間幕 第1話 「痛いお尻」
荷馬車は、思っていたよりずっと揺れた。
がたん。
「おっ?」
ごとん。
「おおっ!?」
ぎしっ。
「……なるほど」
クロは荷台の端に座ったまま、やけに真剣な顔で頷いた。
手綱を握っていた商人が、前を向いたまま言う。
「何がなるほどなんだい」
「お尻が痛くなる仕組み」
「初めての旅で最初に考えることがそれかい」
「大事だよ。ずっと痛かったら困る」
「まあ、それはそうだね」
クロは荷台の縁を掴み、もう一度揺れに合わせて体を動かした。車輪が石を踏む少し前に体の力を抜き、跳ねる方向へほんの少し逃がす。すると、さっきよりずっと楽だった。
「分かった。先に揺れる方へ逃げればいい」
「普通はもう少し酔ったり、怖がったりするんだけどね」
「怖くはないよ。お尻は痛いけど」
「お尻から離れなさい」
商人は呆れたように笑った。
クロも笑った。
けれど、すぐにまた前を向く。
道がある。
王都へ続く道だ。
今まで何度も見送ってきた道。商人たちがやって来て、兵士たちが通って、荷馬車の轍だけを残して去っていった道。そこを、今日は自分が進んでいる。
それだけで、いつもの道が少しだけ知らない顔をしていた。
「……変だね」
「今度は何が?」
「この道、知ってるのに知らない」
商人は少しだけ黙ったあと、ふっと笑った。
「旅に出た人間は、だいたい最初にそういう顔をするよ」
「そうなの?」
「ああ。見慣れた道でも、帰る時と出ていく時じゃ別物になる」
クロはそれを聞いて、少しだけ胸の奥を押さえた。
ジェミノ村は、もう見えない。見えないのに、まだ近くにある気がする。父の手も、母の声も、ヨルの小さな手も、村のみんなの「行ってらっしゃい」も、胸の中でまだわいわいしている。かけしっぽの退屈そうな聲まで混じっていた。
「……胸の中が、ちょっと混んでる」
「良い言い方だね」
「良いの?」
「たぶんね」
「じゃあ使う」
「何に?」
「分からない。でも覚えた」
商人は肩を揺らして笑った。
馬の耳が、ぴくりと動いた。そのすぐあと、道端の草むらから鳥が飛び立つ。
クロは目を丸くした。
「馬、先に気づいた」
「馬だからね」
「馬ってすごい」
「馬もまさか、旅立ち一日目の女の子にそんな純粋な尊敬を向けられるとは思ってなかっただろうよ」
「言ったら喜ぶ?」
「たぶん草の方が喜ぶ」
「草に負けた」
「馬の好みだからね」
クロは真剣に馬を見た。
馬は何も知らない顔で歩いている。
「……でも、耳は正直そう」
「おや」
商人が少しだけ横目で見た。
「馬の耳が気になるかい」
「うん。耳と足。あと、首。道の悪いところに入る前、少し変わる」
「へえ」
「たぶん、先に嫌がってる」
「馬だって足を取られるのは嫌だからね」
「分かる。私も嫌」
「君、馬に共感するの早いね」
「足場が悪いのはみんな嫌だよ」
「それはそうだ」
荷馬車はまた大きく揺れた。
クロは今度、ほとんど揺れなかった。
商人が振り返る。
「……本当に初めてかい?」
「初めて」
「酔わない?」
「酔わない」
「怖くない?」
「怖くない」
「お尻は?」
「痛い」
「そこだけ普通だねえ」
クロは少し誇らしげに頷いた。
「お尻は普通」
「誇るところじゃないよ」
商人はそう言って、また前を向いた。
道はゆるやかに伸びている。朝の光が少しずつ強くなり、草についた露がきらきら光る。遠くの畑では、見知らぬ村の人たちがもう働き始めていた。ジェミノ村とは畑の形が違う。柵の高さも違う。家の屋根も、少しだけ違う。
クロは見るものが多すぎて、首が忙しかった。右を見て、左を見て、前を見て、馬を見て、荷物を見て、空を見る。
「首、取れないかい?」
「首取れたらしんじゃう」
「そういう意味じゃないんだが」
「でも、見るところが多い」
「まあ、初めての旅ならそんなものか」
「旅って、忙しいね」
「座ってるだけで忙しがれる子は、あまりいないけどね」
クロは少し考えた。
たしかに、座っているだけだ。走っていない。荷物も運んでいない。水桶も持っていない。けれど、目も、耳も、鼻も、胸の中も、さっきから勝手に動き回っている。
「商人さん」
「なんだい」
「旅って、胸の中も忙しいね」
「外だけじゃ足りないのかい」
「足りないみたい」
「それは大変だ」
「うん。けっこう大変」
クロが真面目に頷くと、商人はまた笑った。
少し進むと、道端に小さな祠があった。石を積んだだけの簡素なものだ。古い布が結ばれ、乾いた花が供えられている。
クロは身を乗り出した。
「あれは?」
「旅の祠だね。道中の無事を祈る場所だ」
「太陽神?」
「場所による。太陽神のこともあるし、月の神のこともある。古い道なら、名も残っていない土地神に祈っていることもある」
「龍神は?」
「王都に近い道なら祀っているところもあるよ。けど、旅の祠は古いものが多いからね。全部が三柱そろっているわけじゃない」
クロは祠を見送った。
建国記の欄外に、似たようなことが書いてあった気がする。古い地方の祈り。太陽神と月の神。あとから広まった龍神。本で読んだ言葉が、道端の小さな石になってそこにあった。
「本に書いてあったものが、外にある」
「まあ、本は外にあるものを書いているからね」
「そっか。順番が逆だった」
「気づけてよかったね」
「うん」
クロは素直に頷いた。
商人は少しだけ笑みを深くした。
「建国記、ちゃんと読んでいるんだね」
「全部はまだ難しいよ。古い言い方が多いし、注釈の字が小さい」
「そこまで読んでいるなら十分だよ」
「でも、竜騎士団に入る人はもっと読めるかもしれない」
「いるかもしれないね」
商人はあっさり言った。
クロの耳が少し寝た。
「やっぱり、いるよね」
「そりゃいるさ。王都の子、兵士の家の子、貴族の家の子、騎士見習いだった子。体の強い子もいれば、読み書きに強い子もいる」
「竜に詳しい子も?」
「いるだろうね」
「私より?」
「いるだろうね」
「商人さん、そこは少し迷ってくれてもいいんだよ」
「変に慰めてもしょうがないだろう」
「それはそう」
クロは荷台の縁を握り、少しだけ黙った。荷馬車が小さく揺れる。今度はちゃんと体を逃がせた。
「怖くなったかい?」
商人が訊いた。
「少し」
「帰るかい?」
「帰らない」
即答だった。
商人は声を立てて笑った。
「そこは迷わないんだね」
「怖いのと、帰るのは別」
「なるほど」
「強い人がいるなら、どのくらい強いか知りたい。賢い人がいるなら、何を知ってるのか聞きたい。竜に詳しい人がいるなら、ちゃんと教えてもらいたい」
クロは前を向いた。
「あと、負けたら、何が足りないか分かる」
商人は手綱を握ったまま、しばらく黙った。それから、少し呆れたように笑った。
「君は本当に、変わった子だね」
「そう?」
「褒めてる」
「なら、ありがとう」
「素直だね」
「怖いって言っても、荷馬車は止まらないし」
「止めようと思えば止められるよ」
「止めなくていい」
「そこは即答なんだね」
「うん。怖いけど、帰りたいわけじゃないから」
商人は手綱を握ったまま、少しだけ笑った。
「……そういうところは、ちゃんと旅人だね」
「もう旅人?」
「少なくとも、村に帰る子の顔ではないよ」
クロは少しだけ黙った。
それから、自分の膝の上に置いた手を見た。まだ村の土の匂いが残っている気がする。けれど、その手は今、村へ戻るためではなく、王都へ向かう荷馬車の上にある。
「そっか」
クロは小さく頷いた。
「じゃあ、旅人だ」
「ずいぶん簡単に受け入れるね」
「違ったら、あとで直す」
「肩書きも試すものなのかい」
「たぶん」
「たぶんか」
商人は呆れたように笑った。
街道を進むにつれて、すれ違う人が増えていった。背中に荷を負った旅人、二頭の馬で荷車を引く行商人、家族連れ、槍を持った兵、どこかの村へ向かうらしい職人たち。服も、歩き方も、荷物のまとめ方も、腰に下げた道具も、履いている靴も、話す声の大きさも違う。
世界は、思っていたよりずっと混んでいた。
「王都はもっと人が多い?」
クロが訊くと、商人はにやりとした。
「今ので多いと思ってるなら、王都に着いたら目が回るよ」
「目は回らないと思う」
「自信があるね」
「荷馬車でも回ってない」
「人混みは荷馬車より揺れることがあるんだよ」
「人が揺れるの?」
「流れがね」
クロは想像してみた。
人がたくさんいて、その流れに押される。水路の水みたいなものだろうか。
「じゃあ、流れに逆らうと危ない?」
「危ないね」
「流れに乗ればいい?」
「慣れるまではね。ただし、流されすぎても迷う」
「難しい」
「だから王都は難しいと言っただろう」
クロは真剣に頷いた。
「むぅ……王都、難しい」
「まだ着いてもいないのに、分かった顔をするんじゃないよ」
昼前になると、道の幅が少し広くなった。両側の草地が開け、遠くに低い建物が見え始める。煙が上がっている。馬車の数も増え、道端には簡単な看板が立っていた。
クロは荷台の上で背筋を伸ばした。
「あれは、町?」
「宿町だよ。王都へ向かう旅人がよく泊まる。今日はそこで一泊する」
「もう泊まるの?」
「まだ王都までは距離があるからね。無理に進むと夜道になる」
「夜道は危ない?」
「危ない。道も見えにくいし、人も見えにくい。悪いことを考える者も動きやすい。運が悪ければ魔物に遭遇することだってある」
クロはこくりと頷いた。
「じゃあ、泊まる」
「君が決めたみたいに言うね」
「商人さんが決めた。私は納得した」
「それはどうも」
宿町に近づくと、音と匂いが一気に増えた。馬のいななき、車輪の音、人の声、鉄を打つ音、どこかで鍋をかき混ぜる音。焼いた肉、濡れた藁、馬、油、香草、酒、そして人の匂い。全部が混ざって、村とはまるで違う空気になっていた。
クロは思わず鼻をひくつかせた。
「すごい匂い」
「良い匂いかい?」
「多い匂い」
「多い匂い」
商人は笑った。
「君の言い方は時々おかしいね」
「だって、多い」
「まあ、間違ってはいない」
荷馬車は宿町の入口へ入っていく。人が行き交い、荷車が並び、道の両側には店があった。干し肉を吊るした店、古い道具を並べた店、馬具を直している職人、湯気の立つ鍋を前に客を呼ぶ女。
クロは目を輝かせた。
「すごい」
「王都はもっとすごいよ」
「王都、ずるい」
「何が?」
「まだ着いてないのに、先に町がすごい」
「それは王都のせいじゃないと思うが」
クロは荷台の縁を握りしめた。
寂しさはまだ胸の奥にある。けれど、それと同じくらい、知らないものへの期待も膨らんでいた。本に書いていなかったもの。地図では分からなかったもの。匂いも、音も、人の多さも、荷馬車の揺れも、全部今ここにある。
「商人さん」
「なんだい?」
「旅って、忙しいね」
「まだ一日目だよ」
「うん」
クロは大きく頷いた。
「だから、忙しい」
商人は呆れたように肩をすくめた。
「先が思いやられるね」
「先があるなら、いいことだよ」
「……そう返すか」
「変?」
「いや」
商人は少しだけ、目を細めた。
「悪くない」
荷馬車は、宿町の通りへゆっくり入っていった。
クロの初めての旅は、まだ始まったばかりだった。




