序章 第20話「行ってきます」
出立の朝は、まだ暗いうちから慌ただしかった。
王都へ戻る商人には、前もって話をつけてあった。出立の前夜、商人はジェミノ村に一晩泊まってくれた。朝早く村を出れば、昼過ぎには街道の宿場まで進める。そういう段取りだった。
クロは小さな荷物を何度も確かめた。
着替え。布。水筒。干し肉と固焼きのパン。母が包んでくれた薬草。父が持たせてくれた小さなナイフ。何度も読み返した建国記は、持っていくには重すぎるので、家に置いていくことになった。
代わりに、分からない言葉を書き写した紙束を入れた。
竜騎士団へ入れると決まったわけではない。
ただ、門が開かれていることだけは分かっていた。
巡回に来た兵が、王都の竜騎士団では今年も志願者を受け付けると教えてくれた。商人も、王都で聞いた話として、十四歳になった者なら試験を受けられるはずだと言った。
だからクロは行く。
まだ、何者でもない。
けれど、行かなければ始まらない。
「クロ、これは?」
母が包みを指した。
「干し肉」
「こっちは?」
「替えの布」
「水筒は?」
「入れた」
「薬草は?」
「入れた。二回見た」
「三回見てもいいわよ」
「じゃあ、今ので三回目」
母は少し笑った。
父は戸口のそばで、荷物の紐を確かめていた。
「結びが甘い」
「えっ」
「ここだ」
父は短く言って、クロの荷物の紐を結び直した。強く引いてもほどけず、けれど解こうと思えばきちんと解ける結び方だった。
クロはそれをじっと見る。
「それ、覚える」
「今覚えなくてもいい。そのうち自然と覚える」
「それもそう」
クロが頷くと、父はほんの少しだけ口元を緩めた。
いつもと同じ朝のようで、いつもと違う。
母の手は少し忙しなく、父の口数はいつもよりさらに少なかった。ヨルはまだ眠そうな顔をしながら、クロの外套の裾を握っている。
「くろ、いく?」
「うん。行く」
「とおく?」
「遠く」
「りゅ?」
「うん。竜のいるところ」
ヨルは少し考えたあと、外套の裾をぎゅっと握った。
「よるも」
「ヨルはまだ早いよ」
「はやい?」
「うん。まず転ばずに走れるようになってから」
「ころばない」
「昨日も言ってた」
「じめんが、きた」
クロは笑った。
母も笑い、父も小さく息を吐いた。
それでも、ヨルの手は離れなかった。
出立まで、まだ少し時間があった。
クロは家の裏へ回った。
石のそばに、かけしっぽがいた。
尾の欠けた小さな蜥蜴は、いつものように石の上で体を低くしている。朝の冷えた空気の中で、まだ動きは鈍い。
クロは少し離れた場所でしゃがんだ。
近づきすぎない。
もう、その距離は分かる。
「行ってくるね」
かけしっぽは動かなかった。
小さな目だけが、こちらを見ている。
クロはしばらく黙っていた。
最初にこの石のそばで、かけしっぽを見続けた日のことを思い出す。尾が欠けているのに、ちゃんと生きていたこと。逃げる時と狙う時で動きが違ったこと。何時間でも見ていられたこと。
あれが、たぶん始まりだった。
見ていると、違う。
そう思った日から、クロはずっと見続けてきた。
かけしっぽ。
ロザの翼。
黒よりも黒い竜。
白い竜のいない空。
赤い竜の隊列。
地図にないジェミノ村。
見続けて、読んで、考えて、試して。
ここまで来た。
「ヨルがいるから」
クロは小さく言った。
「相手してあげてね。あの子、すぐ近づくから。逃げてもいいけど、たまには見せてあげて」
その時だった。
――退屈。
ふっと、胸の奥に落ちてきた。
声ではない。
言葉でもない。
けれど、言葉にすれば、たぶんそうだった。
クロは一瞬ぽかんとして、それから笑ってしまった。
「そっか。退屈か」
かけしっぽは何も答えない。
ただ、石の上でじっとしている。
クロは笑ったまま、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、ヨルが来たら少しは退屈じゃなくなるよ。たぶん、うるさいけど」
かけしっぽは、ゆっくりとまばたきをした。
それが返事かどうかは分からない。
でも、クロにはそれで十分だった。
家の前に戻ると、商人の荷馬車が用意を終えていた。
馬が鼻を鳴らし、荷台の布が朝風に揺れている。商人は眠そうな顔をしながらも、手綱の具合を確かめていた。
「準備はいいかい?」
「うん」
「忘れ物は?」
「たぶんない」
「たぶんは少し怖いね」
「三回見たから、たぶん大丈夫」
「なら大丈夫だろう」
商人は笑った。
王都へ向かう道は、もう何度も見た道だった。
けれど、その道を自分が進むのだと思うと、景色の色が少し違って見えた。
家。
畑。
水路。
芋酒の小屋。
見張り台。
王国軍の兵が直してくれた柵。
ヨルが転んだ石。
かけしっぽのいる石。
全部、ここにある。
全部、置いていく。
そう思うと胸が苦しくなった。
けれど、捨てていくのではない。
帰ってくる場所として、ここに残していくのだ。
クロが荷馬車へ向かおうとした時、父が呼び止めた。
「クロ」
「うん」
父は、小さな革袋を差し出した。
クロは受け取った。
思っていたより重かった。
「……これ」
中を見て、目を丸くする。
銀貨が入っていた。
少なくない数だった。
「こんなに、いいの?」
「王都では、何をするにも金がいる」
父が言った。
母も頷いた。
「いつからだったかしらね、こんな日が来るかもって、少しずつよけておいたの。全部を好きに使っていいわけじゃないけれど、困った時のために持っていきなさい」
「でも……」
「持っていきなさい」
母の声は、やわらかかった。
けれど、そこだけは譲らない声だった。
クロは革袋を両手で握った。
何も言えなかった。
自分が走っている間。
仕事を急いでいる間。
言えずにいた間。
もしかしたら、もっとずっと前から。
父と母は、ずっと準備をしてくれていた。
クロがいつかこの日を迎えることを、知っていたのだ。
「……ありがとう」
やっと出た声は、小さかった。
母がクロの頬に手を当てた。
「無駄遣いはしないこと」
「うん」
「知らない人についていかないこと」
「うん」
「具合が悪い時は我慢しないこと」
「うん」
「ちゃんと食べること」
「うん」
「寝られる時に寝ること」
「うん」
「手紙を書けるなら書くこと」
「……うん」
「あと」
母はそこで言葉を止めた。
目が少し潤んでいた。
「時々でいいから、元気な顔を見せに帰ってきて」
クロは唇を結んだ。
泣かないつもりだった。
今日は泣かない。
そう決めていた。
けれど、目の奥が熱くなる。
父が一歩近づいた。
「行ってこい」
短い言葉だった。
それだけで、胸がいっぱいになった。
クロは荷物を抱えたまま、父と母に抱きついた。
母の腕が背中に回る。
父の手が、頭に置かれる。
「行ってきます」
小さな声で言うと、母が頷いた。
「行ってらっしゃい」
父も短く言った。
「行ってこい」
ヨルが慌ててクロの腰に抱きついた。
「よるも」
「ヨルはお留守番」
「やだ」
「かけしっぽの相手、お願いしたでしょ」
「かけしっぽ」
「うん。退屈してるみたいだから」
ヨルは目を丸くした。
「たいくつ?」
「たぶんね」
「よる、あそぶ」
「近づきすぎないこと」
「そーっと」
「そう。そーっと」
ヨルは真剣に頷いた。
クロはその頭を撫でた。
「お願いね」
「うん」
荷馬車の方から、商人が声をかけた。
「そろそろ出るよ」
クロは頷き、荷物を持ち直した。
その時、村の方から声が聞こえた。
「クロ!」
振り返ると、村の人たちが集まっていた。
酒造りの小屋にいた大人。畑へ向かうはずだった人。子供たち。巡回の兵の一人まで、少し離れたところに立っている。
いつの間に集まったのか分からない。
クロは目を丸くした。
「え、なんで」
「なんでって、見送りだろ」
誰かが笑った。
「王都で迷うなよ!」
「俺らの酒の宣伝よろしくな!」
「変な商人に丸め込まれるなよ!」
「おい、商人の前で言うな」
商人が苦笑する。
「失礼な村だねえ」
「クロ、頑張って!」
「竜騎士団に入ったら、空から手を振って!」
「いや、見えるか?」
「クロなら見つけるだろ」
「それもそうだ」
声が重なる。
笑い声が起きる。
クロは立ち尽くした。
胸の奥がまた熱くなる。
ジェミノ村。
地図には、まだ書かれてもいない場所。
けれど、ここにはこんなに人がいる。
クロを見送ってくれる人がいる。
父が言った。
「村の心配はいらない。おまえは前を見ろ」
母が頷いた。
ヨルが両手を振った。
「くろー!」
クロは荷馬車の横に立ち、村の方を向いた。
父がいる。
母がいる。
ヨルがいる。
村のみんながいる。
畑も、水路も、芋酒の小屋も、見張り台も、かけしっぽのいる石も、全部ここにある。
帰ってくる場所だった。
だからクロは、胸いっぱいに息を吸った。
「行ってきます!!」
声は、思っていたよりずっと遠くまで響いた。
村のみんなが、一斉に手を振った。
「行ってらっしゃい!」
「行ってこい!」
「ちゃんと帰ってこいよ!」
「王都に負けるな!」
ヨルも、両手をぶんぶん振っている。
「いってらっしゃい!」
クロは笑った。
泣きそうだった。
でも、笑った。
荷馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が土を踏み、朝の道を進み始める。
ジェミノ村が、少しずつ後ろへ離れていく。
クロは何度も振り返った。
父と母の姿が小さくなる。
ヨルの声が遠くなる。
村の人たちの手が、朝の光の中で揺れている。
それでも、クロは前を向いた。
王都へ続く道がある。
その先に、竜騎士団の門がある。
まだ何も決まっていない。
試験を受けられる保証なんてない。
門の前で帰されるかもしれない。
自分より強い人も、賢い人も、たくさんいるだろう。
けれど、行く。
竜のいる空へ近づくために。
地図にない場所まで、いつか飛んでいくために。
間に合える人になるために。
朝の光が、道の先を照らしていた。
クロは荷台の上で、革袋を胸に抱いた。
胸の奥には、家族の声がある。
村のみんなの声がある。
かけしっぽの、退屈そうな聲もある。
クロは小さく笑って前を見た。
黒猫は、竜の空へ向かっていく。
ーーー黒猫竜騎士物語 序章 ENDーーー
以上をもちまして、『黒猫竜騎士物語』の序章は幕を閉じます。
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。
本序章では、皆様にクロの目を通して世界を見ていただき、彼女が何を感じ、どのようにして竜騎士団への憧れを抱くようになったのかを、少しずつ追体験していただけるよう意識して書いてきました。
そのため、台詞や地の文も、クロの感情や言葉がまだ育ちきっていない時期から始まり、物語が進むにつれて少しずつ輪郭を持っていくように構成、表現しています。
正直なところ、読みづらいと感じられる部分もあったかと思います。
私自身、そうした表現が物語としてきちんと機能しているのか、あるいは自己満足に終わっていないか、今でも自問自答しているところです。
もしよろしければ、皆様の感想をお聞かせいただけますと幸いです。
重ねて申し上げます。
『黒猫竜騎士物語』を読んでいただき、誠にありがとうございました。
次章につきましては、まだプロット段階であり、執筆には少し時間がかかるかと思います。
それでも、これからもクロの歩みを、どうか見守っていただければ幸いです。




