間幕 第2話 「ヒヒーン!(パニック)」
宿町は、落ち着かない場所だった。
人も馬も荷車も多い。道の両側には旅人向けの店が並び、干し肉を吊るした店、革袋を売る店、馬具を直す職人、小さな屋台、湯気の立つ鍋まである。クロは荷馬車の上で、右へ左へと忙しく首を動かしていた。
「首、今度こそ取れないかい?」
「取れない。でも、目が足りない」
「目を増やす相談は受けてないよ」
「耳も足りない」
「それも無理だね」
商人は苦笑しながら、荷馬車をゆっくり進めた。
クロは鼻をひくつかせる。焼いた肉、油、香草、馬、濡れた藁、人の匂い。全部が混ざって、村とはまるで違う。
「ここ、ずっと何か焼いてる」
「宿町だからね。旅人は腹が減る」
「私も減ってきた」
「正直だね」
「匂いがずるい」
「匂いに文句を言う子は初めて見たよ」
「文句じゃない。抗議」
「同じようなものじゃないかい?」
「違うよ。文句は怒ってる。抗議は困ってる」
「なるほど。匂いに困ってるんだね」
「うん。お腹が起きた」
「君の体は会議でもしてるのかい」
商人が笑った、その時だった。
通りの先で、甲高い馬のいななきが響いた。クロの耳がぴんと立つ。荷車を引いていた馬が大きく跳ね、御者台にいた行商人が慌てて手綱を引いた。けれど馬は首を振り、さらに前へ飛び出す。
「おい、待て! 待てって!」
馬は待たなかった。荷車を引いたまま通りの中央を走り出し、人々が悲鳴を上げて道を空ける。屋台の女が鍋を抱え、子供が母親の腕に引っ張られ、荷車の車輪が石畳を叩いて跳ねた。積まれていた木箱が傾き、今にも落ちそうに揺れる。
「危ないね」
商人の声が低くなった時には、クロはもう荷台から飛び降りていた。
「クロ!?」
「追う!」
「追う!?」
「馬!」
「見れば分かるよ!」
商人の声を背中に聞きながら、クロは走った。速かった。自分でも、少し速すぎると思った。けれど、考えている暇はない。
馬の耳は伏せている。目は大きく開き、首は何度も振られていた。御者が手綱を引くたびに、馬はもっと嫌がって前へ出ようとする。止めようとしているのに、止まらない。たぶん、引かれるほど怖い。
クロは荷車の横へ回り込んだ。
並走する。
通りの人々が、一瞬、何を見ているのか分からない顔をした。
「は?」
「追いついた!?」
「馬車に?」
「猫獣人ってそういうものなのか?」
「いや、違うだろ!」
クロは御者へ叫んだ。
「手綱、緩めて!」
「馬鹿言うな! 緩めたらもっと走る!」
「引くから走ってる! 少しだけ! はやく!」
「できるか!」
「できる! 今なら道、空いてる!」
御者は青い顔をしていた。けれど、クロが馬と荷車の横を走りながら叫んでいるのを見て、何かを諦めたように手綱をほんの少し緩めた。
馬の首が少しだけ自由になる。それだけで走り方が変わった。前へ突っ込むような勢いが抜ける。まだ荒い。まだ速い。けれど、馬は一瞬だけ迷った。
クロはそこを逃さなかった。
「そのまま! 強く引かないで!」
馬車の速度が落ち、車輪の跳ね方が変わる。荷車は通りの端へ寄り、やがて大きく揺れながら止まった。
けれど、馬はまだ落ち着いていなかった。鼻息は荒く、前足で石畳を叩き、いつでもまた走り出しそうに首を振っている。
「止まった!」
誰かが叫んだ。
「いや、まだ危ない!」
クロはすぐに馬の正面には立たなかった。逃げ道をふさげば、また走る。だから少し斜め前。近すぎず、遠すぎず。馬がこちらを見ても、逃げられる場所に立つ。
「大丈夫。もう走らなくていいよ」
馬の耳が動いた。
クロはゆっくり息を吐く。
「怖かっただけだよね。急に痛いことあった? 大きな音にびっくりした?」
馬が前足で石を叩いた。次の瞬間、後ろ足が跳ねる。クロは沈むように身を低くして避けた。蹴りが髪の先をかすめる。
「あぶなっ!」
「大丈夫!」
「大丈夫じゃない!」
御者の声が飛んできた。
クロは返事をしながら、馬の動きを見ていた。耳。目。鼻息。首。足。まだ逃げたい。でも、どこへ逃げればいいか分からない。そんな感じだった。
「手綱、そのまま。強く引かないで」
御者は震えた声で頷いた。
「あ、ああ」
クロは馬の視界に入りすぎない位置で、少しずつ声を落とした。
「大丈夫。誰も追いかけてこない。怖くない。だから、もう走らなくていいよ」
言葉が通じているかは分からない。けれど、声の高さと速さは大事だと思った。怖がっている相手に、こちらの焦りを渡さない。それだけは分かった。
馬は何度か鼻を鳴らし、前足で石畳を掻いた。クロは動かなかった。通りも、なぜか静かになっていた。
やがて馬は、長く息を吐いた。首が下がり、耳が少し戻る。
御者が呆然と呟いた。
「……落ち着いた」
その瞬間、通りのあちこちから息を吐く音が聞こえた。
「おお……」
「止めたぞ」
「あの子、馬車に追いついたぞ」
「いや、追いつくか普通?」
「荷車の横を走ってたよな?」
「蹴りも避けてたぞ」
「猫獣人ってみんなああなのか?」
「いや、たぶん違うだろ」
ざわざわと声が広がる。クロは首をかしげた。
「止まったね」
「止まったね、じゃないんだよ」
息を切らせながら追いついてきた商人が額を押さえた。
「君は本当に、村を出た初日から何をしてるんだい」
「馬が困ってたから」
「困っていたのは馬だけじゃない。私の心臓もだいぶ困っていた」
「心臓、大丈夫?」
「君が落ち着いて訊くことじゃないよ」
御者は、ようやく荷車から降りてきた。顔はまだ青い。手には手綱を握ったままだが、さっきまでの力は入っていない。馬も隣で、荒い息を吐きながら大人しくしていた。
「ありがとう! 本当に助かった!」
御者は、何度も頭を下げた。
「下手したら通りの人を巻き込んでいた。馬も怪我をしていたかもしれないし、私も無事ではなかった。君、怪我は?」
「してない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
商人が横から言った。
「この子のたぶんは、たまに危ないからね。あとでちゃんと見るよ」
「見なくていいよ」
「見るよ」
「……見るの?」
「見るよ」
クロは少しだけ口を尖らせた。御者はそのやり取りを見て、ようやく少し笑った。
周りから、ぱちぱちと拍手が起きた。最初は一人。それから二人、三人。すぐに通りのあちこちから拍手が広がる。
「すごかったぞ!」
「よくやった!」
「小さいのに大したもんだ!」
「小さくないよ。もうすぐ十四」
クロが思わず言うと、近くの男が笑った。
「そこ気にするのか!」
「気にするよ」
「そうか、悪かった!」
また笑い声が起きた。
クロは少し困った。拍手をされるとは思っていなかった。ただ、馬が怖がっていて、人が危なかったから動いただけだ。褒められるのは嫌ではない。でも、多い。匂いも多いし、音も多いし、拍手も多い。宿町はやっぱり忙しい。
人混みの後ろの方で、誰かが小さく言った。
「あの子、馬の走り方を読んでいたのか?」
「いや……手綱を緩めた瞬間、馬の動きが変わるのを分かっていたみたいだった」
「声をかける前から、馬が少し反応してなかったか?」
その声は、すぐに周りの拍手に紛れた。クロには聞こえなかった。商人だけが、ほんの少しだけ目を細めた。けれど、すぐにいつもの顔へ戻る。
「ほら、まずは水を飲みなさい」
「水?」
「走って、跳んで、馬をなだめたんだ。喉くらい渇いてるだろう」
「そういえば、渇いた」
「そういえばで済ませない」
商人は呆れながら水筒を渡した。クロは素直に受け取って飲む。水は少しぬるかったが、美味しかった。
御者――馬の持ち主でもある行商人は、まだ恐縮した顔をしていた。
「本当に助かった。せめて礼をさせてくれ。君たちは今日、この町に泊まるのか?」
「そのつもりだよ」
商人が答える。
「なら、宿はこちらで手配する。夕食もだ。断らないでくれ。これで何もしなかったら、私の気が済まない」
クロは慌てた。
「でも、私は勝手に動いただけで」
「その勝手で助かったんだ」
御者は笑った。
「それに、馬も助かった。あの子はうちの大事な働き手だからね」
クロは馬を見た。馬は少し落ち着いた顔で、持ち主の横に立っている。さっきまでの荒さはかなり抜けていた。
「よかったね」
クロが言うと、馬の耳が少しだけ動いた。
商人がそれを見て、低く呟く。
「……本当に、耳が返事みたいに動くね」
「耳は正直だから」
「またそれかい」
「うん」
クロは真面目に頷いた。
「耳は大事」
「君の場合、それで済ませていいのか少し悩むね」
「何が?」
「なんでもないよ」
商人は肩をすくめた。
御者の案内で、二人は通りの奥にある宿へ向かうことになった。宿町の人たちは、まだちらちらとクロを見ている。
「あの子だ」
「馬を止めた子」
「いや、動きがすごかった子」
「猫獣人の子だろ」
「どこの子だ?」
声が聞こえる。クロは少しだけ肩を縮めた。
「見られてる」
「さっき目立つことをしたからね」
「目立つつもりはなかった」
「目立つことをする人は、だいたいそう言う」
「じゃあ、目立った」
「素直でよろしい」
「でも、ちょっと落ち着かない」
「そのうち慣れるよ」
「慣れるかな」
「王都はもっと人が多い。見られることにも、見られないことにも慣れた方がいい」
クロは首をかしげた。
「見られないことにも?」
「それは王都に着いてからのお楽しみだね」
「王都、やっぱり難しい」
「まだ王都じゃないよ」
「王都の手前から難しい」
「それはまあ、否定しない」
宿の前で、御者が振り返った。
「ここだ。部屋と夕食は私が持つ。好きなものを食べてくれ」
「好きなもの」
クロの耳がぴくりと立った。
商人が横目で見る。
「急に反応したね」
「好きなものって言った」
「聞こえたよ」
「宿のご飯?」
「そうだね」
「外のご飯?」
「そうだね」
クロの目が、さっき馬を見ていた時とは別の意味で真剣になった。
「……それは、ちゃんと確かめないと」
「食事を試験みたいに言うんじゃないよ」
「大事だよ。旅は忙しいから」
「何でも旅の忙しさに入れるね」
クロはこくりと頷いた。
宿の扉が開く。中から、焼いた肉と香草と温かいスープの匂いが流れてきた。クロは、思わず一歩止まった。
「……商人さん」
「なんだい」
「宿町、強い」
「今度は町と戦うつもりかい?」
「匂いが強い」
「それなら、夕食は期待できそうだね」
クロは真剣な顔で頷いた。
「うん。期待する」
商人は少しだけ笑った。
クロの初めての宿町は、荷馬車よりもずっと揺れる場所だった。




