猫は何と返すのだろう。


うん。


たぶん、そう言う。


きっと、あの何でもない顔で、うん、と言う。


それだけ。


それだけなのに。


なぜ、こんなに難しいのか。


下段で、クロが少し動いた気配がした。


クレアは思わず息を止めた。


寝台の板が、ほんの小さく軋む。


それだけだった。


また、静かな寝息が戻ってくる。


クレアは、ゆっくり息を吐いた。


何を緊張しているのだろう。


寝ている相手にまで。


本当に、調子が狂う。


同じ部屋の黒猫。


同じ組の黒猫。


竜糞を見て感想を述べる黒猫。


水が怒ると言う黒猫。


黒い竜から目を離さない黒猫。


人の歩幅に、たまたま合わせる黒猫。


余計なことばかりする黒猫。


クレアは布団を目元の少し下まで引き上げた。


明日。


明日こそ。


そう思った。


けれど、明日になれば、また竜舎がある。寝藁がある。水桶がある。餌場がある。泥がある。たぶん、糞もある。


そして、黒い竜もいる。


あの黒猫は、きっとまた見る。


近づくなと言われても、見る。


そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。


心配などではない。


同じ組だから。


そう。


同じ組だから、気にしているだけ。


クレアは自分にそう言い聞かせた。


下段から、黒猫の寝息が聞こえる。


小さく、静かで、妙に無防備な音だった。


「……本当に、勝手な方ですわ」


声には出さなかった。


口に出せば、下の黒猫が起きるかもしれない。


起きたら、きっと言う。


何が?


と。


そして自分は、また答えに詰まる。


だから、言わない。


クレアは目を閉じた。


助かりましたわ。


明日。


明日、言う。


たぶん。


きっと。


……言えたら。


その最後の言葉だけが余計だと、自分でも思った。


けれど消せなかった。


クレアは布団を少しだけ引き上げた。


同じ部屋の黒猫は、まだ静かに眠っている。


その寝息を聞きながら、クレアはようやく、少しだけ眠くなった。

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