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一章 第7話 「竜舎から始まる」

朝は、竜の声で始まった。


低く、長い音だった。


窓の外から響いてきたそれに、クロの耳がぴくりと動く。下段の寝台で目を開けると、天井代わりの板がすぐ上に見えた。二段ベッドの上には、クレアがいる。昨日、当然のように上へ登っていった金髪の少女は、もう起きているのか、布の擦れる音を立てていた。


竜の声が、もう一度遠くで響く。


乾いた藁の匂い。革油の匂い。朝の冷えた石の匂い。その奥に、昨日より濃い、生き物の熱を含んだ匂いが混じっていた。


クロは寝台の上で、しばらく鼻を動かした。


「……竜舎、近い」


「朝から何を嗅いでいますの」


上から低い声が落ちてきた。クロが顔を向けると、クレアはもう身支度を整えていた。髪はきれいに梳かされ、服も乱れていない。包帯の巻かれた腕だけが、二日前のことを残している。背筋も、いつも通り伸びていた。


少し、伸びすぎていた。


「おはよう」


クロが言うと、クレアは一拍置いてから答えた。


「……おはようございます」


声は冷たい。けれど、出会った頃のように鋭く切ってくる感じではなかった。


クロは寝台から下り、支給された服の襟を直した。見習い用の腕章を手に取る。昨日もらったばかりのそれには、小さな竜騎士団の紋章が刺繍されている。腕に巻くと、少しだけ気持ちが引き締まった。


「ついた」


「昨日も言っていましたわね」


「今日もついた」


クレアは少しだけ目を閉じた。それ以上は何も言わなかった。




朝食は簡単だった。硬めのパンと、薄いスープと、塩気のある干し肉。昨日の夕食ほど量はなかったが、仕事前に腹へ入れるには十分だった。


合格者たちは、まだ少しぎこちなかった。つい数日前まで志願者だった者たちが、今日は見習いとして同じ食堂に座っている。喜びはある。けれど、それ以上に、これから何をさせられるのか分からない緊張があった。


誰かが、竜舎の方を見た。それにつられて、別の誰かも見る。食堂の窓から竜舎は見えない。それでも、皆がなんとなくそちらを意識していた。二日前の事故を、忘れた者はいない。


クロはパンを噛みながら、隣のクレアを見た。クレアはいつも通り、背筋を伸ばして食べていた。食べる速さも、音を立てない仕草も、きれいだった。ただ、包帯の巻かれた腕を使う時だけ、ほんの少し動きが遅れた。


クロはそれを見た。


クレアは気づいたのか、目だけでこちらを見た。


「何ですの」


「べつに」


「見ていましたわ」


「うん」


「べつに、ではありませんわね」


クロは少し考えた。


「痛そうだった」


クレアの指が、パンの端を少し強く押した。


「痛くありません」


「そっか」


「ええ」


そこで会話は切れた。切れたけれど、クロはもう一度、クレアの包帯を見た。クレアは今度こそ、見ないふりをした。




食事を終えると、見習いたちは竜舎前に集められた。


朝の竜舎は、大きかった。昨日も見ていたはずなのに、近くに立つとまるで違う。高い屋根。太い柱。人が何人も並んで通れる広い扉。隙間から流れてくる匂いは、宿舎の部屋に届いていたものよりずっと濃かった。


乾いた藁。湿った藁。革油。水。土。石。そして、竜の匂い。


クロの耳は忙しく動いた。


「落ち着きがありませんわね」


隣でクレアが言った。


「忙しい」


「何が」


「全部」


「……答えになっていませんわ」


クロは竜舎を見上げた。中から、竜の鼻息が聞こえる。それだけで、空気が少し震えた。


「これより、竜舎の下働きに入る」


見習いたちの前に立ったのは、竜舎番の兵士だった。年配というほどではないが、顔には日焼けと細かな皺があり、腕は太い。鎧ではなく、動きやすい作業着を着ている。華やかさはなかった。だが、その場にいる竜たちが、この人間をよく知っているのだと分かる落ち着きがあった。


「もう聞いた者もいるだろうが、もう一度言う。竜舎では勝手に動くな。竜に勝手に触るな。鳴き声、足音、尾の動き、全部に注意しろ。竜はお前たちより大きい。悪気がなくても、お前たちは簡単に怪我をする」


見習いたちは黙って聞いていた。二日前の事故を見たあとでは、その言葉を笑う者はいなかった。


「今日やるのは、寝藁の交換、水桶の運搬、餌場の掃除、鞍具置き場の拭き掃除、糞の処理、床の泥落としだ」


糞。


その言葉で、何人かの顔が分かりやすく変わった。


クロは少しだけ目を丸くした。クレアは動かなかった。動かなかったが、横顔から血の気がすっと引いた。


竜舎番は気にしない。


「竜に乗る前に、竜が寝る場所をきれいにしろ。竜が食うものを運べ。竜が汚したものを片づけろ。それができない者に、竜の背など預けられん」


誰も反論しなかった。けれど、何人かの喉が小さく鳴った。


昨日までは、竜騎士団の門をくぐったことが誇らしかった。合格したことが嬉しかった。いつか竜の背に乗る自分を、誰もが少しは想像していた。


その最初に待っていたのが糞の処理だとは、たぶん誰も思っていなかった。


クロは横を見た。クレアは前を向いていた。顔色は悪い。けれど、顎は下がっていなかった。


「入れ」


竜舎番が扉を開かせる。大きな扉が、低い音を立てて動いた。


中から、朝の竜舎の空気が流れてきた。




竜舎の中は、広かった。


広い、というだけでは足りなかった。


天井が高い。梁が太い。壁際には竜ごとの区画が並び、床には分厚い藁が敷かれている。石の床には湿った跡があり、ところどころ泥が乾いている。奥では、大きな水桶がいくつも並んでいた。


竜がいる。


一頭ではない。


何頭もの竜が、それぞれの場所で息をしている。畳まれた翼。厚い爪。眠たそうな目。こちらを見ている目。尾が床を擦る音。鼻息。喉の奥で鳴る低い音。


クロは、思わず足を止めた。


「止まるな。入口で詰まる」


竜舎番の声が飛ぶ。


「はい」


クロは慌てて進んだ。


クレアは隣を歩いていた。姿勢は崩れていない。けれど、呼吸は少し浅い。竜の息遣いが近づくたび、肩がほんのわずかに固くなる。


クロはそれを横目で見た。クレアは竜を見ていた。いや、見ようとしていた。


あの時よりは、目を逸らしていない。


それだけで、少し違う気がした。


「まずは寝藁だ」


竜舎番が言った。


「汚れた藁を出す。新しい藁を敷く。濡れているところは残すな。爪の近くに溜まった泥も見ろ。区画ごとにやり方が違う。勝手に判断するな」


見習いたちに道具が配られる。大きな熊手。木の柄のついた平たい道具。汚れた藁を運ぶための籠。手袋。


クロは手袋をはめ、道具を見た。


「畑のより大きい」


「畑と比べるものではありませんわ」


クレアが低く言う。その声はいつものように冷たい。でも、少しだけ乾いていた。


作業はすぐに始まった。最初の区画では、赤茶色の竜が片目を開けてこちらを見ていた。竜舎番がその竜に短く声をかけ、兵士が横につく。見習いたちは指示された場所から汚れた藁を集め始めた。


藁は重かった。乾いたものは軽い。けれど、湿ったものは床に張りつき、持ち上げるとずっしりする。中には泥や、餌の残りや、竜が身体を擦った時に剥がれた鱗の欠片も混じっていた。


誰かが、思わず顔をしかめた。別の誰かが、小さく咳き込んだ。竜舎番は見ていたが、何も言わなかった。やめろとも、急げとも言わない。ただ、見ている。


ここで逃げる者がいるかどうかを、確認しているようだった。


クロは腰を落とし、熊手を入れた。引く。持ち上げる。籠へ入れる。一度やると、だいたい分かった。湿っているところは色が違う。匂いも違う。床の傾きで水が溜まりやすい場所もある。爪の近くは藁が細かく砕けている。


クロは黙々と作業した。手は止まらない。耳は動く。竜が息を吐けば、少しだけそちらへ意識が向く。尾が動けば、足元を避ける。竜舎番の声が飛べば、すぐにそちらを見る。


クレアも作業していた。手つきはぎこちない。けれど、雑ではない。道具の持ち方も、手袋の扱いも、汚れた藁を掴む時の姿勢も、最初からきれいにやろうとしている。


ただ、きれいにやろうとするほど、作業は遅くなった。


湿った藁を掴んだ瞬間、クレアの眉がぴくりと動く。


「……これを、持つのですか」


「持たないと出せない」


クロが答えた。


「分かっていますわ」


クレアは低く言った。


分かっている。だから持つ。そういう顔だった。逃げるという選択肢だけは、クレアの中になかった。


クレアは手袋越しに藁を掴み、籠へ入れた。一束。もう一束。三束目で、少しだけ目が死んだ。


クロは見なかったことにした。


その時、少し離れた場所で、若い見習いの一人が手を止めた。


「これ、毎日やるんですか」


誰に向けたのか分からない声だった。竜舎番がそちらを見る。


「竜は毎日寝る。毎日食う。毎日汚す」


それだけだった。


見習いは口を閉じた。クロは手を止めずに聞いていた。クレアも聞いていた。


少しだけ下がりかけていたクレアの顎が、そこでまた上がった。




次は水桶だった。


竜用の水桶は、人間が使う桶とは大きさが違った。空でも重い。水を入れると、さらに重い。二人一組で運べと言われ、クロとクレアは同じ桶を持った。


「せーの」


クロが言う。


「掛け声が軽すぎますわ」


二人で持ち上げる。


重い。


桶の中の水が揺れる。クレアの包帯を巻いた腕が、少しだけ遅れた。クロはすぐに持つ位置を変えた。


「そっち、痛い?」


「……痛くありません」


「でも、少し遅い」


クレアの眉が寄る。


「見ないでくださる?」


「見ないとこぼれる」


「……」


クレアは言い返せなかった。クロは桶の縁を持ち直し、重さを自分の方へ少し寄せた。


「こっち持つ。クレアはそこ、押すだけでいい」


「私は、押すだけなど」


「水が怒る」


「水は怒りません」


その瞬間、桶の水が大きく揺れた。


クレアは黙った。クロも黙った。


二人は慎重に歩いた。数歩進むたびに、水が桶の内側を打った。重さが右へ寄り、左へ戻る。足元には湿った藁と泥がある。滑れば水どころか、自分たちも転ぶ。


クレアの息が浅くなる。クロは歩幅を少し小さくした。クレアも、それに合わせた。


「……遅いですわ」


「こぼすよりいい」


「それは、そうですけれど」


「竜の水だから」


クレアは横目でクロを見た。クロは前を見ていた。桶の先に、竜がいる。大きな竜が、こちらを見ている。水を待っているのか、ただ見ているだけなのかは分からない。けれど、その目の前で水をこぼしたくないと、クロは思っているようだった。


クレアは何か言いかけた。けれど、言わなかった。


水桶は、なんとかこぼさずに運べた。




昼前には、見習いたちの顔から朝の緊張とは別のものが浮かんでいた。疲労だった。


竜舎の仕事は、思ったより重い。思ったより匂う。思ったより終わらない。一つ片づけると、別の場所が汚れている。水を運べば、また水が減る。餌場を掃除すれば、次の餌の準備がある。藁を替えれば、古い藁を外へ運ばなければならない。


最初は互いに少し笑っていた見習いたちも、だんだん口数が減っていった。憧れで光っていた目が、今は足元を見ている。誰かが腰を叩く。誰かが手袋の汚れを見て、ため息を吐く。


それでも、竜舎番が声を上げると、皆が動いた。


合格したのだ。


ここに残るために。


クロは額の汗を袖で拭った。


「忙しい」


「それは、もう何度も分かりましたわ……」


クレアの声は、かなり低かった。顔色は朝よりさらに悪い。髪はまだ整っているが、毛先に少しだけ藁がついていた。本人は気づいていない。


クロはそれを見た。言うべきか、少し迷った。


「クレア」


「何ですの」


「髪に藁」


クレアの動きが止まった。ゆっくり、指で髪に触れる。藁が取れた。金色の髪の先に、小さな藁。


クレアはそれを見た。


しばらく見た。


それから、何も言わずに捨てた。


クロは、やっぱり見なかったことにした。


「笑いませんのね」


クレアが言った。


「笑うところ?」


「普通は、笑うのではなくて」


「そうなの?」


クレアは黙った。それから、自分の汚れた手袋を見た。


「……笑われるくらいなら、まだましですわ」


声は小さかった。


クロはよく分からなかった。でも、クレアが藁を見ていた時の顔は、糞や泥を嫌がっている顔とは少し違っていた。


きれいにしていなければいけない。


崩れてはいけない。


そういうものが、クレアの中にはたくさんあるのだと思った。


「笑わないよ」


クロは言った。


クレアは顔を上げた。


「何が面白いのか、分からないし」


「……そういう理由ですの」


「うん」


クレアは少しだけ息を吐いた。呆れたような、疲れたような息だった。けれど、それ以上は何も言わなかった。




そして、竜糞の処理が来た。


竜舎番が区画の奥を指す。


「それを運び出せ」


見習いたちの視線が、一斉にそちらへ向いた。


大きかった。


クロは瞬きをした。気になっていたことの答えが、そこにあった。


竜のう〇こは、大きい。


とても。


思っていたより、大きい。


しかも、まだ少し温かそうだった。


「……大きい」


クロは小さく言った。


隣でクレアが目を閉じた。


「感想を述べないでくださる?」


「気になってたから」


「なぜ、そんなものに好奇心を向けられますの……」


クレアの声は、ほとんど祈りに近かった。


竜舎番は慣れた顔で道具を渡す。


「崩すな。床にこすりつけるな。籠へ入れろ。重いから腰で持て」


見習いたちは、全員少しだけ魂を抜かれた顔になった。誰かが遠くを見る。誰かが空を見上げる。そこに空はなかった。竜舎の高い天井があるだけだった。


クロは道具を持った。匂いは強い。でも、村でも糞の処理はあった。牛もいたし、馬もいた。畑に使うこともある。もちろん竜のものは大きさが違う。匂いも違う。熱も違う。


けれど、やることは分かる。


汚れを広げない。


重さを散らさない。


足元を滑らせない。


クロは慎重に道具を入れた。


「……慣れて、いますの?」


クレアが訊いた。


「竜のは初めて」


「そうでしょうね」


「でも、糞は初めてじゃない」


「言い方」


クロは首をかしげた。クレアはもう何も言わなかった。


二人で籠へ入れ、外へ運ぶ。重い。クレアの腕には負担がかかる。クロはまた少し持つ位置を変えた。


クレアは気づいた。


「……余計なことを」


「同じ組だから」


あの時と同じ言葉だった。


クレアは唇を結んだ。言い返す言葉は、出てこなかった。


少し歩いたところで、クレアの足が泥に取られた。ほんのわずかだった。けれど、籠は重い。中身も重い。傾けば、全部が終わる。


クロはすぐに体を寄せ、籠の片側を持ち上げた。


「大丈夫?」


「……大丈夫です」


「こぼれてない」


「それを先に確認しましたの?」


「大事」


「私の心配は」


「してる」


クロはまっすぐ言った。


クレアは言葉を失った。


籠の中身は無事だった。二人とも、泥はついた。クレアは自分の靴を見た。つやのあった靴は、もう見る影もなかった。


「……最悪ですわ」


「うん」


「同意しないでくださる?」


「でも、最悪そう」


「そういうところですわよ」


クレアの声は低かった。けれど、ほんの少しだけ、朝より力が抜けていた。




昼を過ぎる頃には、見習いたちは全員、朝とは違う姿になっていた。服には藁がつき、靴には泥がつき、手袋は汚れ、腕は重い。


クロも疲れていた。けれど、不思議と嫌ではなかった。


竜舎の床を掃く。水を運ぶ。藁を替える。糞を片づける。どれも空を飛ぶ仕事ではない。けれど、竜のすぐそばにある仕事だった。


竜が寝る場所を作る。


竜が飲む水を運ぶ。


竜が食べる場所を整える。


それを誰かがやるから、竜は飛べる。


クロは、汚れた手袋を見た。その手で、竜のいる場所に少しだけ触れている気がした。


「何を見ていますの」


クレアが言った。声には疲れが混じっていた。


「手」


「手?」


「汚れた」


「それは見れば分かります」


「うん。でも、竜舎の汚れ」


クレアは眉を寄せた。


「嬉しそうに言うことではありませんわ」


「嬉しいわけではないよ」


クロは少し考えた。


「でも、ここにいる感じがする」


クレアは返事をしなかった。その代わり、汚れた自分の手袋を見た。白かったはずの手袋は、もう白くなかった。クレアは少しだけ顔をしかめた。けれど、捨てるようには見なかった。


「……こんなところから、始まるのですわね」


ぽつりと、クレアが言った。


クロは顔を向けた。


「竜騎士が?」


「ええ」


クレアは竜舎の中を見た。汚れた床。積まれた藁。水桶。餌場。泥。糞。そして、その奥にいる竜たち。


「もっと、違うものだと思っていましたわ」


「違うもの?」


「剣を持ち、竜に乗り、空を飛び、民を守る。そういうものだと」


「それも竜騎士?」


「ええ」


クレアは少しだけ視線を落とした。


「けれど、これもそうなのでしょうね」


その声には、不満もあった。悔しさもあった。認めたくないものを、少しだけ認め始めたような硬さもあった。


クロは頷いた。


「たぶん」


「たぶん、ですの」


「まだ分からないから」


「……そうですわね」


クレアは息を吐いた。それから、汚れた手袋を握った。


「まだ、分かりませんわね」


その言い方は、少しだけ自分に向けているようだった。




作業の終わり際、クロは竜舎の奥に気づいた。


そこだけ、少し暗かった。高い窓から差す光が届きにくい場所。他の竜たちの区画から少し離れた奥。空気が、そこだけ沈んでいるように見えた。


黒い竜がいた。


黒よりも黒い竜だった。


大きな体を横たえ、翼を畳み、眠っているように動かない。鱗は光を吸い込むように暗く、首から背にかけての線は静かで、重い。


クロは足を止めた。胸の奥が、少しだけ鳴った気がした。


どこかで見た。


いや、見たことがある。


王都の空。眠そうな小隊長。そのそばにいた、黒い竜。


けれど、目の前の黒い竜は、あの時よりずっと遠くに見えた。


同じ場所にいるのに、遠い。


眠っているように見えた。けれど、片目だけが開いていた。その目がこちらを見ているのか、どこか別の場所を見ているのか、クロにはまだ分からなかった。


「そこは近づくな」


竜舎番の声が飛んだ。


クロは足を止めたままだった。


クレアが、少しだけ硬い声で言った。


「聞こえませんでしたの。近づくな、と」


「うん」


クロは頷いた。


近づかない。


そう言われたから。


まだ、近づいていい気もしなかった。


けれど、目は離れなかった。


黒い竜の片目は、静かに開いていた。

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