一章 第4話 「入団試験・下」
実技のあとに座学がある。
その説明を受けた時、志願者たちの顔から、ほんの少しだけ色が抜けた。
走った。
運んだ。
揺らされた。
そのあとで、書く。
竜騎士団の基礎は、思っていたよりずっと広かった。
「筆記もあるのか……」
「聞いてないぞ」
「聞いてなくはないだろ。基礎を見るって言ってた」
「基礎の範囲が広すぎる」
小さな声が、あちこちで漏れる。
試験官は聞こえているはずだったが、何も言わなかった。ただ志願者たちを建物の中へ戻し、長机の並ぶ部屋へ案内した。
クロは椅子に座り、机の上に置かれた答案用紙を見た。
紙が白い。
羽ペンがある。
インク壺がある。
さっきまで土の上にいたのに、急に空気が変わった気がした。クロは少しだけ背筋を伸ばし、羽ペンを手に取る。荷札を書く時よりも、帳面に樽の数を書く時よりも、なんとなく指先が慎重になった。
クレアは、クロから少し離れた斜め後ろの席に座っていた。
正面からは見えない。けれど、視界の端には入る。クロが少し動けば、その耳も、手元も見える位置だった。
「これより座学試験を行う」
試験官の声が部屋に響いた。
「内容は、アウルドラニア王国の基礎教養、および竜騎士の起源についてだ。竜騎士を志す者ならば、最低限知っているべきことを見る」
何人かの志願者が、答案用紙を見たまま固まった。
「時間は限られている。始め」
その一言で、部屋に羽ペンの音が広がった。
最初の設問は、アウルドラニア王国の建国についてだった。
建国王。
龍との契り。
魔物に脅かされていた土地。
空を守る者たちの始まり。
クロは、答案用紙を見つめた。
知っている。
何度も読んだ。
ジェミノ村の家で、地図の横に置いてあった本。芋酒の匂いがする部屋で、父が帳面をつけている隣で、母が火の番をしている近くで、ヨルが眠ったあとの静かな夜に、何度も開いた本。
建国記。
そこに書かれていた言葉が、今、目の前の問いになって並んでいる。
クロは羽ペンを持ち、書き始めた。
最初は少しだけ慎重に。
けれど、書き出すと止まらなかった。
建国王が龍と契りを結んだこと。
竜と人が共に空を守るようになったこと。
竜騎士は、ただ竜に乗る者ではなく、王国と民を守るために空へ向かう者であること。
知っている言葉が、紙の上に降りていく。
少し離れた席では、志願者の一人が頭を抱えていた。
別の者は、羽ペンを持ったまま固まっている。
実技で前にいた少年も、今は眉間に皺を寄せていた。
クレアは、迷いなく書いていた。
設問を読み、ほとんど間を置かずに答えを書いていく。羽ペンの動きは一定で、字も綺麗だった。答えを探しているのではない。知っているものを、ただ正しい場所へ置いていく動きだった。
当然、という速さだった。
けれど、その視界の端で、黒い耳が小さく揺れている。
クレアは、ほんの少しだけ視線を動かした。
クロが書いていた。
迷っていない。
思い出せずに止まっているのでもない。
設問を読み、少し考え、すぐに文字を置いていく。
クレアの指先が、わずかに止まった。
すぐに視線を戻す。
羽ペンの音が、また一定に戻った。
設問は続いた。
王都の役割。
竜騎士団の任務。
魔物災害時の避難。
竜を兵器としてではなく、相棒として扱う理由。
クロは、その言葉に少しだけ手を止めた。
相棒。
まだ、分からない言葉だった。
かけしっぽは友達だった。
ロザは、レイナさんの大事な相手だった。
白い竜は、あの日、教会の向こうに立っていた。
黒い竜は、なぜか忘れられない。
でも、竜騎士と竜がどうやって相棒になるのか、クロにはまだ分からない。
だから、知っていることだけを書いた。
竜は、命令だけで動くものではない。
竜騎士は、竜の力を借りるだけの者ではない。
竜と共に飛ぶ者は、竜の命も預かる。
本に書いてあったこと。
自分が見てきたもの。
その間にあるものを、クロはまだ上手く言葉にできなかった。
それでも、書いた。
書けるだけ、書いた。
最後の欄で、クロの手が止まった。
そこだけ、少し形が違っていた。
採点には関係ないとの注釈がある。
ーーあなたにとって、竜騎士とは何ですか。
自由に書きなさいーー
クロは、その欄を見つめた。
書きたいことは、あった。
あった、というより、多すぎた。
白い竜の背に差していた朝の光。
砕けた教会の壁。
村の匂い。
父と母の声。
ヨルの小さな手。
空を横切る竜の影。
レイナとロザ。
黒よりも黒かった竜。
そして、自分の口からこぼれた言葉。
たくさんあった。
多すぎた。
羽ペンの先に、インクが溜まる。
全部は入らない。
入らないと思った。
クロは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり羽ペンを下ろす。
一行だけ、書いた。
間に合う人。
それだけだった。
答案が回収されていく。
試験官は一枚ずつ紙を重ね、軽く目を通しながら歩いていた。途中で、何度か眉を動かす。ほとんど空欄の多い答案もある。逆に、細かくびっしり書かれた答案もある。
クロの答案を手に取った時、試験官の目が少しだけ止まった。
最後の自由欄。
一行だけの答え。
試験官は、ほんの短い間それを見ていた。
それから何も言わず、次の答案を重ねた。
座学が終わると、志願者たちはまた訓練場へ戻された。
外の空気は、さっきより少し冷たく感じた。
走って、運んで、揺らされて、書いた。
次は、竜。
その言葉だけで、志願者たちの間に別の緊張が広がっていた。
試験官は訓練場の端へ向かって歩く。
竜舎に近い場所だった。
乾いた藁の匂いが濃くなる。
革油の匂いも強い。
そして、その奥に、生き物の熱がある。
「これより、竜騎士適性を見る」
試験官は足を止めた。
「難しいことは求めない。竜の前に進む。指示された位置で止まる。勝手に触れるな。声を上げるな。走るな。竜の正面に不用意に立つな」
志願者たちが、無言で頷いた。
「見るのは、竜を恐れすぎないか。竜を刺激しないか。竜の前で自分を保てるかだ」
竜舎の扉が開かれる。
中から、一頭の竜が姿を現した。
深い緑の鱗。
厚い爪。
畳まれた大きな翼。
その翼の縁には、細かな傷がいくつも残っていた。鱗の色も、場所によってわずかに違う。首から肩にかけての筋肉は太く、ただ飼われているだけの生き物ではなく、何度も風を受け、何度も空へ上がってきた身体だった。
王国の空を、実際に飛んでいる竜だった。
志願者たちの背筋が伸びる。
誰かが、息を呑んだ。
竜はゆっくりと訓練場へ進み、兵士の指示で止まった。手綱を持つ兵士は二人。近くには、万一に備えた別の兵士も控えている。
竜は落ち着いているように見えた。
けれど、大人しいだけの生き物ではなかった。
そこにいるだけで、空気の重さが変わる。
「一人ずつ前へ出ろ。指示された線まで進み、そこで止まれ。合図があれば戻る」
試験官が言った。
最初の志願者が前へ出た。
足取りはぎこちなかった。竜に近づくほど、歩幅が小さくなる。指定線の手前で止まりかけ、試験官に「もう一歩」と言われて、ようやく進んだ。
竜は何もしなかった。
ただ、見ていた。
次の志願者は、逆に背筋を張りすぎていた。怖くないと示したかったのか、少し近づきすぎた。
「そこまでだ」
試験官の声が飛ぶ。
志願者は慌てて足を止めた。
三人目は、無難にこなした。
顔は青かったが、声を上げず、指定線で止まり、合図で下がった。
試験は、淡々と進んでいく。
けれど誰一人、気を抜いてはいなかった。
クロの番が来た。
クロは前へ出た。
竜が、そこにいる。
大きい。
近くで見ると、本当に大きい。
爪も、翼も、首も、息も、全部が人とは違う。少し動いただけで、自分など簡単に倒れてしまうのだと分かる。
怖くないわけではなかった。
でも、怖いだけではなかった。
あの日、砕けた教会の向こうに立っていた白い竜。
冬のジェミノ村で出会ったロザの、やわらかな目。
王都の空を飛んでいた、眠そうな小隊長の黒い竜。
それらが、胸の奥で少しずつ重なった。
竜は、大きい。
竜は、強い。
竜は、怖い。
けれど、それだけではない。
そこにいる。
息をして、こちらを見ている。
クロは指定された線まで進み、止まった。
竜の目が、クロを見る。
クロも見返した。
長く見つめすぎない。
けれど、逸らしすぎない。
竜の鼻が、わずかに動いた。
クロの耳も、ほんの少し動いた。
試験官の合図が出る。
クロはゆっくり下がった。
何も起きなかった。
けれど、試験官が記録板に何かを書いた。
*****
クレア・フォン・レーヴェンハルト。
名を呼ばれた瞬間、私の背筋は伸びた。伸ばそうとしたのではない。そうなるように、ずっと教え込まれてきた体だった。
人前では背を丸めない。顎を引きすぎない。視線を泳がせない。声は荒げず、言葉は選び、歩く時は足音まで乱さない。レーヴェンハルトの名を持つ者は、どこで誰に見られても、その名に相応しくあらねばならない。幼い頃から、何度も言われてきた。食事の席で。礼法の稽古で。訓練場で。父の部下たちが並ぶ広間で。失敗すれば、その場で叱られることは少なかった。ただ、父の目がほんの少し冷たくなる。それだけで十分だった。
私は前へ出た。
歩幅は乱れていない。指先も震えていない。顎も下がっていない。指定された線も越えていない。できている。できているはずだった。私は、オイゲン・フォン・レーヴェンハルトの娘だ。竜騎士団大隊長の娘であり、代々竜騎士を輩出してきた家の娘だ。竜の前で怯むなど、あってはならない。そんな姿を見せれば、私だけの恥では済まない。父の名に傷がつく。家の名に傷がつく。レーヴェンハルトの娘がこの程度かと、誰かが思う。
それだけは、許されない。
竜は力だ。竜は証だ。竜は空へ至るための翼だ。選ばれた者が、鍛えられた者が、相応しい者だけが、その背に立つことを許される。そう教えられてきた。そう信じてきた。信じなければならなかった。そうでなければ、私は何のためにここにいるのか分からなくなる。
私には、証が必要だった。
父の娘である証。レーヴェンハルトの名に相応しい証。誰かに与えられた名前ではなく、私自身がここに立っていいのだと示すための証。
だから、竜を恐れてはいけない。
私は歩いた。
竜が近づく。違う。私が近づいている。分かっている。これは試験だ。指定された線まで進み、止まり、合図があれば下がる。ただ、それだけ。ただ、それだけのことを、私は今まで何度も頭の中で繰り返してきた。竜の前でも、私は乱れない。竜の前でも、私はレーヴェンハルトでいられる。そうでなければならない。
けれど、近づくほど、竜は私の知っている言葉から外れていった。
竜は力。
竜は証。
竜は翼。
そのはずなのに、目の前にいるそれは、言葉ではなかった。
厚い爪が土に食い込んでいる。深い緑の鱗には、古い傷の線がいくつも走っている。畳まれた翼は静かに見えるのに、そこにあるだけで風の重さを思わせた。喉の奥で低い音が鳴っている。鳴き声というより、体の内側に触れてくるような音だった。
一度あの顎が閉じれば、人の腕など簡単に砕ける。
そう思った瞬間、私はその考えを押し殺した。
違う。
怯えてなどいない。
怯えてはならない。
竜を恐れる者に、竜騎士の資格などない。父なら、そう言う。父の声が、頭の奥で響いた気がした。今ここに父はいない。それでも、見られている気がした。父に。家に。レーヴェンハルトという名前そのものに。
私は指先に力を込めた。手袋の内側で、爪が掌に食い込む。痛みがあれば、呼吸を戻せると思った。けれど、吸った息は浅く、吐いた息は細かった。胸の奥が固くなる。喉が狭くなる。まばたきをするたびに、竜の鱗が近くなる。
指定された線は、もうすぐそこだった。
止まればいい。
止まって、合図を待てばいい。
それだけで終わる。
私はできる。
私はできるはずだ。
私は、レーヴェンハルトなのだから。
竜の鼻先が、思っていたよりも近くにあった。
竜が、ふっと鼻息を吐いた。
温かい息が、頬を打つ。
それだけだった。
本当に、それだけだった。
なのに、その一瞬で、私の中に張り詰めていたものが、細く音を立てて切れた。
「……ひっ」
声は、小さかった。
けれど、出た。
*****
竜の目が変わった。
クレアには、それが分からなかった。
周囲の志願者にも、まだ分からなかった。
けれど、クロには見えた。
竜の首が、わずかに沈む。
前足が土を噛む。
尾の先が止まる。
次の瞬間、竜の顎が開いた。
訓練場の音が、遠くなった。
試験官が動く。
兵士が手綱を引く。
控えていた兵士も踏み出す。
けれど、竜の首が沈む方が早かった。
開いた顎の先に、クレアの腕があった。
その場にいた誰もが、次に起きることを見てしまった。
まだ起きていないのに。
見えてしまった。
クロが動いた。
走った、では足りなかった。
地面を蹴った音がした時には、もうクレアの横にいた。
クロはクレアの体に飛びつくようにして、横へ引いた。
ただ突き飛ばすのではない。
腕の位置をずらす。
竜の顎が閉じる場所を、ほんの少し変える。
ほんの少し。
けれど、その少しが全部だった。
竜の歯が、空を噛んだ。
いや、空ではなかった。
クレアの袖が裂け、白い布に赤が滲む。
けれど、腕はそこにあった。
クロが、クレアを抱えるようにして地面を転がっていた。
誰も声を出せなかった。
クレア自身も、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
クロだけが、竜を見ていた。
まだ終わっていない。
そういう目だった。




