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一章 第3話 「入団試験・上」

訓練場は広かった。


広い、というだけでは足りない。踏み固められた土の地面が大きく広がり、端には木組みの足場や、砂袋、縄、訓練用の木剣が並んでいる。奥には竜舎の屋根が見え、時折、低い竜の鳴き声が空気を震わせた。


クロは荷物を預け、志願者たちの列に並んだ。


さっきまで背負っていた荷物がなくなったので、肩が少し軽い。けれど、その代わりに胸の奥がそわそわした。目の前には、見たことのない訓練器具がたくさんある。右を見ても、左を見ても、何かがある。


クロの耳はまた忙しく動き始めた。


「落ち着きがありませんわね」


隣から、低い声がした。


クレアだった。


受付の時と同じく、背筋を真っ直ぐ伸ばして立っている。周りの志願者たちが少し緊張した顔をしている中で、クレアだけは表情をほとんど動かしていなかった。


「見るものが多いから」


クロは正直に答えた。


「試験前に気を散らしているようでは、先が思いやられますわね」


「見ておかないと、あとで困るかもしれない」


「……そういう考え方も、あるのでしょうね」


クレアはそれ以上何も言わなかった。


声には、受付の時と同じ硬さがあった。


けれど、クロには少しだけ分かった。クレアはただ立っているわけではない。訓練場の器具も、試験官の位置も、兵士たちの動きも見ている。


目だけは、ちゃんと働いていた。


そこへ、先ほど広間で説明をした男が訓練場の中央に立った。


「これより基礎試験を開始する」


志願者たちの背筋が伸びる。


「前にも言った通り、最初に見るのは基礎だ。特別な技術は求めない」


その言葉に、何人かの志願者が小さく息を吐いた。


少し安心したのだと思う。


クロも、そうなのか、と思った。


けれど試験官は、すぐに訓練場の奥を指した。


そこには、低い柵が置かれた走路、ぬかるみを混ぜた土の道、重そうな荷物、竜具、そして木製の騎乗台があった。


志願者たちの空気が、少し止まった。


「……基礎?」


誰かが呟いた。


「あの鞍、まさか運ぶのか」


「人が一人で扱う重さじゃないだろ」


ざわめきが広がる。


試験官は顔色ひとつ変えなかった。


「竜の背に乗る前に、走れ。運べ。落ちるな。これが基礎だ」


志願者たちが黙った。


言っていることは分かる。


けれど、思っていた基礎とは違った。


かなり違った。


「まずは外周走だ」


試験官が言った。


「訓練場の外周を三周。途中には砂地、ぬかるみ、低い柵、石畳、斜面がある。速さだけでは見ない。転ばず、止まらず、周囲を見て走れ」


志願者たちは顔を見合わせた。


クレアは動じていなかった。


当然あるものを、当然受け取っている顔だった。


クロは少しだけクレアを見た。


「知ってたの?」


「竜騎士団の基礎試験が、ただの走り込みで終わるはずがありませんわ」


「そうなんだ」


「常識です」


「知らなかった」


「でしょうね」


冷たい言い方だったが、クロは素直に頷いた。


知らないものは、知らない。


でも、今知った。




走り出すと、最初に飛び出したのは体の大きな少年たちだった。


足が速い。腕も大きく振れている。訓練場の土を蹴る音が続き、志願者たちの列が長く伸びる。


クロはその中ほどを走っていた。


最初から飛ばしすぎない。


前の人の足を見る。横の人の肩を見る。地面を見る。砂地は少し滑る。石畳は跳ねる。ぬかるみは沈む。低い柵は、近づいてから跳ぶと遅い。


クロの耳が、風を切って揺れた。


一周目。


大きな少年たちは速かった。けれど砂地に入った瞬間、足を取られて少し速度が落ちる。ぬかるみに入ると、何人かが大きく体勢を崩した。


クレアは崩れなかった。


背筋を大きく揺らさず、歩幅も乱さない。砂地では足を深く入れすぎず、ぬかるみではわずかに歩幅を詰める。低い柵を越える動きも綺麗だった。


走り慣れている。


少なくとも、初めてこういう道を走る者の動きではなかった。


周囲の足音が乱れていく中で、クレアの足音だけは一定だった。


クロは、その少し後ろを走っていた。


二周目に入る頃、クロの走り方が変わった。


速くなった。


ただ、速いだけではない。


石を踏んでも体が跳ねない。ぬかるみに足が沈みきる前に、もう次の足が出ている。低い柵も、跳ぶというより、そこに段差があることを最初から知っていたように越えた。


畦道を走った。


水路の縁を走った。


畑のぬかるみで足を取られないように走った。


荷物を持って、転ばないように走った。


そういう日々が、クロの足に残っていた。


三周目。


クロはクレアの横に並んだ。


クレアの目が、少しだけ動く。


「……余裕ですのね」


「余裕ではないよ」


クロは息をしながら答えた。


「でも、地面が分かりやすい」


「地面が?」


「うん。ここ、踏むと滑る。あそこ、ちょっと沈む」


「……走りながら、そんなものを見ているのですか」


「見ないと転ぶよ」


クレアは一瞬だけ黙った。


その間に、クロはぬかるみを抜けた。


足音が軽い。


試験官の目が、わずかに細くなった。


記録板に、順位ではない何かが書き込まれる。




外周走が終わった頃には、志願者たちの半分ほどが肩で息をしていた。


クロも息は上がっている。


けれど、耳はまだ元気だった。


ぴこぴこと動いている。




「次は運搬だ」


試験官が言った。


訓練場の端に、三種類の荷が置かれていた。


水の入った大桶。


人の背丈ほどもある砂袋。


そして、竜用の鞍。


その鞍は、馬に使うものとはまるで違っていた。厚く、重く、革も金具も頑丈そうに作られている。竜の背に固定するための帯や留め具がいくつも垂れ、見ただけで扱いづらさが分かった。


「この三つから一つを選び、指定の位置まで運べ。落とすな。壊すな。水はこぼしすぎるな。速さも見るが、雑に扱った者は減点する」


志願者たちが荷を見た。


何人かが竜用の鞍へ向かった。


そして、持ち上げようとして、すぐに顔を変えた。


「……無理だな」


「ああ、これは無理だ」


「壊したら絶対怒られるやつだ」


「砂袋にする」


判断は早かった。


大桶を選ぶ者もいた。砂袋を選ぶ者もいた。竜用の鞍へ挑戦した者は、例外なくすぐに別の荷へ移った。


クレアは水の入った大桶を選んだ。


大桶は重い。けれど、厄介なのは重さだけではない。中の水が揺れる。歩幅を乱せば水が暴れ、勢いがつけば桶ごと持っていかれる。


クレアはそれを分かっているようだった。


腰を落とし、腕に力を入れ、持ち上げる。水面が揺れるが、すぐに歩幅を整えて抑えた。背筋は崩れない。速度も遅くない。水は少し跳ねたが、こぼれたのはわずかだった。


クレアは指定位置まで運び切り、静かに桶を下ろした。


クロは、それを見て小さく頷いた。


すごい。


水が怒らないように運んでいた。


次に、クロは竜用の鞍を見た。


大きい。


厚い。


硬そう。


革には油が染みていて、ところどころ擦れた跡がある。金具の周りには、何度も使われてきた重さが残っていた。垂れた帯は太く、竜の背にしっかり固定するためのものだと分かる。


これが、竜の背に乗るもの。


竜に、一番近いもの。


クロの耳が、ぴんと立った。


「選べ」


試験官が言った。


クロは迷わず、竜用の鞍を指差した。


「これ」


近くにいた志願者たちが、そろってこちらを見た。


クレアも見た。


目が少し細くなる。


「……無謀ですわね」


クロは首をかしげた。


「まだ持ってないよ」


「見れば分かることもあります」


「じゃあ、見てみる」


「そういう意味では……」


クレアはそこで言葉を止めた。


言っても無駄だと思った顔だった。


クロはすぐには鞍を持ち上げなかった。


まず、周りを一度回る。


革の厚い部分を触る。金具の位置を見る。垂れた帯を持ち上げ、どこに重さが集まっているのか確かめる。少し引いてみる。少し押してみる。


正面から持てば、重い。


端だけ持てば、傾く。


金具のある方を下にすれば、揺れる。


クロは目を細めた。


芋酒の樽と同じだった。


重いものは、重い。


でも、重さは全部同じ場所にいるわけではない。


どこに乗せるか。どこで受けるか。どこを逃がすか。


それで、重さは少しだけ言うことを聞く。


クロは鞍の中央ではなく、革が重なり、金具の重さが下へ集まる、その少し斜め上に手をかけた。もう片方の手を内側の帯へ差し込む。


息を吸う。


膝を曲げる。


背中に乗せる場所を決める。


「どっこいしょ」


クロはそう言って、竜用の鞍を肩に担いだ。


試験官が、記録板から目を上げた。


訓練場が、少し静かになった。


誰かが小さく言った。


「……持った」


クレアの唇が、ほんの少しだけ開いた。


「……ほぁ?」


嫌味でも、嘲りでもなかった。


理解が一瞬だけ足場を失った声だった。


クレアはすぐに口を閉じた。何事もなかったように前を向く。


ただ、眉間の皺だけは消えていなかった。


クロは歩き出した。


軽いわけではない。


肩にも、背中にも、腰にも、ずしりと重さがかかっている。足を踏み出すたびに、金具がわずかに揺れる。


重い。


でも、父と二人で運んだ芋酒の樽の方が、もっと意地が悪かった。


あれは丸い。中身が揺れる。持ち損ねると転がる。止めようとすると、余計に持っていかれる。


それに比べれば、この鞍はまだ、どこを支えればいいのか教えてくれる。


クロは重さを真正面から受けず、肩と背中と腰に流し、膝で支えた。足を止めない。止めると重くなる。


父と一緒に樽を運んだ時も、そうだった。


持ち上げるより、動かす。


抱えるより、乗せる。


止めるより、流す。


クロは指定位置まで歩き、膝を曲げた。勢いで落とすのではなく、肩から背中へ重さを逃がしながら、ゆっくり鞍を下ろす。


金具が鳴ったのは、一度だけだった。


「できた」


クロは少し息を吐いた。


耳が、満足そうにぴこりと動く。


試験官が近づいてきた。


「なぜ、それを選んだ」


クロは竜用の鞍を見た。


「竜に一番近そうだったから」


試験官は黙った。


周囲も黙った。


クロは続けた。


「これ、竜の背に乗るものでしょ。触ってみたかった」


試験官はすぐには記録板に何も書かなかった。


クレアは何か言いかけて、やめた。


代わりに、ものすごく低い声で呟いた。


「……試験ですのよ」


「うん」


クロは頷いた。


「だから、壊さず運んだ」


クレアは目を閉じた。


たぶん、少し苛立っていた。




最後は、模擬騎乗台だった。


訓練場の奥に置かれた木製の台は、竜そのものを模したものではなかった。鞍にまたがった状態で、揺れに耐えるための訓練具だった。


中央には竜用の鞍を真似た厚い座部があり、左右には革の手綱が垂れている。台の下には太い軸と縄が組まれ、数人の兵士がそれぞれの位置についた。


志願者たちの間に、低いざわめきが起きる。


「今度は何だ」


「乗るのか、あれ」


「基礎って言ったよな」


「言ったけど、もう信用してない」


試験官は淡々としていた。


「模擬騎乗台だ」


そのまま、木製の台を指す。


「竜は、常に静かに飛ぶわけではない。風を受ける。身を捩る。急降下する。魔物に襲われれば、体勢も崩れる」


志願者たちが黙る。


「竜騎士は、いかなる時も手綱を離すべからず」


試験官の声が、訓練場に落ちた。


「空で落ちることは、死だ」


誰も笑わなかった。


さっきまでざわついていた志願者たちも、口を閉じた。


これは遊びではない。


訓練ですら、落ちることを想定している。


志願者たちは、それを理解した。


「一人ずつ乗れ。合図で台を動かす。落ちた者はそこで終了。手綱を離した者も終了だ」


試験は始まった。


最初の志願者は、数回の揺れで落ちた。


次の志願者は、手綱を握っていたが、体が横へ流れて台から転がった。


三人目はよく耐えたが、大きく跳ねた瞬間に片手を離してしまい、そこで終了になった。


クレアの番が来た。


クレアは静かに台へ上がった。


怖がっている様子はない。手綱を握り、足の位置を確かめ、腰を落とす。姿勢は綺麗で、無駄が少ない。


兵士たちが縄を引く。


模擬騎乗台が前後に揺れた。


クレアの体は揺れたが、崩れなかった。


次に、左右へ傾く。


膝が沈み、上体がわずかに流れる。けれど手綱は離れない。足の位置も大きく乱れない。


さらに台が跳ねた。


クレアの髪が揺れる。


それでも、落ちなかった。


周囲の志願者たちが、息を呑む。


クレアは最後まで耐え、合図と共に台から降りた。


息は少し上がっている。


けれど顔は崩さない。


クロは素直に思った。


やっぱり、すごい。


そして、クロの番が来た。


クロは模擬騎乗台に近づいた。


竜ではない。


木と革と縄でできた台だ。


けれど、背にまたがり、手綱を握る形だけは、少し竜に近かった。


クロの耳が、ぴんと立つ。


「早く乗れ」


試験官が言った。


「はい」


クロは台へ上がった。


手綱を握る。


短い。


思っていたより短い。


足の位置を探る。台の下の軸が、少しだけ鳴った。兵士たちが縄を持ち直す音が聞こえる。右にいる兵士の足が少し開いた。左の兵士は縄を短く握っている。


たぶん、左に強く来る。


「始め」


試験官が言った。


台が跳ねた。


クロの体も浮いた。


けれど、手綱は離れなかった。


次に台が左へ傾く。


クロの尻尾がふわりと逆へ流れた。膝が沈み、体が台の動きより半拍遅れてついていく。


綺麗ではなかった。


クレアのように、型がある動きではない。


でも、落ちる形にならなかった。


台が前へ沈む。


クロは手綱を引きすぎず、体を少し低くする。台が戻る。戻った勢いに逆らわず、腰を逃がす。


耳が揺れの音を拾う。


尻尾が、遅れてふわりと逆へ流れる。


志願者たちの視線が集まった。


「猫だ」


誰かが呟いた。


「猫獣人だろ」


「そういう意味じゃない」


試験官の目が細くなる。


「もう一段」


兵士たちの動きが変わる。


台が、大きく跳ねた。


クロの体が浮く。


一瞬、足が台から離れた。


それでも、手綱は離れない。


落ちる。


周囲の誰かがそう思った。


けれどクロは、落ちなかった。


着地する瞬間、膝を柔らかく使い、肩を落とし、手綱を支点にして体を戻した。足が台の上を滑ったが、すぐに止まる。


クロの目は、台の先を見ていた。


怖くないわけではない。


けれど、怖がるより先に、次の揺れを見ている。


もう一度、台が傾く。


クロは耐えた。


そのまま、終了の合図が鳴った。


台が止まる。


クロは手綱を握ったまま、しばらく動かなかった。


それから、はっとしたように試験官を見る。


「離していい?」


「終わった後ならいい」


「よかった」


クロは手綱を離し、台から降りた。


足が地面に着くと、少しだけ膝が笑った。


試験官がクロを見た。


「怖くなかったか」


「怖かった」


クロはすぐに答えた。


「でも、手綱を離したらもっと怖いと思った」


試験官はしばらく黙った。


記録板の端を指で軽く叩き、それから短く頷いた。


「下がれ」


「はい」


クロは列へ戻った。


クレアがこちらを見ていた。


冷たい顔は崩れていない。けれど、その目はさっきまでより少しだけ鋭かった。


「……あなた、本当に変わっていますわね」


「さっきも言ってた」


「もう一度言いたくなりました」


「そっか」


クロは少し考えた。


「クレアもすごかったよ」


クレアの目が、わずかに動いた。


「……当然ですわ」


そう言う声は、いつも通り冷たかった。


けれど、ほんの少しだけ返事が遅かった。




三つの試験が終わる頃には、志願者たちの顔つきが変わっていた。


外周走で息を切らし、荷を運んで腕を震わせ、模擬騎乗台で足元を揺らされた。


基礎という言葉に安心していた者は、もう一人もいなかった。


試験官は志願者たちを見渡す。


「実技はここまでだ」


誰かが小さく息を吐いた。


「次は座学。その後、竜騎士適性を見る」


ざわめきが戻った。


「竜騎士適性?」


「今度は何を見るんだ」


試験官は声を変えずに言った。


「竜を恐れすぎないか。竜を刺激しないか。竜の前で自分を保てるかを見る」


竜。


その言葉だけで、志願者たちの背筋が伸びた。


竜舎の方から、低い鳴き声が響く。


大きな声ではない。


けれど、腹の奥に届く声だった。


クロの耳が、ぴんと立つ。


怖い、より先に、知りたいと思った。


竜がいる。


この先に、竜がいる。


クロの胸の奥が、また熱くなった。

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