一章 第6話 「入り口」
翌朝の訓練場は、昨日より少し静かだった。
空はよく晴れていた。風は冷たく、竜舎の方から乾いた藁と革油の匂いが流れてくる。遠くで竜が鳴くたびに、志願者たちの肩が小さく動いた。
昨日までは、その声に胸を高鳴らせる者が多かった。
今日は、少し違う。
竜は大きい。竜は強い。そして、竜は人を傷つけることがある。
それを、全員が見てしまった。
クロは志願者たちの列に並びながら、竜舎の方を見た。昨日の竜は、今は見えない。代わりに、別の竜の影が屋根の向こうで動いている。
クレアは少し離れた場所に立っていた。腕には包帯が巻かれている。服は着替えていたが、袖口の形が昨日と少し違った。背筋は伸びている。顎も下がっていない。髪も整えられている。
けれど、顔色は悪かった。
昨日、食堂にも部屋にも来なかったクレアが、今はここにいる。それだけで少し安心した。けれど、クレアは一度もクロの方を見なかった。
やがて、試験官が訓練場の中央に立った。手には名簿がある。
志願者たちの空気が、ぴんと張った。
「これより、合格者を発表する」
誰かが息を呑んだ。昨日まで騒いでいた少年たちも、今は黙っている。落ち着きなく足を動かしていた者も、手を握りしめていた。
クロも背筋を伸ばした。耳が、勝手に立つ。
「名を呼ばれた者は、前へ出ろ」
試験官は名簿を開いた。
名が、一人ずつ呼ばれていく。呼ばれた者は前へ出て、試験官の前で姿勢を正した。呼ばれた者の顔には安堵があり、まだ呼ばれていない者の顔には緊張が残る。
列は、少しずつ形を変えていった。
クロはじっと待った。
心臓が、少し速い。
怖い、とは違う。でも、落ち着かない。
「クロ・レインフォート」
呼ばれた。
クロは一瞬だけ目を丸くした。それから、前へ出た。
「はい」
試験官の前に立つ。
試験官はクロを見た。昨日の竜騎士適性の時と同じ、静かな目だった。
「合格だ」
「はい」
クロは頷いた。
その時になって、胸の奥が、じわっと熱くなった。
竜騎士団の門をくぐった時の、石畳の感触。王都まで揺られてきた荷馬車。商人の背中。村を出る朝に見た、父と母の顔。小さな手を振っていたヨル。毎日見ていた、かけしっぽ。砕けた教会の向こうに立っていた、白い竜。
全部が、少しずつ胸の内側で重なった。
竜騎士になったわけではない。まだ、何もできるようになったわけではない。空を飛べるわけでも、誰かを助けられるわけでもない。
それでも、ここまで来た。
そのことだけは、確かだった。
クロは名簿を持つ試験官を見上げ、もう一度、小さく頷いた。
「はい」
二度目の返事は、さっきより少しだけ強かった。
クロは列の前へ移動し、他の合格者たちの横に並んだ。
そのあとも、名は呼ばれていく。
そして。
「クレア・フォン・レーヴェンハルト」
その名が呼ばれた瞬間、クレアの肩がわずかに揺れた。ほんの少しだった。けれど、クロには見えた。
クレアは動かなかった。
試験官が顔を上げる。
「クレア・フォン・レーヴェンハルト」
もう一度、名が呼ばれた。
クレアはようやく一歩前へ出た。歩幅は乱れていない。けれど、指先は固く握られていた。
「はい」
声は出ていた。ただ、少し低かった。
試験官は名簿を見た。
「合格だ」
訓練場の空気が、わずかに動いた。
周囲から、小さな安堵の息が聞こえる。レーヴェンハルトの娘が合格することを、誰も不思議には思っていない。むしろ、当然だと思っていた者が多かった。
けれど、クレア本人だけが違った。
「……何かの間違いです」
その声に、場が止まった。
試験官は名簿から顔を上げる。
「何がだ」
「私が、合格であることです」
クレアは試験官を見ていた。顔は青い。けれど、目は逸らしていなかった。
「理由は」
試験官が短く問う。
クレアの唇が震えた。それでも、声は前へ出た。
「私は、竜を恐れました。悲鳴を上げました。その結果、竜に噛まれました」
周囲が静まり返る。
昨日の光景が、全員の頭に戻った。竜の顎。裂けた袖。地面に転がる二人。
クレアは続けた。
「私は、合格に値しません」
試験官はしばらくクレアを見ていた。
「記録では、手順違反はない」
「ですが――」
「指定位置まで進み、立った。指示を破っていない。座学、実技ともに上位。総合評価は合格だ」
「私は、竜を恐れました」
「恐怖は失格理由にはならない」
クレアの息が止まった。
その言葉は、慰めるような響きではなかった。ただ、判定を告げる声だった。
「ただし」
クレアの肩がわずかに跳ねる。
試験官は名簿を閉じず、クレアを見た。
「次に竜の前に立つ時は、竜を見ろ」
それだけだった。
それだけ言って、試験官は名簿へ視線を戻した。
「下がれ」
クレアは動けなかった。ほんの少しの間、そこに立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吸う。
「……はい」
その声は、さっきよりも小さかった。
クレアは合格者の列へ移動した。クロの少し横に立つ。近い。けれど、クレアはクロの方を見なかった。
クロも何も言わなかった。ただ、包帯を巻いた腕だけを一度見た。
クレアの指が、わずかに動いた。
合格者の名がすべて呼ばれると、訓練場には二つの列ができていた。
呼ばれた者。
呼ばれなかった者。
試験官は名簿を閉じた。
「以上が、今年の合格者だ」
その言葉で、誰かが肩を落とした。誰かは唇を噛んだ。誰かは静かに目を伏せた。
合格者たちも、すぐには喜びの声を上げなかった。昨日の事故のあとだったからかもしれない。あるいは、呼ばれなかった者たちの顔が見えてしまったからかもしれない。
試験官は続けた。
「不合格者は、別室で今後の説明を受けろ。再志願、帰還手続き、推薦元への報告について案内がある」
そこで一度、言葉を切る。
「今日ここで名を呼ばれなかったからといって、人生が終わるわけではない。だが、今年の入団はここまでだ」
数人が、拳を握った。それでも、誰も騒がなかった。
案内係の兵士が不合格者たちを誘導していく。背の高い少年が一度だけ合格者の列を見た。クロと目が合いそうになったが、すぐに逸らした。
やがて、訓練場には合格者だけが残った。
その空気は、少し変だった。
嬉しい。
けれど、重い。
やっと息を吐いた者もいる。口元を緩めた者もいる。小さく拳を握っている者もいる。
その全員に向けて、試験官は言った。
「勘違いするな」
合格者たちの背筋が伸びた。
「お前たちは、まだ竜騎士ではない」
浮かびかけていた空気が、すぐに引き締まる。
「本日付で、竜騎士団の見習いとして登録する。だが、竜に乗ることを許されたわけではない。任務に出ることを許されたわけでもない。まずは団の規律を覚え、竜舎を覚え、竜と人がどう動いているかを覚えろ」
合格者たちは黙って聞いていた。
「無断で竜舎へ入るな。竜に勝手に触れるな。鞍具も訓練器具も、許可なく扱うな」
試験官の声は短く、硬かった。
「宿舎では、起床、食事、清掃、訓練、すべて指示通りに動け」
昨日までなら、誰かが少し不満そうな顔をしたかもしれない。けれど、今は誰も笑わなかった。
竜の前で、指示を破ることがどういうことなのか。
昨日、全員が見ていた。
試験官はさらに続ける。
「当面の仕事は、竜舎での下働きだ」
下働き。
その言葉に、合格者たちの顔が少しだけ変わった。
「竜舎清掃。鞍具の手入れ。餌運び。水運び。寝藁の交換。糞の処理」
最後の言葉で、何人かの顔が分かりやすく止まった。
クロは瞬きをした。
糞。
竜の。
クレアの顔から、ほんの少しだけ色が抜けた。傷のせいではなかった。
「竜騎士団は、竜に乗る者だけで動いているわけではない。竜が飛ぶには、竜舎が要る。鞍具が要る。餌が要る。手入れが要る。それを知らずに竜の背には立てん」
試験官の声は淡々としていた。
「明日から始める」
合格者たちの間に、ざわめきが広がりかけた。しかし、試験官の目で止まった。
「次に、組分けと部屋割りを伝える。当面は二人一組で動く。作業、移動、宿舎内での確認も、基本は同じ組で行え」
名前が呼ばれていく。
合格者たちは、それぞれ組を作っていった。同じ出身地の者同士ではない。体格や成績、性格、宿舎の都合も見ているのだろう。組まされた者たちは互いに顔を見合わせ、ぎこちなく挨拶している。
そして。
「クロ・レインフォート。クレア・フォン・レーヴェンハルト」
二人の名が並んだ。
クレアの指が、ぴくりと動く。
「お前たちは同組、同室だ」
訓練場の空気が、ほんの少し止まった。
女子の合格者は、二人だけだった。当然といえば当然だった。それでも、クレアの顔は固まっていた。
クロはクレアを見た。
「同じ部屋」
クレアは少しだけ目を閉じた。
「……規則なら、仕方ありませんわ」
声は低い。冷たい。でも、昨日までのような鋭さは少し薄かった。
クロは頷いた。
「よろしく」
クレアはすぐには答えなかった。
しばらくして、ほんの小さく言う。
「……ええ」
それが返事なのか、諦めなのか、クロには少し分からなかった。
その日の午後、合格者たちは正式な入団手続きを済ませた。
名前を書き、出身を確認され、宿舎の規則と当面の予定を説明される。支給品を受け取り、見習い用の簡素な腕章を渡された。
竜騎士団の紋章が、小さく刺繍されている。
クロはそれを手に乗せて、しばらく見た。
「ついた」
思わず呟く。
近くにいた兵士が眉を上げた。
「何がだ」
「竜騎士団の印」
「腕章だ」
「うん。ついた」
兵士は何か言いかけて、やめた。
「失くすなよ」
「はい」
クロは腕章を大事に持った。
竜騎士になったわけではない。けれど、竜騎士団の一番端に、ようやく指先が触れた気がした。
クレアはその隣で、支給品を静かに確認していた。包帯を巻いた腕はあまり動かさず、片手で布や紐の状態を見る。所作は綺麗だった。
ただ、目は少し疲れていた。
「腕、まだ痛い?」
クロが訊くと、クレアの手が止まった。
「……あなたには関係ありませんわ」
「ある」
クレアが目を細める。
クロは真面目に言った。
「同じ組だから」
クレアは言葉を失った。それから、視線を逸らす。
「……大した傷ではありません」
「そっか」
クロは頷いた。それ以上は聞かなかった。
クレアは少しだけ唇を噛んだ。
礼を言わなければならない。そのことは、分かっている。けれど、まだ喉の奥に何かが引っかかっていた。
ありがとう。
たったそれだけの言葉が、昨日からずっと出てこない。
クロはもう、腕章の方を見ていた。責める様子もない。待っている様子もない。
それが余計に、クレアの胸の内側をざわつかせた。
夕方、二人は宿舎の部屋へ案内された。
昨日、クロが一人で入った部屋だった。
壁際には、頑丈そうな二段ベッドが一つ。向かい側には、簡素な机が二つ。棚も二つ。窓は一つ。
広くはない。飾りもない。けれど、必要なものはきちんと揃っていた。
昨日は一人だった部屋に、今日はクレアがいる。それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。
クロは自分の荷物を棚に置いた。
クレアは二段ベッドを見ると、何も言わずにはしごへ手をかけた。当然のように、上へ登っていく。
クロはそれを下から見上げた。
上がいいのかな、と思った。
その時だった。
クロは、見てしまった。
クレアの、小ぶりのお尻を柔らかく包む、白い布。
そこに描かれた、可愛らしい竜のゆるい絵。
丸い顔。
小さな翼。
にこにこした口。
あまりにも、ゆるい。
クロは瞬きをした。
クレアは何事もなかったように上段へ上がり、寝台の縁に腰を下ろした。背筋は、きちんと伸びている。
クロは、見上げながら、もう一度だけ見た。
やっぱり、そこにはゆるい竜がいた。
クレアは上から、低い声を出した。
「……何か?」
「ううん」
クロは首を振った。
見てはいけないものを見た気がした。
たぶん、触れてはいけない。
クロは下段の寝台に腰を下ろした。
部屋はしばらく静かだった。窓の外では、竜舎の方から低い音が流れてくる。遠くで兵士の声がして、どこかの扉が閉まった。
同じ部屋。
同じ組。
明日から一緒に動く。
竜舎清掃。鞍具の手入れ。餌運び。水運び。寝藁の交換。
そして。
クロはふと顔を上げた。
「竜のう〇こって、大きいのかな」
ぽつりと言った。
上段が微かに揺れた。
長い沈黙が落ちる。
「……寝ますわ」
それが、同室になって最初の夜の、最後の会話だった。




