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一章 第1話 「竜騎士団の門」

王都は、大きかった。


城壁が高い。門が広い。行き交う人も、荷車も、馬も、見上げる建物も、何もかもがジェミノ村とは比べものにならない。声はあちこちから重なって聞こえ、匂いもいくつも混ざって流れてくる。


焼いた肉。石畳の埃。馬。革。油。知らない香辛料。人の服についた旅の匂い。


全部が、いっぺんに来た。


クロは荷馬車の上で、しばらく口を開けたまま固まっていた。金色の目はまん丸で、耳は右へ左へ忙しく動いている。尻尾まで落ち着かないらしく、荷台の上に置かれた荷袋を、ぺし、ぺし、と軽く叩いていた。


「……ふわぁ」


気の抜けた声が漏れた。


商人は手綱を握ったまま、横目でクロを見る。


「口、閉じないと虫が入るよ」


クロは慌てて口を閉じた。


けれど、すぐにまた少し開いた。


「商人さん」


「なんだい」


「王都、見るところが多い」


「見るところ、というより見るものだね」


「ものも多い。音も多い。匂いも多い。あと、道も多い」


「迷わないでおくれよ」


「迷うと思う」


「そこは自信を持たないでほしいね」


商人は苦笑しながら、王都へ続く大通りをゆっくり進んだ。


王都の門の前には列ができていた。荷を積んだ商人、武具を身につけた旅人、野菜を積んだ荷車、身なりの良い人、そうでない人。兵士たちは一人ずつ書状や荷を確かめ、時折、道を空けるように声を張っている。


クロはその全部を見ていた。


忙しそうなのは王都ではなく、むしろクロの方だった。目も耳も鼻も、総動員で働いている。ここまで来る荷馬車の上で少しは慣れたつもりだったが、王都は宿町よりさらに強かった。


けれど、最初にクロの胸を強く打ったのは、人の多さでも、城壁の高さでもなかった。


空だった。


城壁の上を、竜の影が横切った。


翼が日を遮り、ほんの一瞬だけ、道の上に大きな影が落ちる。周囲の人々は慣れているのか、少し顔を上げるだけでまた自分の用へ戻っていく。


クロだけが、固まっていた。


目を大きく開いたまま、影が消えた後の空を見上げ続ける。ぴんと立った耳も、尻尾も、その瞬間だけ動きを止めていた。


「……竜」


その声は、ほとんど息だった。


「王都だからね」


商人は手綱を握ったまま言った。


「竜騎士団の竜は、珍しいものじゃない。もっとも、見慣れても大きいものは大きいけれど」


「……ふわ」


今度は、途中で声が切れた。


息をするのを、少し忘れていた。


「二回目だね」


「すごい」


「うん」


「本当に、空にいる」


「いるね」


クロは小さく頷いた。


竜がいる。


王都の空には、本当に竜がいる。


胸の奥が、ぎゅっと縮むような、広がるような、不思議な感じがした。ジェミノ村で何度も見上げた空とは違う。ここでは竜は、遠くを飛び去るだけのものではなかった。


この空の下に、竜騎士団がある。


クロは荷物の紐を、ぎゅっと握り直した。



門を通り、王都の中へ入ると、クロはまた黙った。


右を見ても人。左を見ても人。上を見れば布の日除け。下を見れば知らない靴の群れ。石造りの建物が並び、店先には見たことのない品が並んでいる。窓辺からは洗濯物が揺れ、路地の奥からは子供の笑い声が聞こえた。


情報が、逃げない。


クロの耳は、ずっと動いていた。


右で呼び込みの声。左で馬の蹄。前から車輪の音。どこかで鍛冶の音。上から鳥の声。少し遠くから、また竜の鳴き声。


「王都、忙しい」


「忙しいのは君の耳じゃないかい?」


「耳も忙しい」


「目は?」


「忙しい」


「鼻は?」


「かなり忙しい」


「全員働いてるね」


「うん。大変」


真面目に答えるクロに、商人は少し笑った。


けれど、その笑いはいつもより少し柔らかかった。ここまで来れば、もう竜騎士団の本部は近い。荷馬車の旅も、終わりが見えている。


しばらく進むと、道の向こうに高い門が見えてきた。


王都の門とは違う。


そこだけ、街の喧騒から少し切り離されているように見えた。


巨大な石柱。翼を広げた竜の紋章。門前に立つ兵士たち。奥には灰色の石造りの建物と、さらに高い竜舎らしき屋根が見える。上空では竜が旋回し、翼の風が遠くの旗を揺らしていた。


竜騎士団の門だった。


クロは、今度こそ言葉をなくした。


荷馬車の上で、背中が自然に伸びる。すごい、という言葉では足りなかった。大きい、でも足りない。怖い、でもない。ただ、目の前にあるものが、自分が何年も見上げてきた空の入口なのだと分かった。


「……ここ?」


「ここだよ」


商人は荷馬車を道の端へ寄せた。


「竜騎士団の門だ」


クロは返事をしなかった。


できなかった。


荷台から降りる。地面に足が着くと、今さら荷物の重さを感じた。大きな荷物ではない。村を出る時に持たせてもらったものと、旅の途中で増えた少しのものだけだ。


それでも、ここから先は一人で背負うものだった。


商人は荷馬車の上からクロを見下ろした。


「忘れ物は?」


「たぶんない」


「君のたぶんは、少し怖いね」


クロは荷物を確認した。


着替え。小袋。書状。母が持たせてくれた布。女将にもらったパンはもう食べた。商人に借りたものは返した。


「ない」


「よろしい」


商人は頷いた。


それから、ほんの少しだけ声を落とした。


「クロ」


「うん」


「王都は大きい。竜騎士団は、たぶんもっと面倒な場所だ。君が思っているより、覚えることも、知らなければいけないことも多い」


「うん」


「困ったら、まず聞きなさい。分からないことを分からないと言えるのは、大事なことだ」


クロは少し驚いて、商人を見上げた。


「商人さん、ちゃんとしたこと言う」


「私はいつもちゃんとしているよ」


「そう?」


「そうだとも。失礼だね」


クロは小さく笑った。


旅の間、何度も呆れられた。馬を追いかけた時も、宿飯の味に負けた時も、朝から塩の機嫌を気にした時も、商人はだいたい困った顔をしていた。


けれど、その困った顔は、いつも少し温かかった。


「ありがとう」


クロは言った。


「王都まで連れてきてくれて。馬の時も、宿の時も、いろいろ」


「馬の時は、私が何かしたというより、君が何かしたんだがね」


「でも、水くれた。あと、パンの食べ方も教えてくれた」


「パンをスープに浸すだけの話だよ」


「大事だった。パンは仲裁役だから」


「まだ言うかい」


商人は笑った。


それから、ふと真面目な顔になった。


「お母さんの粥が恋しくなったら、手紙を書きなさい」


クロは瞬きをした。


「手紙」


「届けられる時は届けるよ。商人だからね。道があるところへは、だいたい行く」


クロはその言葉を、胸の中でゆっくり受け取った。


王都は大きい。竜騎士団の門は目の前にある。ここから先に何があるのか、まだ何も分からない。


けれど、道は繋がっている。


王都からジェミノ村へ。


ジェミノ村から王都へ。


「うん」


クロは頷いた。


「書く」


「そうしなさい」


商人は手綱を握り直した。


「それじゃあ、行ってきなさい、黒猫さん」


クロは少しだけ背筋を伸ばした。


「行ってきます」


大声ではなかった。


村を出た朝のように、みんなに向けて叫ぶ言葉でもなかった。


けれど、その小さな声は、確かに自分の足元へ落ちた。


商人は軽く手を振り、荷馬車を動かした。車輪が石畳を鳴らして進んでいく。クロはしばらくその背中を見送っていた。


荷馬車はすぐに、人と荷車の流れに混ざった。


クロは息を吸った。


革油の匂い。石の匂い。竜の匂い。


そして、門へ向き直った。



近づくほど、竜騎士団の門は大きく見えた。


ただ高いだけではない。石に刻まれた竜の紋章も、門柱に残る古い傷も、門前に立つ兵士たちの姿勢も、ここが遊びで来る場所ではないことを伝えてくる。


門の影に入ると、クロの身体は少し小さくなったように見えた。


それでも、耳だけはぴんと立っていた。


怖くないわけではない。


けれど、足は止まらなかった。


門前の兵士が、クロを見る。


「志願者か」


低い声だった。


クロは顔を上げた。


「はい」


「名は」


その問いに、クロはいつものように答えかけた。


「クロ」


けれど、そこで少しだけ息を吸った。


ここは家の前ではない。畑でも、芋酒の小屋でも、ジェミノ村の道でもない。


竜騎士団の門だ。


父と母に見送られて、ヨルに手を振られて、商人に連れてきてもらって、ここまで来た。


なら、ちゃんと言わなければいけない。


「クロ……クロ・レインフォート」


兵士は手元の書状へ目を落とした。


「ジェミノ村の、クロ・レインフォートだな」


クロの胸が、小さく押された。


ジェミノ村。


その名前が、王都の竜騎士団の門前で通じた。


昔は、地図にも載っていなかった村。誰かが呼び始め、商人が運び、兵士たちが行き来して、少しずつ王国に知られていった村。


その名前が、ここにある。


「はい」


クロは答えた。


兵士は書状を確かめ、クロをもう一度見た。


「紹介状は受け取っている。志願受付は中だ。門を入って右手の建物へ進め。案内係の指示に従え」


「はい」


「荷物は手放すな。迷うな。竜舎には勝手に近づくな」


「はい」


最後の言葉に、クロの耳がぴくりと動いた。


兵士は見逃さなかった。


「近づくなと言った」


「……はい」


危なかった。


少し近づきたくなった、では済まない顔をしていた。たぶん、耳も前のめりだった。


クロは自分の耳を落ち着かせるように、荷物の紐を握った。


兵士が奥へ合図を送る。重い音を立てて、門が少しずつ開いていった。


その隙間から、風が流れてくる。


革油。乾いた藁。水。石。鉄。


獣とは違う。馬とも、牛とも、森の魔物とも違う。けれど確かに、生き物の熱を含んだ匂い。


竜の匂い。


門の向こうで、遠く竜が鳴いた。


クロの耳が、ぴんと立つ。


胸の奥が熱くなる。


あの日、砕けた教会の向こうに見えた白。


冬のジェミノ村で出会った桜色。


王都の空を横切った、いくつもの翼。


そして、黒よりも黒かった竜。


全部が、ここへ繋がっている気がした。


クロは荷物の紐を握り直した。


一歩。


門の内側へ踏み出す。


石畳の感触が、足の裏に伝わった。


ここから先は、竜騎士団だった。

長らくお待たせいたしました。

黒猫竜騎士物語が動き出す「一章」がはじまります。

ここからようやく、クロが育んできたものが芽吹き、空へ向かって羽ばたく準備が始まります。


クロが何を見て、何を感じ、どう成長していくのか。


魅力的な物語をお届けできるよう精進していきますので、応援よろしくお願いいたします。

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