間幕 「たった一行の答え」
夜の竜騎士団本部は、昼間よりも静かだった。
訓練場から響いていた声は消え、竜舎の方から時折、低い竜の息遣いだけが流れてくる。王都の灯りは遠く、窓の外に淡く滲んでいた。
執務室には、紙の匂いが残っていた。
実技記録。座学の答案。竜騎士適性の記録。事故報告の下書き。
試験官は机の上に積まれた書類を見下ろし、短く息を吐いた。
長い一日だった。
今年も志願者は多かった。身体に自信のある者。家の期待を背負ってきた者。憧れだけを胸にしてきた者。最初の説明で顔色を変えた者もいれば、最後まで食らいついた者もいる。
その中でも、今年は少し、目立つ者達がいた。
書類の山がようやく少し低くなった頃、執務室の扉が開いた。
「お疲れ様です。今年の子たちはどうですか」
試験官が顔を上げると、一人の竜騎士が入ってきた。任務帰りなのか、外套にはまだ夜風の冷たさが残っている。
「小隊長殿。戻ったばかりでしょう。先に休まれては?」
「休む前に聞いておきたくて。毎年の楽しみですから」
「楽しみと言えるほど、穏やかな一日ではありませんでしたが」
「聞きました。事故があったとか」
試験官は、机の端に置いていた報告書へ目を落とした。
「ええ。竜騎士適性の最中に、志願者が一名負傷しました」
「容体は?」
「浅い傷です。救護の者も、後に残るようなものではないと言っています」
「それはよかった」
竜騎士は、そこで少しだけ息を吐いた。
軽い口調で入ってきたわりに、事故の話になると目の色が変わる。任務帰りの疲れは見えるが、竜のこと、志願者のことになると、気を抜いてはいない。
試験官は、それをよく知っていた。
「負傷したのは、レーヴェンハルト家の娘です」
「大隊長の」
「ええ」
竜騎士は机の向こうにある椅子の背に手を置いた。
「試験の出来は?」
「優秀です。実技、座学ともに上位。外周走も崩れず、運搬も水桶をほとんど乱さず運びました。騎乗台も最後まで耐えています。礼法についても流石、といったところでしょうか」
「では、事故は」
「原因は断定できません」
試験官は、報告書の文字を見た。
「少し緊張していたようには見えました。ですが、手順を外したわけではない。勝手に触れたわけでも、指定位置を越えたわけでもない。竜が反応し、令嬢が負傷した。今、こちらから言えるのはそこまでです」
「本人は、そう思えないかもしれませんね」
「でしょうな」
短い沈黙が落ちた。
竜騎士団に入ろうとする者は、皆、何かを背負ってくる。家の名。親の期待。過去の憧れ。逃げたくない理由。誇り。あるいは、傷。
それが竜の前でどう出るかは、立ってみるまで分からない。
「それで」
竜騎士は、机の上の記録板へ視線を移した。
「その事故で、レーヴェンハルトの娘を助けた子がいると聞きました」
「ええ」
試験官は、少しだけ眉間を押さえた。
「黒猫の獣人です」
「黒猫」
その声が、わずかに変わった。
試験官は顔を上げたが、竜騎士はすぐに続けた。
「珍しいですね」
「珍しいだけなら、まだよかったのですが」
「何か?」
「外周走では崩れず先頭集団に残り、運搬では竜用の鞍を選び、一人で運び切っています」
竜騎士の手が、椅子の背に置かれたまま止まった。
「今、なんと……? 竜用の鞍を?」
「ええ。理由は、竜に一番近いものだから触ってみたかった、と」
「……それは、面白い子ですね」
「面白い子、ですか」
試験官は真面目な顔で首を傾げた。
「運び方も悪くありませんでした。力任せではない。重心を見て、肩と背中に乗せて、壊さず下ろした。村で重い荷を扱い慣れているのでしょう」
「出身は?」
「ジェミノ村です」
竜騎士は何も言わなかった。
試験官は記録板をめくる。
「騎乗台でも、強い揺れの中で最後まで手綱を離しませんでした。終わったあと、怖かったかと聞くと、怖かった、と答えた」
「正直ですね」
「ええ。手綱を離したらもっと怖いと思った、とも」
竜騎士の目元が、ほんの少しだけやわらいだ。
「いい答えです」
「事故の時も、動きは速かった」
試験官は記録板を指で軽く叩いた。
「竜が噛む前に、首の沈みと前足の動きを見ていました。令嬢を横へ引き、腕の位置をずらした。あれがなければ、掠めただけでは済まなかったでしょう」
竜騎士の表情から、笑みが消えた。
「そこまで見えていたのですか」
「少なくとも、来るとは分かっていたようです」
「……なるほど」
「座学も書けます。建国記を読んでいる。少なくとも、王国と竜騎士の起源については理解していた」
「村の子で?」
「村の子で、です」
試験官は机の端に避けていた一枚の答案を手に取った。
「それから、自由欄に妙な答えがありました」
「妙な?」
「長く書く者が多い中で、一行だけです」
竜騎士は答案を受け取った。
紙の上を視線が滑り、最後の自由欄で止まる。
しばらく、何も言わなかった。
執務室の外で、竜が一度だけ低く鳴いた。夜番の兵士の足音が廊下を通り過ぎる。
試験官は、竜騎士が答案から目を離すのを待った。
やがて、その視線がゆっくり下へ落ちる。
答案用紙の一番下。
氏名欄。
そこに書かれた名前を見た瞬間、竜騎士の表情が止まった。
クロ・レインフォート。
ほんの短い間だった。
けれど、試験官には分かった。
ただの志願者の名前を見た顔ではなかった。
竜騎士は答案を机へ戻した。
「知っている子ですか?」
「少しだけ」
「少し、ですか」
「ええ。少しだけ」
竜騎士は窓の外へ目を向けた。
夜の竜舎の向こうに、王都の空が見える。昼間は何頭もの竜が横切る空も、今は深い藍色に沈んでいる。
その目元に、かすかな笑みが浮かんだ。
試験官は、それ以上聞かなかった。
机の上には、たった一行の答えが残っている。
その下に、小さな名前。
竜騎士は声には出さず、ほんの少しだけ笑った。
やっと来たのね。クロ。




