一章 第5話 「恐怖」
クロは、竜から目を離さなかった。
地面に転がったまま、片腕でクレアの肩を押さえている。自分の膝も、腕も、土で汚れていた。息は乱れている。けれど、目だけは竜を見ていた。
竜の喉が、低く鳴っている。
兵士が手綱を強く引こうとした。
「だめ、まだ来る!」
クロの声は掠れていた。
「下がれ、志願者!」
「今引いたら、もう一回噛む! また首が沈んでる!」
試験官の目が竜へ走った。
竜は低く喉を鳴らし、前足で土を掴んでいる。尾の先は止まっていた。興奮している。苛立っている。目の前にあるものを、まだ遠ざけようとしている。
試験官の顔が変わった。
「引くな! 固定しろ! 横へ回れ!」
兵士たちの動きが変わった。
強く引き寄せるのではなく、距離を保ったまま竜の向きをずらす。別の兵士が横へ回り、声を落として短く竜に呼びかけた。試験官も前には出すぎず、けれど竜から目を外さない。
竜の尾が、一度、土を打った。
もう一度。
それから、喉の音が少しだけ低くなる。
訓練場にいた誰もが、息を止めるようにそれを見ていた。さっきまで試験を受けていた志願者たちも、動けないまま固まっている。竜の顎が閉じる音。裂けた布。赤。ほんの少し前に見えたものが、まだ目の奥に残っていた。
試験官が短く息を吐いた。
「そのまま下げろ。急がせるな」
兵士たちは竜を竜舎の方へ戻していった。竜は何度か首を振ったが、もう噛みつこうとはしなかった。最後に一度だけこちらを見る。その目を、クロは見返した。
「お前、動けるか」
試験官の声で、クロはようやくクレアの方を見た。
クレアは地面に座り込んだまま、何も言っていなかった。青い目が大きく開いている。裂けた袖の下、白い腕に細い赤が走っていた。深くはない。けれど、血は出ている。
「クレア」
クロは呼んだ。
クレアは答えなかった。
「クレア、腕、動く?」
その問いに、クレアの目だけがわずかに動いた。自分の腕を見る。裂けた袖。滲んだ赤。そこでようやく、痛みが追いついたように顔が強張った。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
試験官が近くの兵士に指示を出した。
「救護室へ運べ。傷を確認しろ」
「はい」
「意識はある。慌てるな」
兵士がクレアのそばに膝をつき、傷を見た。浅い、と小さく言う。だが、その声に安心した者は少なかった。傷が浅いことと、今起きたことが軽いことは、同じではなかった。
クレアは立とうとした。
けれど、足に力が入らなかった。
兵士に支えられ、ようやく立ち上がる。クレアは何か言おうとしたようだった。唇が動いた。けれど、声は出ない。
その視線が、一瞬だけクロに向いた。
クロはまだ土の上に片膝をついていた。
クレアは何も言わなかった。
そのまま、救護室へ運ばれていった。
試験は、すぐには再開されなかった。
竜舎の方では兵士たちが慌ただしく動き、試験官たちは短く言葉を交わしていた。志願者たちは訓練場の端に集められ、待機を命じられた。誰も大きな声では話さなかった。
クロは手のひらについた土を払った。
膝が少し痛い。
腕も少し擦っている。
試験官が近づいてくる。
「腕を見せろ」
クロは素直に腕を出した。試験官は手早く確認し、膝も見る。擦り傷はあるが、大きな怪我はない。
「さっきの竜の動き、噛むと分かっていたのか?」
クロは竜舎の方を見た。
「うん」
「なぜ」
「首が沈んだ。足が、土を掴んだ。あと、目が変わった」
試験官は何も言わなかった。
「それと、苛立ってた」
志願者の何人かが、こちらを見た。
竜が苛立っていた。
そう言われても、すぐには飲み込めない顔だった。あの大きな顎を開き、クレアの腕を噛み砕こうとしたように見えた竜が、何に苛立っていたのか、誰にも分からなかった。
試験官だけは、笑わなかった。
「待機していろ」
「はい」
試験官はそう言って、他の兵士たちの方へ戻っていった。
しばらくして、別の竜が訓練場へ連れてこられた。
今度の竜は、灰色の鱗をしていた。先ほどの竜より少し小柄だが、翼は大きく、首の動きは落ち着いている。兵士が短く声をかけると、竜はゆっくり瞬きをした。
試験官が志願者たちの前に立つ。
「竜騎士適性を続行する」
ざわめきが起きた。
続けるのか。
誰かがそう思ったのが、空気で分かった。
「無理だと思う者は申し出ろ。竜騎士団に必要なのは、竜に乗る者だけではない。この検査だけで全ては決めん」
誰もすぐには動かなかった。
竜騎士団は、甘くない。
そのことを、さっきよりもはっきり理解してしまったからだ。
試験は再開された。
少しの逡巡の後、残りの志願者たちは順番に竜の前へ進んだ。先ほどよりも、みんな慎重だった。足が止まる者もいた。顔色の悪い者もいた。けれど、大きな事故は起きなかった。
その日の試験は、そこで終わりになった。
合否は翌朝に伝える。
そう告げられた志願者たちは、竜騎士団の宿舎へ案内された。
宿舎は、石造りの簡素な建物だった。
余計な飾りはなく、廊下は広く、窓も大きい。部屋は何人かで使うようになっていて、寝台と小さな棚が並んでいる。志願者たちはそこで荷物を置き、簡単な説明を受けた。
クロが案内された部屋には、まだ誰もいなかった。
二段ベッド。
小さな棚が二つ。
窓が一つ。
荷物を置いても、部屋は静かなままだった。
本当なら、もう一人いたのかもしれない。
クロは、空いている寝台を見た。
金色の髪の、背筋の伸びた女の子が、そこに座っていたのかもしれない。低い声で、何かを言ったのかもしれない。
けれど、そこには誰もいなかった。
夕食は食堂だった。
大きな長机がいくつも並び、奥では鍋から湯気が上がっている。出されたのは、具の多いスープと、硬めのパンと、焼いた肉だった。宿町の女将の料理ほど濃くはない。けれど、体を動かしたあとには十分すぎるほど温かかった。
志願者たちは席につき、ようやく少しずつ声を出し始めた。
「明日、合否か……」
「残ってるだけでもすごいと思いたい」
「俺、座学が駄目だ。たぶん駄目だ」
「俺は騎乗台で落ちた」
「落ちても続けられたなら、まだ分からないだろ」
「分からないのが怖いんだよ」
そんな声が、あちこちで混ざる。
やがて、視線は自然とクロへ集まり始めた。
「なあ、あれ、どうやったんだ」
近くの少年が言った。
「あれ?」
クロはスープを飲む手を止める。
「竜の前で、クレアを助けたやつ。俺、何が起きたのか全然分からなかった」
「動いた」
「それは見た。いや、見えなかったけどな」
周りの志願者たちが、低く笑う。
「外周走の時も速かったけど、あれはそういう速さじゃなかった」
「猫獣人ってみんなああなのか?」
クロは少し考えた。
「たぶん、違う」
「たぶんか」
「村には、私みたいなのはあまりいなかった」
「そうなのか……」
少年たちは妙に納得したような、していないような顔をした。
別の子が、今度は身を乗り出した。
「竜用の鞍も持ち上げちまったもんな!」
「持った」
「重くなかったのか?」
「重かった」
「軽いとか言われなくてよかった」
「でも、芋酒の樽の方が意地悪だった」
「……樽?」
「丸い。中が動く。止めると、持っていかれる」
「……何の話だ?」
「樽」
「それは分かる」
会話が少し迷子になった。
周りの志願者たちが、また低く笑う。
空気が少しだけ緩んだ。
クロはパンをちぎり、スープに浸した。パンは仲裁役だった。硬いパンも、スープに入れると少しやわらかくなる。宿町で商人に教わったことは、竜騎士団の食堂でも役に立った。
けれど、口に入れても、少しだけ味が遠かった。
クロは食堂を見回した。
クレアがいない。
背筋を伸ばして食事をしている姿も、低い声で何かを言う声もない。
さっきまで、ずっと近くにいた気がするのに。
いないと、少しだけ変だった。
「クレアは?」
クロが訊くと、近くの少年が少し声を落とした。
「救護室じゃないのか」
「傷、浅かったんだろ?」
「でも、あれは……なあ」
誰も続きを言わなかった。
腕が残った。
それは間違いない。
けれど、クレアがここにいないことも、間違いなかった。
クロはスープの表面を見た。
湯気が揺れている。
食べなければ、体が動かない。
それは分かっていた。
だから食べた。
でも、食堂の入口が開くたびに、クロの耳はそちらへ向いた。
クレアは、最後まで来なかった。
クレアは、与えられた個室にいた。
救護室で傷の手当てを受けたあと、しばらく休むように言われた。傷は浅い。噛みつかれたわけではなく、歯が掠めた程度だと説明された。運がよかった、とも言われた。
違う。
運ではない。
あの子が動いた。あの黒い猫獣人が、私を引いた。竜の顎から、私の腕をずらした。私が、助けられた。竜の前で悲鳴を上げた私を、あの子が助けた。
「……っ!」
クレアは膝の上で、裂けた袖を握りしめていた。
着替えは用意されていた。包帯も巻かれている。血はもう止まっている。痛みも、我慢できないほどではない。それなのに、指先から震えが消えなかった。白い布に滲んだ赤。竜の鼻息。頬に触れた温かさ。自分の喉から漏れた、小さくて情けない声。
レーヴェンハルトの娘が。
オイゲン・フォン・レーヴェンハルトの娘が。
竜の前で、悲鳴を上げた。
その事実が、何度も胸の奥を抉った。怖かった。確かに怖かった。あの爪も、鱗も、顎も、息も、近すぎた。けれど、それを認めてしまえば、自分が今まで立っていた場所が崩れてしまう気がした。
竜騎士になるために来た。
父に認められるために来た。
レーヴェンハルトの名に恥じないために来た。
なのに、竜の前で固まり、悲鳴を上げ、助けられた。
しかも、あの子に。
田舎から来た、小柄な猫獣人の少女。竜用の鞍を担ぎ、模擬騎乗台で落ちず、座学でも迷わず羽ペンを動かしていた、あの子に。
クレアは唇を噛んだ。
感謝しなければならない。
分かっている。
助けられたのだから。
けれど、ありがとうと言えるほど、心はきれいに整っていなかった。怖い。悔しい。恥ずかしい。情けない。助かったことに安堵している自分すら、許せなかった。
明日、合否が出る。
けれど、クレアの中ではもう答えが出ていた。
あの場にいた全員が見ていた。志願者たちも、試験官も、兵士たちも、そしてクロも。自分は竜の前で怯み、悲鳴を上げ、助けられた。どれだけ言い訳を探しても、その事実だけは消えない。
クレアは裂けた袖を強く握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛い。
けれど、その痛みだけが、まだ自分のものだと思えた。




