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間幕 第4話 「王都目前」

クロは、まだ暗いうちに目を覚ました。


知らない天井だった。


木の梁。少し黒ずんだ板。隙間から入り込む朝の冷たい空気。寝台の布は家のものより少し硬く、匂いも違う。


クロはしばらく、ぼんやりと天井を見上げていた。


「……どこ」


小さく呟いてから、すぐに思い出す。


宿だ。


宿町の宿。


王都へ向かう途中で泊まった、初めての宿。


昨日は馬が暴れて、走って、泊まることになって、夕食で塩が怒っていた。


そこまで思い出して、クロは布団の中で少しだけ顔をしかめた。


「……塩、強かった」


まだ半分寝ぼけている。


けれど、体は勝手に起き上がっていた。


朝に起きる。


走る。


体を動かす。


水を浴びる。


そういう日々は、もう何年も続いている。場所が家ではなくても、外がまだ暗くても、目が覚めれば体が動いた。


クロは寝台から足を下ろした。


床板が冷たい。


「ひゃ」


小さな声が出た。


誰も聞いていないのに、クロは少しだけ周りを見た。


商人は隣の部屋で寝ている。宿の廊下も静かだ。外からは、まだ眠たそうな馬の鼻息と、遠くで誰かが桶を動かす音が聞こえるだけだった。


クロは荷物から替えの布を取り出し、外套を羽織って廊下へ出た。


井戸の場所は、昨日のうちに女将から聞いていた。


宿の裏手に出ると、朝の空気はきりっと冷えていた。空は薄い青色で、屋根の向こうが少しだけ明るくなり始めている。


クロは桶を借り、井戸から水を汲んだ。


思ったより重い。


でも、村で水桶を運ぶのに比べれば軽い。


「これくらいなら、へっちゃら」


そう言ってから、クロは少し考えた。


昨日、馬車に追いついた時、通りの人たちはずいぶん驚いていた。


もしかすると、自分の普通は、あまり普通ではないのかもしれない。


クロは桶を持ち上げ、首をかしげた。


「……王都で確かめよう」


また確かめるものが増えた。


部屋に戻ると、クロは扉にしっかり掛け金をかけた。昨日、商人に教えられた通りだ。荷物は扉のそばに置きっぱなしにしない。銀貨の袋は見えるところに出さない。知らない人が来ても、すぐに開けない。


旅は、覚えることが多い。


クロは水を小さな布に含ませ、顔を拭いた。


冷たい。


目が覚める。


首筋、腕、肩、膝のあたりを順に拭いていく。昨日は走ったし、跳んだし、馬のそばで砂埃も浴びた。汗と埃を落とすだけで、少し体が軽くなる気がした。


鏡はなかった。


けれど、水面に映った自分の顔は少しだけ見えた。


黒い髪。


金色の目。


ぴんと立ちかけて、まだ寝癖で少し変な向きになっているアホ毛。


クロはそれを指で押さえた。


戻った。


もう一度押さえた。


また戻った。


「……今日は強い」


アホ毛は、旅立ち二日目にしてなかなか手強かった。


体を拭き終えると、クロは手足を軽く伸ばした。肩を回し、足首を動かし、膝を曲げる。昨日、馬の蹴りを避けた時にどこか痛めていないか確かめた。


痛みはない。


ただ、少し筋肉が重い。


「昨日の馬、速かったな」


口に出してから、クロは小さく笑った。


馬が速いのは当たり前だ。


でも、追いつけた。


追いついてしまった。


それを思い出すと、少しだけ変な気持ちになる。嬉しいような、怖いような、怒られそうなような。


商人には、きっとまた呆れられる。


クロは着替えを済ませ、髪を手櫛で整えた。体は以前よりずっと丈夫になった。足も速くなったし、重いものも持てるようになった。


けれど、布を結ぶ手はまだ細い。肩も薄い。服の袖から出る腕は、鍛えていると言っても大人の女の人のようには見えない。


背は母に近づいた。


もうすぐ十四歳。


この国では大人として扱われる年齢。


それでも、こうして朝の薄暗い部屋に一人で立っていると、自分はまだ小さな女の子なのだと、クロ自身にも少しだけ分かった。


大人になる。


でも、急に何もかも変わるわけではない。


「……よし」


クロは頬を軽く叩いた。


小さな音がした。


「起きた」


本当に起きたかどうかはともかく、そういうことにした。


荷物をまとめ直して廊下へ出ると、ちょうど商人も部屋から出てきたところだった。髪は少し乱れ、目元にはまだ眠気が残っている。


商人はクロを見て、目を細めた。


「早いね」


「いつもこれくらい」


「旅先でも?」


「起きちゃった」


「若いねえ」


「商人さんも起きてる」


「起きたんじゃない。起きる羽目になったんだよ。馬車の準備があるからね」


「同じじゃないの?」


「気持ちが違う」


クロは少し考えた。


「じゃあ、私は起きた。商人さんは起こされた」


「そういうことだね」


「朝から大変だね」


「君に言われると、少しだけ腹が立つね」


商人は欠伸を噛み殺した。


食堂へ降りると、女将がすでに朝食の準備をしていた。大鍋からは湯気が上がり、焼きたてではないが温め直したパンの匂いもする。昨夜ほど強い匂いではない。


クロは入口で立ち止まり、慎重に鼻をひくつかせた。


「……怒ってない」


女将が振り向いた。


「何がだい?」


「塩」


女将は一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。


「ああ、昨日の続きかい。大丈夫だよ。朝は優しくしてある」


「本当?」


「粥だよ。麦と豆を少し入れて、薄めに煮てある。あと、塩は怒らせてない」


クロの耳がぴんと立った。


「粥」


「お、反応がいいね」


「粥は信用できる」


「そこまで言われると、粥も喜ぶだろうさ」


「お母さんのとは違う?」


「そりゃ違うだろうね。でも、朝の腹には悪くないよ」


クロは真剣に頷いた。


「確かめる」


「はいはい。確かめておいで」


席に着くと、女将が木の椀を置いた。


湯気の立つ麦粥だった。


豆が少し入っていて、刻んだ野菜も見える。匂いはやわらかい。昨日の肉や香草のように、全員が前へ出てくる感じはない。


クロは匙を持ち、そっと一口食べた。


止まらなかった。


ちゃんと飲み込めた。


「……優しい」


女将が満足そうに笑った。


「だろう?」


「塩が座ってる」


商人が匙を止めた。


「今度は座ってるのかい」


「昨日は前に出てきた。今日は座ってる」


「よかったね、塩」


「うん。落ち着いてる」


女将は笑いながら、追加のパンを机に置いた。


「その表現、嫌いじゃないよ。昨日は驚かせたみたいだからね」


「おいしかったよ」


クロは慌てて言った。


「本当。でも、びっくりした。味がいっぱいで、どこを見ればいいか分からなかった」


「食べ物を見ようとするんじゃないよ」


商人が言う。


「見るよ。味も見る」


「普通は味わうって言うんだ」


「じゃあ、味を見るように味わう」


「ややこしくなった」


女将は楽しそうに笑った。


「村の子は面白いねえ」


「面白い?」


「うん。昨日は馬車に追いつくし、今日は塩の機嫌を見てる」


「塩は大事」


「そうだね。塩は大事だ」


女将はあっさり頷いた。


クロは少し嬉しくなった。


商人が小さく呟く。


「受け入れられたね」


「塩は大事だから」


「そこじゃないんだよ」


朝食は、昨夜よりずっと食べやすかった。


麦粥は母の芋入り粥とは違う。芋の甘さも、家の匂いも、ヨルが隣でこぼす音もない。けれど、温かくて、ゆっくり腹に落ちていく感じは少し似ていた。


クロは椀を両手で持ち、湯気の向こうに小さく目を細めた。


「……これなら、朝から旅に出られる」


「昨日の夕食でも出られるだろう」


商人が言う。


「昨日のは、戦う感じだった」


「食事は戦いじゃないよ」


「でも勝った」


「勝敗をつけるんじゃない」


女将が吹き出した。


「勝ったなら良かったよ」


「うん。パンが助けてくれた」


「そうかい。じゃあ今日もパンを持っていきな」


女将は布に包んだ小さなパンを二つ、クロに渡してくれた。


クロは目を丸くした。


「いいの?」


「昨日、町を助けた子にパン二つくらいで驚かないの」


「でも、もらいすぎ」


「じゃあ、王都でうちの宿を思い出しておくれ。それで十分さ」


「思い出す」


クロはパンを大事に受け取った。


「塩が座ってた宿」


「もう少し別の覚え方はないのかい?」


商人が額を押さえた。


女将は腹を抱えて笑っていた。


朝食を終えると、二人は宿を出る準備をした。


昨夜、この宿を手配してくれた行商人は、宿の前で待っていた。昨日の馬は落ち着いた様子で、荷車の前に立っている。目の荒さも、鼻息の強さも、もうない。


クロが近づくと、馬の耳が少しだけ動いた。


「おはよう」


クロが言うと、馬は鼻を鳴らした。


「今日は大丈夫そう」


「君が言うと、本当にそう聞こえるね」


御者は苦笑した。


「昨日は助かった。宿も飯も、これで足りたか?」


「うん。朝の粥、優しかった」


「粥が優しい?」


商人が横から言った。


「気にしなくていいよ。この子は味をそういうふうに言うんだ」


「なるほど……?」


御者は分かったような、分かっていないような顔をした。


クロは馬を見上げた。


「もう痛くない?」


馬の耳が動く。


クロは少しだけ笑った。


「そっか。よかった」


御者がその様子を見て、少し不思議そうに目を細めた。けれど何も言わず、深く頭を下げる。


「王都まで、気をつけてな」


「うん。ありがとう」


「竜騎士団、受けるんだろう?」


クロは少し驚いた。


「知ってるの?」


「昨日、そちらの商人から少し聞いた」


「余計なことを言ったわけじゃないよ」


商人が肩をすくめる。


「礼をしたいと言われて、王都まで行く事情を少し話しただけさ」


御者は笑った。


「馬車に追いつく子なら、試験官も驚くだろうな」


「驚かせに行くんじゃないよ」


クロは真面目に言った。


「竜騎士団に入りに行く」


御者は一瞬だけ目を丸くし、それから大きく笑った。


「そうか。なら、頑張ってこい」


「うん」


商人の荷馬車に荷物を積み直し、二人は宿町を出ることになった。女将が入口から手を振り、御者も馬の横で見送ってくれる。通りの人たちの中には、昨日の騒ぎを覚えている者もいて、ちらちらとクロを見ていた。


クロは少しだけ背筋を伸ばした。


「見られてる」


「昨日よりは慣れたかい?」


「少し」


「それはよかった」


「でも、まだちょっとそわそわする」


「それくらいでいいよ。見られている自覚がある方が、旅では安全だ」


「見られすぎると?」


「疲れる」


「それはもう分かった」


クロが真面目に頷くと、商人は笑った。


荷馬車が動き出す。


宿町の通りを抜けると、朝の光が道の先を照らしていた。昨日より道は広く、人も馬車も多い。王都へ近づいているのだと、見なくても分かるくらいだった。


クロは荷台の上で、女将にもらったパンの包みを大事に抱えた。


「商人さん」


「なんだい」


「王都の朝ご飯も、強いかな」


「店によるね」


「塩は怒ってる?」


「それも店による」


「王都、やっぱり難しい」


「朝食の塩から王都の難しさへ行く子は、あまりいないと思うよ」


「でも、大事」


「そうだね。大事だね」


商人は笑った。


クロも笑った。


昨日より少しだけ、外の世界の味を知った。


昨日より少しだけ、家の味が恋しくなった。


でも、帰りたいわけではない。


胸の中に母の粥の温かさを残したまま、クロは王都へ向かっていく。


荷馬車は宿町を抜け、広い街道へ戻った。


王都は、もう遠くない。

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