一章 第2話 「志願者たち」
竜騎士団の門の内側は、王都の通りより静かだった。
けれど、静かなだけではない。
石畳を踏む靴音。遠くから聞こえる号令。革具を運ぶ兵士たち。高い屋根の向こうから流れてくる、乾いた藁と革油の匂い。空を横切る翼の影。
音は王都より少ないのに、一つ一つが大きい。
クロの耳は、また忙しくなった。
「……中も忙しい」
思わず呟くと、門の内側で待っていた案内係の兵士が振り返った。
「何がだ」
「耳が」
「耳」
兵士は一瞬だけ黙った。
それから、何も聞かなかったことにしたように、前を向いた。
「志願受付は右手の建物だ。勝手に離れるな」
「はい」
クロは素直に頷き、兵士の後ろについて歩いた。
歩きながら、目は勝手に動いた。
右手には大きな訓練場が見える。木剣を振る音。走る人の足音。掛け声。奥には、見たことのない大きな器具が並んでいる。さらにその向こう、建物の屋根越しに竜舎らしき影が見えた。
そこから、竜の匂いがした。
クロの足が、ほんの少しだけ左へ寄った。
「右だ」
兵士が言った。
「はい」
クロは右へ戻った。
「今、左へ行こうとしたな」
「匂いがした」
「匂いで曲がるな」
「……はい」
ここは竜騎士団だった。
匂いで進んではいけないらしい。
クロは一つ覚えた。
志願受付の建物は、門の内側にある石造りの大きな建物だった。
中へ入ると、広い部屋に何人もの志願者が集まっていた。年齢はクロと同じくらいの子が多い。背の高い子、肩幅の広い子、剣を持つ手に慣れていそうな子、身なりの整った子、緊張で顔が固くなっている子。
獣人もいた。
人間もいた。
クロより大きい子が、たくさんいた。
クロは少しだけ自分の荷物の紐を握った。
みんな強そうだった。
「志願者はそこで待て。呼ばれたら受付へ行け」
案内係の兵士はそう言い残して、部屋の奥へ戻っていった。
クロは言われた場所に立ち、周囲を見た。
見る。
と言っても、じろじろ見すぎるのはよくない気がしたので、できるだけ普通の顔をした。けれど耳は正直だった。右へ左へ、ぴこぴこと動く。
近くにいた少年が、ちらりとクロを見た。
「猫獣人?」
「うん」
「小さいな」
クロは自分の体を見下ろした。
「もうすぐ十四」
「いや、年じゃなくて」
「背?」
「背もだけど」
少年は少し困った顔をした。
クロは考えた。
小さいと言われるのは、初めてではない。村でも背は伸びたが、大人と比べればまだ小さい。母と同じくらいにはなったけれど、肩幅は細いし、荷物も少ない。
けれど、竜騎士団に入るには足りないと言われたわけではなかった。
たぶん。
「鍛えてはきたよ」
クロが答えると、少年はますます困った顔になった。
「そうか」
「うん」
会話はそこで終わった。
クロは少しだけ首をかしげた。
何か変だっただろうか。
受付では、一人ずつ名前や出身を確認していた。
書状を出す者もいれば、家の紹介状を持ってくる者もいる。兵士の家の子らしい者は、受付の者と短く言葉を交わし、町育ちの子は緊張した顔で自分の名を答えていた。
しばらくして、クロの番が来た。
「次」
受付の男に呼ばれ、クロは前へ出た。
「名は」
「クロ・レインフォートです」
二度目は、少しだけ言いやすかった。
「出身」
「ジェミノ村」
「紹介状は」
「あります」
クロは大事に持っていた書状を差し出した。
受付の男はそれを確認し、書類へ目を落とす。
「読み書きはできるか」
「できます」
「では、ここへ名を書け」
羽ペンと紙を差し出された。
クロは少し緊張した。
荷札や帳面なら何度も書いてきた。芋酒の樽の数も、出荷先も、納める分も、商人へ渡す分も、間違えないように何度も確かめてきた。
けれど、竜騎士団の受付で自分の名を書くのは初めてだった。
当たり前だけど。
クロは羽ペンを持ち、丁寧に書いた。
クロ・レインフォート。
紙の上に自分の名が並ぶ。
それだけのことなのに、少しだけ胸が熱くなった。
受付の男は文字を確認し、軽く頷いた。
「問題ない。荷物は後で預けることになる。それまでは自分で持て」
「はい」
「試験前に説明がある。奥の広間で待機しろ」
「はい」
クロは一礼し、紙と羽ペンから手を離した。
その時だった。
「……ずいぶん身軽ですのね」
静かな声がした。
大きな声ではなかった。
けれど、妙に耳へ残る声だった。
クロは振り向いた。
少し離れた場所に、金髪の少女が立っていた。
クロと同じくらいの年頃だと思う。小柄で華奢だが、背筋は真っ直ぐ伸びている。明るい金髪は綺麗に整えられ、青い瞳は眠たげで、どこか冷めたようにこちらを見ていた。
黒と赤と金を基調にした服は、ただの旅装ではない。軍服のように形が整っていて、細かな飾りも多い。派手ではないのに、ひと目で良いものだと分かる。
綺麗な子だった。
ただ、その目は少し冷たい。
「荷物のこと?」
クロが訊くと、少女はクロの荷物を一瞥した。
それから、頭の先から足の先まで、ゆっくり見る。
値踏みするような目だった。
「ええ。荷物も。格好も。立ち方も」
「立ち方?」
「竜騎士団へ志願する者には見えない、と言っているのですわ」
声は静かだった。
けれど、言葉だけが薄い刃物みたいに置かれる。
クロは自分の体を見下ろした。
「立ってるよ」
「……そういう話ではありませんわね」
少女の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「竜騎士団は、憧れだけで立てる場所ではありませんわ。あなたのように、何も知らないまま門をくぐっていい場所ではないのです」
「何も知らないわけじゃないよ」
「では、何を知っているのかしら」
「竜の匂いは、こっちからする」
「……は?」
少女の顔から、ほんの一瞬だけ表情が消えた。
クロは真面目に、竜舎の方を見た。
「さっき、左に行こうとして怒られた」
少女の唇が、きゅっと薄く結ばれた。
クロの耳が、ぴくりと動く。
今、舌が鳴ったような、小さな音がした気がした。
「ここでは、知らなかった、では済まされないことが多いでしょうね」
「うん」
クロは頷いた。
「教えてくれてありがとう」
少女の眉が、ぴくりと動いた。
「……あなた、馬鹿にしていますの?」
「してないよ」
「では、その間の抜けた返事は何です」
クロは少し考えた。
「返事」
「っ……」
少女は唇を引き結んだ。
綺麗に整えられた顔に、苛立ちだけが薄く浮かぶ。
「本当に、話が通じませんのね」
その声に、近くにいた志願者がちらりとこちらを見る。
クロは少しだけ耳を伏せた。
話が通じない。
そう言われると、少し困る。
けれど、何が通じなかったのかは、まだ分からなかった。
部屋の奥から、受付の声が響いた。
「クレア・フォン・レーヴェンハルト」
その名が呼ばれた瞬間、周囲の志願者たちが小さくざわめいた。
「レーヴェンハルト?」
「子爵家の?」
「竜騎士団大隊長の娘だろ」
「本当に来てるのか」
クロは周りを見た。
どうやら、有名な名前らしい。
金髪の少女――クレアは、そのざわめきを当然のように受け止めていた。けれど、得意げに笑うわけではない。
ただ、その名が自分の上に乗っていることを、ずっと前から知っている顔だった。
「今参ります」
クレアは受付へ歩いていった。
足取りは静かで、姿勢は崩れない。受付の前に立つと、流れるように一礼する。
その所作だけで、クロは少し感心した。
すごい。
なんだか、手順が綺麗だった。
クロは自分がさっきした一礼を思い出す。
あれで大丈夫だっただろうか。
少し不安になった。
受付の者は、クレアの書状を確認し、すぐに頷いた。
「クレア・フォン・レーヴェンハルト。確認した」
「はい」
「読み書きの確認は不要だが、形式上、名を」
「承知しております」
クレアは羽ペンを取り、さらさらと名前を書いた。
迷いがない。
字も綺麗だった。
クロは目を丸くした。
名前を書くのが速い。
クレアは書き終えると、羽ペンを戻し、静かに一礼した。
その動きも綺麗だった。
言葉は少し冷たく聞こえるのに、手順はとても丁寧だった。
クロはそう思った。
受付を終えたクレアが戻ってくる。
その途中で、クロの方へ視線を向けた。
「字は書けるのですね」
「うん」
「意外ですわ」
その言い方は、ただ驚いたというより、できないと思っていたものができてしまった時の声だった。
「荷札と帳面で覚えた」
「……荷札」
「芋酒の樽につけるやつ」
クレアは小さく息を吐いた。
笑った、というより、呆れたような息だった。
「竜騎士団の志願受付で、芋酒の樽の話を聞かされるとは思いませんでしたわ」
「大事だよ。間違えると出荷がずれる」
「ええ。あなたの村では、さぞ大事なのでしょうね」
声は丁寧だった。
けれど、その丁寧さの奥に、明らかな棘があった。
クロは少し考えた。
「うん。大事」
クレアの目が、また細くなる。
「出荷がずれると、商人さんが困る。商人さんが困ると、村も困る」
「……そうでしょうね」
「だから字は大事」
クレアは何か言い返そうとして、やめた。
たぶん、間違ってはいなかったからだ。
けれど、納得した顔でもなかった。
「あなた、自分がどこに来たのか、本当に分かっていますの?」
「竜騎士団」
「名前を答えればよいという話ではありませんわ」
クレアの声が、また少し低くなった。
クロの耳が、少しだけ寝る。
怒っている。
今度は、たぶんそうだった。
「ここは、王国を守る者が集まる場所です。代々、竜と共に戦ってきた家の者もいる。幼い頃から剣を握り、礼を学び、騎士としての務めを叩き込まれてきた者もいる。遊びでも、見物でも、思い出作りでもありませんわ」
「うん」
「その軽さが、気に入りません」
クレアは言った。
静かな声だった。
けれど、今度ははっきりと苛立っていた。
クロは少し驚いた。
軽い。
そんなつもりはなかった。
けれど、そう聞こえたのなら、たぶん何かが足りなかったのだろう。
「ごめん。軽く言ったつもりはないよ」
クレアは少しだけ目を細めた。
その謝罪もまた、調子を狂わせたようだった。
「……本当に、やりにくい方ですわね」
近くで、誰かが小さく笑いかけた。
けれどクレアがそちらを見ると、その子はすぐに口を閉じた。
クロはクレアを見た。
綺麗で、冷たくて、字が速くて、礼が上手い子。
それから、言葉が少し痛い子。
今のところ、クロにはそう見えた。
やがて受付が終わり、志願者たちは奥の広間へ集められた。
そこへ、竜騎士団の制服を着た男が入ってきた。
部屋の空気が変わる。
さっきまで小声で話していた志願者たちも、すぐに口を閉じた。クレアも姿勢を正し、クロも慌てて背筋を伸ばす。
男は志願者たちを一通り見渡した。
「これより、基礎試験を行う」
低く、よく通る声だった。
「竜騎士団は、空を飛ぶ者の集まりではない。王国と民を守るために、竜と共に任務へ出る組織だ。憧れだけで立てる場所ではない」
その言葉に、クロは少しだけクレアを見た。
クレアは前を向いたままだった。
ただ、唇がほんの少しだけ引き結ばれている。
「走れなければならない。運べなければならない。落ちても立てなければならない。命令を聞き、状況を見て、判断しなければならない」
男の視線が、志願者たちの上をゆっくり通る。
「最初に見るのは、基礎だ。特別な技術は求めない。ただし、竜騎士を目指す者として最低限にも届かない者は、この場で帰ってもらう」
誰かが息を呑んだ。
クロは両手を軽く握った。
怖くないわけではない。
けれど、胸の奥は熱かった。
ここから始まる。
ようやく、本当に。
「荷物を預け、訓練場へ移動しろ。案内係の指示に従え」
男がそう言うと、志願者たちが一斉に動き出した。
クロも荷物の紐を握り直す。
横で、クレアが静かに言った。
「せいぜい、途中で倒れないことですわね」
クロはクレアを見た。
「うん。倒れないようにする」
「……本当に、調子が狂いますわ」
「調子、悪いの?」
クレアの足が止まった。
ゆっくり、こちらを見る。
「あなたのせいですわ」
「わたし?」
「ええ」
「まだ何もしてない」
「それが余計に腹立たしいのです」
クレアは小さく言い捨てて、先に歩き出した。
クロはその背中を見たあと、訓練場の方へ顔を向ける。
門は、もうくぐった。
名前も、書いた。
次は、自分がここに立てるかを示す番だった。




