一章 第8話 「余韻」
竜舎の仕事が終わった頃、見習いたちから朝の浮ついた空気は消えていた。
竜舎番が解散を告げても、すぐに大きな声を出す者はいなかった。誰かがその場で息を吐き、誰かが腰を押さえ、誰かが泥のついた靴を見下ろしている。
見上げれば、竜が飛ぶ空がある。
けれど今日、見習いたちが見ていたのは、ほとんど床だった。
クロは汚れた手袋を外しながら、竜舎の方を振り返った。高い屋根の下からは、まだ竜の息遣いが聞こえている。
その奥にいた、黒い竜。
眠っているようで、眠っていなかった片目が、まだ胸の奥に残っている。
「あなた」
低い声がした。
振り向くと、クレアが立っていた。手袋は汚れていて、靴にも泥がついている。クロは少しだけ首をかしげた。
「クロ」
「……クロさん」
「クロ」
今度は、少しだけ微妙な顔で言った。
クレアは一瞬、言葉に詰まった。
「……今はそれで我慢なさい」
「うん」
クロは頷いた。納得した顔ではなかった。
クレアはクロの視線の先を見た。
「……あの奥の竜のことを考えていましたの?」
「うん」
クロは頷いた。
クレアの眉が、ほんの少し寄る。
「竜舎番が言っていましたわ。近づくな、と」
「うん。近づかない」
「本当でしょうね」
「今は」
クレアの声が少し硬くなった。
「今は?」
クロはもう一度、竜舎の奥を見た。
「近づいていい気がしない」
クレアはしばらく黙った。
「そういう問題ではありませんわ」
「そうなの?」
「そうです。近づくなと言われたら、近づかない。それだけです」
「うん」
「……本当に分かっていますの?」
「分かってる」
クロは素直に答えた。
クレアはまだ何か言いたそうだったが、疲れていたのか、それ以上は続けなかった。
宿舎へ戻る道は、朝より少し長く感じた。
見習いたちは、ばらばらに歩いている。朝はまだ少し浮ついていた者たちも、今は足取りが重い。誰かの靴底から泥が落ち、誰かが小さく腰を叩く。
「竜騎士って、もっと空を飛ぶものだと思ってた」
前を歩いていた少年が、ぽつりと言った。
「今日は床しか見てない」
別の少年が答える。
少しだけ笑いが起きた。笑いというより、疲れすぎて出てきた息のようなものだった。
「明日もあれか?」
「当面は、って言ってただろ」
「当面ってどれくらいだ」
「聞くな。怖い」
また少し笑いが起きる。
クロはそれを聞きながら歩いた。クレアは隣で黙っていた。歩き方はまだ綺麗だったが、速度は少し遅い。包帯を巻いた腕をかばっているのもある。けれど、それ以上に、今日一日で身体のどこかが重くなっているように見えた。
クロは、歩幅を少しだけ小さくした。
隣で、クレアがちらりとこちらを見る。
「……合わせなくて結構ですわ」
「合わせてない」
「今、明らかに遅くしましたわ」
「じゃあ、たまたま」
「たまたまで人の歩幅に合いますの?」
「合った」
「……本当に勝手ですわね」
そう言いながらも、クレアは歩く速さを変えなかった。
クロも何も言わず、その隣を歩いた。
夕食の食堂も、昨日とは違った。
合否の話ばかりだった昨日とは違い、今日は竜舎の話ばかりだった。
出されたのは、具の入ったスープとパン、焼いた肉、それから小さな芋だった。仕事のあとの食事だからか、朝より量は多い。見習いたちはしばらく黙々と食べた。話すより先に、身体が食べ物を欲しがっていた。
クロもよく食べた。パンをちぎり、スープに浸す。芋を割り、塩を少しつける。肉は少し硬かったが、噛むと脂が出た。
「食べるの、早いですわね」
クレアが隣で言った。
「お腹空いた」
「それは分かりますけれど」
クレアの皿は、まだ半分ほど残っていた。食べ方はきれいだった。けれど、手が少し遅い。疲れているのだと思う。
クロはクレアの皿を見た。
「食べないと、明日動けない」
「……分かっていますわ」
クレアは少しだけ眉を寄せた。
「子供扱いしないでくださる?」
「してない」
「では、何ですの」
「同じ組だから」
クレアは言葉を詰まらせた。
昨日から、クロはそればかり言う。
同じ組だから。
だから見る。だから気にする。だから手を貸す。
それがクレアには、少し困る。
責められる方が、まだ分かりやすかった。礼を言えと迫られる方が、まだ腹を立てることができた。けれどクロは何も求めてこない。汚れた手袋で水桶を支え、泥の中で籠を持ち、食堂では食べろと言う。
ただ、それだけをする。
「……食べますわ」
クレアは低く言って、スープを口へ運んだ。
クロは頷いた。
「うん」
その返事があまりにも普通だったので、クレアは少しだけ目を閉じた。
周囲では、見習いたちが竜舎の仕事について話していた。
「俺、明日腕上がるかな」
「俺は腰が怪しい」
「あの糞、夢に出そう」
「やめろ。飯の時に言うな」
食堂の端で、低い笑いがこぼれた。クレアは、そちらを見ないようにしていた。
クロは少しだけ耳を動かした。
「夢に出るかな」
「出さないでください」
「夢は勝手に出るよ」
「出さないでください」
「難しい」
クレアは深く息を吸った。
「……食事中ですわ」
「うん」
クロは素直に黙った。
部屋に戻る頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
廊下には、まだ見習いたちの足音があった。どこかの部屋から、疲れた笑い声が聞こえる。別の部屋では、誰かが寝台に倒れ込むような音がした。
クロとクレアの部屋は静かだった。
二段ベッドと、二つの机と、二つの棚。昨日と同じ部屋なのに、今日は少し違って見えた。朝、ここを出た時より、自分たちが汚れているからかもしれない。竜舎の匂いが、服にも髪にも少し残っている気がした。
クレアは部屋に入るなり、少しだけ立ち止まった。それから、何事もなかったように机の前へ行き、支給品を整え始める。泥のついた靴を布で拭き、汚れた手袋を畳み、包帯の巻かれた腕を確かめる。疲れているはずなのに、一つ一つの動作は丁寧だった。
クロはそれを見ていた。
「疲れてる?」
「疲れていません」
即答だった。
けれど、声に元気はなかった。
クロは頷いた。
「そっか」
「納得しないでくださる?」
「してない」
「今、しましたわ」
「じゃあ、少しした」
クレアは何か言いかけて、やめた。それ以上言う気力がなかったのかもしれない。
クレアは二段ベッドのはしごへ手をかけた。昨日と同じように、当然のように上へ登っていく。ただし、今日は少し遅かった。包帯を巻いた腕をかばい、足を一段ずつ確かめる。クロは下から見上げかけて、すぐに視線を逸らした。
見てはいけないものが、ある。
クロは昨日、学んだ。
クレアは上段へ上がり、寝台の縁に腰を下ろした。小さく息を吐く。ため息というには弱く、呻き声というには上品だった。
けれど、かなり疲れている音だった。
クロは下段に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外で、遠く竜が鳴いた。低く、長い音だった。その声に、クロの耳がぴくりと動く。
「今日、竜舎にいた黒い竜」
上から、クレアの声が落ちてきた。
クロは顔を上げた。クレアの方からその話を出すとは思わなかった。
「うん」
「あれは、危険な竜ですわ」
「そうなの?」
「そう見えました」
「見たの?」
少しの沈黙。
「……見ましたわ」
その声は、硬かった。
けれど、ちゃんと見たのだと分かる声だった。
クロは、少しだけ目を細めた。
「怖かった?」
「当然でしょう」
すぐに返ってきた。
返ってきてから、クレアが自分で少し驚いたように黙った。
クロは何も言わなかった。クレアも、しばらく何も言わなかった。
やがて、上段から低い声が続いた。
「……怖かったですわ」
さっきより、少し小さい声だった。
「黒いから?」
「それだけではありません。あの竜は、こちらを見ているようで、見ていないようでした。眠っているようで、眠っていない。近づけば、何かが起こる。そう思いました」
クロは頷いた。
「うん」
「だから、近づかないでください」
「うん。近づかない」
「本当に?」
「まだ」
「まだ、は余計ですわ」
クロは少し考えた。
「でも、いつかは近づくかもしれない」
上段から、長い沈黙が落ちてきた。
「……あなたは、本当に」
そこで言葉は止まった。昨日までなら、「変わっていますわね」と続いたかもしれない。
でも、今日は続かなかった。
クロは膝の上で手を組んだ。洗ったはずなのに、まだ指先に竜舎の匂いが残っている気がする。
奥の暗い場所にいた、黒い竜。
冬のジェミノ村で見た黒い竜を、クロは覚えている。
クロが「強いから」と言った時、あの竜は少し誇らしげにしていた。そばにいた気だるげな小隊長は、面倒くさそうに、けれど少し楽しそうにそれを見ていた。
けれど、今日の黒い竜は違った。
同じ黒なのに、どこか遠い。眠っているようで、眠っていない。こちらを見ているようで、見ていない。
近づくなと言われた。
だから近づかない。
あの片目は、何かを守ろうとしているというより、何かを遠ざけているように見えた。
クロには、まだ分からなかった。
「近づくなって言われたから、近づかない」
クロは言った。
「でも、見る」
クレアは何も言わなかった。
その沈黙は、怒っている沈黙ではなかった。
困っているような、考えているような沈黙だった。
しばらくして、クレアが小さく声を出した。
「……今日のことですが」
「うん」
「水桶を運んだ時のことです」
「うん」
「それから、籠を運んだ時のことも」
「うん」
クレアはそこで止まった。
上段の布が、少しだけ擦れる音がした。
「あなたは、余計なことをしますわ」
「そう?」
「そうです」
「そっか」
「……ですが」
クロは待った。
クレアは何も言わない。言葉を探している気配だけが、上から落ちてくる。
「クレア?」
クロが聞くと、クレアは少しだけ息を呑んだ。
「……何でもありません」
「そっか」
「そこで終わらないでくださる?」
「何でもないって言ったから」
「……そうですけれど」
クレアの声は、少しだけ弱かった。
クロは下段の寝台に寝転がった。板の天井が近い。上段の下側が視界いっぱいに広がる。そこから、クレアの小さな気配がする。
今日は朝からずっと、クレアが近くにいた。文句を言い、顔色を悪くし、それでも最後まで逃げなかった。黒い竜を見て、近づかないでほしいと、何度も言っていた。
クロは目を閉じた。
少し、眠い。
けれど、すぐには眠れなかった。
「クロさん」
上から、また声がした。
クロは目を開けた。
「クロ」
「……今は、それで我慢なさい」
「うん」
クロは小さく頷いた。
「なに?」
少しの間があった。
「本当に、近づかないでくださいまし」
「うん」
「……まだ、も無しです」
クロは少し考えた。
「今日は、近づかない」
「明日以降の話をしていますの」
「じゃあ、しばらく」
「……しばらく」
クレアはその言葉を、あまり信用していない声で繰り返した。
クロは小さく頷いた。
「しばらく」
上段から、諦めたような息が落ちてきた。
「……寝ますわ」
「うん。おやすみ」
返事はなかった。
けれど、少しして、上から小さな声が落ちてきた。
「……おやすみなさい」
クロは目を開けた。
それから、少しだけ笑った。
窓の外で、遠く竜が鳴いた。低く、長い音だった。
その声の向こうに、黒い竜の片目がまだ残っている。
それから、上段から落ちてきた小さな「おやすみなさい」も。
クロはその二つを胸の奥に置いたまま、ゆっくり目を閉じた。




